王妃様へのお返事を数日伸ばしていた間に、私の決断は大きく変わってしまいました。


 それは、ある夜のこと。

 夕食後の皿洗いの仕事を終え、十人部屋に戻る途中のことでした。

 黒い石壁の横を、疲れ果てた足を引きながら歩いていました。あの話以来訪れる妄想と仕事の疲れで、私は立ち止まり、ほっとため息をつきました。

 そのとたん、暗闇から誰かが私の口を抑え、そのまま、通路横の茂みの中へと引き込みました。

 私は、ひどく動揺し、バタバタと暴れました。

 エーデム族ばかりの城内でこのような不埒者はいません。外部から忍び込むには、難しい城です。ですが、事実、私は完全に体を押さえつけられ、茂みの中に押し倒されているのです。

「しっ! 静かに! 何もしないから、レサ!」

 暗闇から囁くような声がしました。それは、ドンの声でした。

 よく見ると、見張り役なのか、ジンが後ろ向きで城のほうを向いています。口を抑えているのはドン、私の体を押さえつけているのがカーンでした。

 先日のことを思い出し、私はますます暴れました。すっかり恐慌状態で、何度かドンの指に噛み付きました。

「何もしない、何もしないよ、レサ! セルディに誓って」

 あの方の名前を聞いて、私はやっと落ち着きました。

 

 私の心配は当たりました。

 彼らは、仕事を既に首になっていて、イズー城から追放されていました。

 勝手を知っていたから、ここまで忍び込めたのですが、私が騒いで捕まったら、地下牢行きは免れなかったでしょう。


「どうしてもレサにお別れをいいたくて……」

 ドンが言いました。

「しっ、人が来る!」

 ジンの言葉に、私たちはさらに茂みの奥へと隠れました。人気の全くない場所まで逃れると、三人は私の前に座りました。

「この間はごめん、レサ。あんなことになって、信じないかもしれないけれど、やっぱりレサは、俺らの姫君さ。だから、どうしても最後に会いたくて」

 暗闇で、あまり顔は見えません。でも、セルディ様の名前が、私に彼らを信じさせました。

「最後って……どこに行くの? あてはあるの?」

 カーンが小さな声で言いました。

「俺ら、リューに行くことにした。セルディが呼んでいるって、トビから手紙がきて」

「セルディ様が?」

「ああ、詳しいことはわからないけれど、あっちで雇ってくれるって」

 私は手紙を見せてもらいました。

 が、残念ながら暗すぎて見えません。どっちみち、彼らはまだ文字がよく読めないので、用件のみしか書いていないようでした。

「セルディもトビもタカも戻らないんじゃ、ここにいてもしょうがないし」

 ジーンが恥ずかしそうに言いました。

「セルディに……何か伝えることがあれば、伝えておくよ」


 あの方は戻ってこない。

 私は、伝言を託すだけ……。


 これが、私の運命の分かれ道でした。

 たとえ、エーデム王の娘になったところで、美しい衣装に身を包んだところで、あの方がいないエーデムに何の未練があるでしょうか? 孤児には考えられないような幸運。それに何の意味があるのでしょうか? あの方がいないことに、いったいどれだけ耐えられるのでしょうか?

 耐えられません。

 だって、私はあの方を愛しているのですから。

「伝言なんかない! お願い、私も連れて行って! セルディ様のところへ!」

 三人は驚いて顔を見合わせました。しばらく無言でしたが。

「だ……だめだよ。レサは、エーデム族だし……。リューってひどい街なんだ。とても住めたところじゃないし」

「レサが一緒だとうれしいけれど、きっとセルディに怒られるよ」

「悪いことは言わないよ。レサはイズーにいたほうがいい。そのうち、セルディだって、エーデムに帰るかも……」

 でも、帰らないかも知れない。いえ、帰らない。だから、三人を呼び寄せたのです。あの方は。

 確かに、リューの街はイズーとは比べ物にならないくらい、危険で未知なところでした。エーデム族の私には、住めるところではないでしょう。

 でも、あの方と一緒なら、どこだって私は耐えられると思いました。

「連れていってくれないと、ここで大声を出すわ! そうしたら、誰もリューになんて行けないんだから!」

「うわ! レサ! や、やめろ!」



 こうして私はエーデムを捨てたのでした。

「せっかくのお心遣いを無駄にして申し訳ありません」

 王妃様や仕事仲間に、短すぎる手紙を残し、挨拶もしない無礼を働いて。

 育ててくれた恩や、お世話になったことを考えると、とても心が痛みました。残していく孤児たちのことや、たくさんの仕事のことも、心残りでした。

 おそらく私は罵られ、憎まれるでしょう。

 でも、私はすべてを捨てました。


 もう二度と、エーデムには帰らない。

 その強い決意で――。


 けれども、私の決意は、あの方には重荷だったのです。

 あの方の心の中に、わたしは少しもいなかったのですから。

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