第12話 甘い吐息で深呼吸

 無事に単行本が発売された。自分の漫画が書店に並んでいるところを見た感動は筆舌に尽くし難い。初めての単行本にしては売上はそこそこで、今後の売れ行き次第で2巻目が出るかどうかが決まるらしい。出て欲しいなとは思うけど、こればっかりは神に祈るばかりである。だから私はひたすら描くしかない。

 気づけば、ミカゲさんが姿を消してから半年が経とうとしている。単行本分の収入が増えたので、少し贅沢することを覚えた。食事は通販や出前で済ませるようになったので(とはいえ、相変わらず食べないことの方が多いんだけど)、ますます外に出ないようになり。今や一日の時間のほとんどを、漫画にあてている。そうしていないと考えてしまうから。ミカゲさんと過ごした日々のことを、ミカゲさんの柔らかな笑みを。

 漫画を描いている間は、私は『絢本すず』でいられる。漫画さえ描いていれば、元彼女さんの身代わりになって無残に失恋した『鈴木絢』──もとい、『アヤちゃん』はもうここにはいない。そう思わないと、やっていられなかった。



 * * *



 最新話の原稿について直接話がしたい、と小宮さんから呼び出しされた。数日ぶりにシャワーを浴びて、いつものファミレスに向かった。待っていた小宮さんの表情から、「これはよくない話だな」と直感する。


「……とりあえず、おかけください」


 促されるまま向かいに座る。よくない話だと分かる以上、先延ばしにするのは嫌だった。注文もそこそこに、小宮さんに尋ねる。


「今回の原稿、何かダメなところありました?」


 小宮さんは私の勢いに一瞬怯んで、すぐにいつものきりりとした表情に戻った。


「その話はおいおい。まずは提案をさせて頂いてもいいですか?」

「提案って?」

「絢本先生。しばらく、描くのをお休みなさってはいかがでしょうか」


 彼女からの『提案』に、言葉を失った。描くのを、休む? それって、打ち切り? 契約切り? もしかしなくても、戦力外通告……? 

 嫌な単語がすごい勢いで頭の中を駆け巡る。顔に血の気がどんどん無くなっていく。


「あ、勘違いしないでください。打ち切りとかそういうお話ではないです」


 彼女がフォローするように言葉を付け足した。


「……ただ、このままですと危ない、とは言っておきます」

「!」


 彼女の言葉がにわかには信じられなかった。描くことに専念しているから、画力がメキメキと上がっている自負はある。執筆スピードだってかなり早くなって、今でも数話先までストックしてある状態だし。単行本だってそれなりに売れてるし、相変わらずランキングも……トップとはいかなくても、上位をキープしているのに。


「確かに絢本先生は、初期とは比べ物にならない位画力も上がりましたし、ファンも増えました。現在の執筆スピードに関しても申し分なく、私たちからしたらとても有難いです」

「なら、どうして」


 小宮さんは、ちらり、と伺うような私に目線を向けた。ショックを隠しきれない私の表情を見て少し口を結んだが、そのうちふぅ、と息を整えた。


「担当編集として、あえて厳しいことを言わせていただきます。今回の原稿についてもそうですが、最近の絢本先生のお話には、心を動かされないんですよ」

「……え……」

「キャラの表情やセリフ一つ一つとっても、機械的なんです。以前のように、キャラへの愛が感じられないというか。ただ描いてる。そんな印象を受けます」

「そんなことは……」


 否定しかけて、言葉が止まった。本当にそんなことはない? 

 以前は描くことが楽しくて楽しくてたまらなくて、他のことをしている余裕が無いくらい筆が止まらなくて。上手く描けないことがあっても、それ含めて楽しかった。

 でも、今は? ミカゲさんのことを考えないように、漫画のことで頭をいっぱいにして、心に蓋をするために描いている。そのために、ただ、描いてる──。

 バカだ、私は。現実から目をそむけるために、そんなふうに漫画と向き合っていたなんて。そんなことに今更気づくなんて。プロ失格だ。

 膝の上で、ぎゅっと拳を握る。爪が皮膚にくい込んでいるのに、あまり痛さを感じない。俯いたまま顔を上げることが出来ない私に、小宮さんはさらに続けた。


「……私たちは、ただ漫画を描き続けるロボットが欲しいんじゃないんです。人の心を動かすのは、やはり人なので。そういう漫画を、絢本先生には描いていただきたいんですよ」


 人の心を動かす漫画──確かに、気持ちに蓋をしたままの今の私には、到底描けないものかもしれない。


「単行本作業の時から、ずっと休んでないでしょう? 幸い、数話先までストックはありますから、長期で休んで旅行に行くとか、一度漫画から離れてリフレッシュした方がいいです」

「……でも」


 今までの人生漫画だけをひたすらがむしゃらに描いてきたのに、それを急にしなくなるなんて、想像ができなくて怖い。リフレッシュの方法なんて、すぐには思いつかない。


「でもじゃないです。しっかり休んでください。前も言いましたけど、今の絢本先生は、肌もボロボロだし、かなり痩せてしまって、いつか倒れるんじゃないかとヒヤヒヤします。ちゃんと食べて、しっかり寝てください。そして、さっさと回復して今まで以上に面白い漫画読ませてください。私だって……絢本先生の担当編集である前に、先生の漫画のファンなんですから」

「……小宮さん……!」


 思いもよらなかった小宮さんの言葉に、私は動揺と感動で声が出なかった。小宮さんは私の熱視線に恥ずかしくなってしまったのか、ぷい、と顔を背けてしまった。ああっ……ツンデレ……! 

 って、浮かれてる場合じゃない。普段そんなこと言わない小宮さんが言うほどだ。漫画の出来も、私の姿も、よほど酷い様子だったに違いない。それならば、今私が出せる答えは一つしない。


「……わかり、ました。少しだけ……本当に少し、お休みをいただきます」


 私がそう告げると、今までそっぽ向いていた小宮さんが、やっとこちらを見て笑ってくれたのだった。



 * * *



 とぼとぼとした足取りで帰路につく。こうしてお休みをもらってしまったが、何をするべきなのか全く思い浮かばない。小宮さんは旅行とか言っていたけど、元来インドア派な私だ。飛行機の取り方はおろか新幹線の乗り方もわからないし、観光スポットもよく知らない。習い事でも始めてみる? でも、私今まで漫画以外に没頭できた趣味ってなかった。そう考えると私、本当に描くこと以外何も持ってなかったんだな……。

 玄関の鍵を開ける前に、隣の部屋──元・ミカゲさんの部屋を見てしまう。ミカゲさんが出てからは、一度も誰も入っていないただの空き部屋だ。それなのに、こうして目を向けるのが半年前からのくせになってしまっている。ああもう、いつまでたっても、思いが断ち切れない。この部屋から出ない理由も、本当は……あのリズムでチャイムが鳴ることを、どこかで待ってしまっているからで。

 いつ見ても、酷い部屋だ。ミカゲさんが来なくなってから、足の踏み場もなくなってしまった。漫画が売れてきたからって、部屋がこんな様子だったら母は悲しむだろう。休み、貰ったし。部屋の掃除をするべきか。……あれ、でも、ゴミ袋って、どこにあるの? いつもミカゲさんが掃除してくれていたから、自分の家のゴミ袋の場所さえわからない。本当に私、どうしようもない……。

 生まれ変わらないといけない。ミカゲさんのことを断ち切って、身の回りのことも、仕事も、全部がちゃんとできる大人の女性に。そのためには……まずは片付けられないままでいる、この胸の感情をどうにかしなくちゃ。

 ふらふらと机に向かう。漫画を描くためじゃない。気持ちを整理するために。私には描くことしかない。なら、私は私のために絵を描こう。伝えられなかった想いを一筆ずつ丁寧に乗せて。感謝と、好きをたくさん込めて、ミカゲさんを描こう。あの笑顔は、しっかり頭の中に焼き付いている。資料なしに描くことなんて造作もない。

 少し角ばった輪郭。ボサボサ頭の毛先はいつも違う方向を向いていたけど、大丈夫、描ける。大好きな目元。くしゃりと笑うと、目尻に優しい笑い皺が出来るんだ。描いているうちに何度か胸が苦しくなったけど、描くことはやめない。描き終わるまで、絶対やめない。

 何時間経ったのだろうか。こんなに集中して、自分が描きたいものを描いたのはいつぶりだったか。お陰で、自分でも満足のいくミカゲさんが描けた。自分で言うのもなんだが、かなりの再現率だ。誰に見せるでもない、私のためのミカゲさん。

 しばらくその絵を眺めていたら、あの時散々泣いてもう枯れたと思っていた涙がまた滲んできた。


「……っふ、ミカゲさん、ミカゲさん……」


 画面に触れてみる。当たり前に、温度も感じない。


「本が出たこと、褒めてもらいたかった……っ! 一緒に乾杯とかして、お祝いとか、したかった……! なんで突然いなくなっちゃうんですか。まだ、今までのお返しも、してないっ、のに……っ」 


 ろくに水分さえ取っていないのに、この水は一体どこから出てくるのだろう。次から次へと溢れてきて、止まらない。


「ミカゲさんの中に私が入り込む隙がなかったんなら……せめて、せめてっ……! 直接、好きって伝えたかった……っ! 置いていかれる悲しみ、自分が一番知ってるくせにっ……なんで居なくなっちゃうの、ばかぁ……!」


 今日くらいは、恨み言でもなんでも言わせてほしい。今日、たくさん泣いたら、この絵のデータも全部消す。せっかくお休みも貰ったし、頑張って掃除して、どこか別の場所に引っ越す。思い出が詰まったこの家とは、おさらばするから。だから──


 ガタンッ! 


 その時、空き部屋であるはずの隣の部屋から物音がして、私は思わず肩を震わせた。だ、誰。もしかして、大家さんが掃除にでも来ていたのだろうか。だとしたら、さっきの、聞こえてたよね。こんな大声で泣いていて、恥ずかしい。

 隣に人がいるとわかった以上、さっきみたいに大声で泣くのも躊躇われた。少し冷静さも取り戻しつつあって、鼻をすすりながら、この後どうしようか、と考えていた──その時だった。聞き慣れたあのリズムで、私の部屋のチャイムが鳴り響いたのだ。


「っ……⁉︎」


 落ち着け、落ち着くんだ私。もうミカゲさんはいないんだから、きっと宅配便か何か。たまたま音が似ただけ。きっとそう。

 頭ではそう繰り返しても、体はもう玄関まで走り出していた。足の踏み場もないので、何度も躓きながら。涙で濡れた頬もそのままに、私は勢いよく玄関のドアを開けた。


「……アヤちゃん、お久しぶりです」


 懐かしいその音を聞けば、そこに誰がいるのかなんて見なくてもわかる。顔を上げるとやっぱりそこには、少し気まずそうに眉を下げながら、ボリボリとボサボサの頭を掻くミカゲさんがいて。なんでとかどうしてとか、いろんな疑問はすっ飛んでしまった。次の瞬間には、私は彼の胸に飛び込んでしまっていた。突然のことだったのでミカゲさんは後ろによろめいたけど、しっかり私を支えてくれた。

 夢じゃない。温度もある、匂いもある、生身のミカゲさんだ。私が作り出してしまった幻だったらどうしようかと思った。


「……とりあえず、ここで立ち話もなんですから、入れていただいても?」


 久しぶりの再会だと言うのに、ミカゲさんはあまりにもいつも通りで。なんだかずっと会ってなかったことの方が嘘のように思えた。



 * * *



 墓参りに行ってきたんです、行ったことがなかったので。

 そう言ってミカゲさんは微笑んだ。誰の、かなんて、聞かなくてもわかる。ミカゲさんもあえて言わなかった。どこかスッキリした顔をしているのは、彼女ときちんとお別れをしてきたから、なのだろうか。

 聞きたいことは色々とある。でも、何から聞けばいいのか、どこまで聞いていいのかも分からなくて、言葉が出ないままでいる。

 すると、ミカゲさんは部屋の中を覗き込んで、アレを見つけてしまった。


「また、絵が上手くなったんじゃないですか?」

「えっ……、わ、わぁぁあ!」


 絵のモデル本人に見られるなんて。恥ずかしさで死ねる。今すぐにパソコンの電源を落としてやりたいが、そんなに簡単に机にたどりつけるほどこの部屋は片付いていない。


「……ごめんなさい。さっきの、聞こえていました。隣にいたので……すみません」

「な!? か、帰ってきて……!?」

「いえ。まだ、正式には。またあの大学で働けることになったので、またこちらに住まわせてもらおうかなと、大家さんのご厚意で中を見せてもらっていました」


 なんてこと。本人には届かない前提で喋っていたのに、全部全部聞かれていただなんて。唖然としていると、ミカゲさんがふふ、と笑った。


「アヤちゃん。僕ね、あなたとの関係について真面目に考えようと、一度距離を置いてみたわけなんですけど」

「……えっ? それで姿を消したんですか? 半年近くも? 相談なく?」

「ええ。アヤちゃんお仕事忙しそうでしたし」


 サラリと言ってのけるミカゲさんに、開いた口が塞がらない。確かに単行本化作業でずっと忙しくしてた。でも、だからって。私がどれだけショックを受けたと思っているんだ。

 そうは思うも、どこか納得してしまってる自分もいる。そうだよね、ミカゲさんってそういう人だよね。人付き合いは割と淡白で、それでいて研究者気質というか……。


「それでねぇ。離れてる間も、アヤちゃんのことばかり考えていたんですよ。アヤちゃん、ちゃんとご飯食べてるかなぁとか、また机で寝ちゃってないかなぁとか、無理して体壊してないかなぁとか。そう考えて、どうにもそわそわしてしまうんですよね。そんなふうに誰かを思うのは、初めてなんですよ」


 そんな、あまりにも平凡で、あまりにもありふれたこと。でもそれって、彼の心の中に、元彼女さんじゃなく、私がいたってこと? 

 胸が詰まって、息が苦しい。また目が勝手に潤んでくる。ミカゲさんの中に、私がいた事が、こんなにも嬉しい──。ミカゲさんはそんな私を見て、いつものふにゃりとした笑みを浮かべて、言った。


「アヤちゃん。どうやら僕には、亡き彼女の代わりじゃなくて、アヤちゃんが必要みたいなんですけど。アヤちゃんは本も出て、お仕事順調だから……僕のことは必要ないですか?」


 分かってるくせに。これだからミカゲさんは、ずるい。


「……っ、全然、お仕事順調じゃないです。原稿上手くいかなくて、休むようにも言われちゃったし。それに……この部屋見たら分かるでしょ。私、ミカゲさんが居ないとダメなんです。こんなふうにしたの、ミカゲさんなんですから……っ! 責任、取ってくださいよ!」


 体当たりをする勢いで、ミカゲさんの胸元に飛び込んだ。今までの恨みを込めて、胸板をポカスカと殴るけれど、ミカゲさんには全く効いていないようだった。それでも、私の気が済むまで、その拳を甘んじて受けてくれている。

 だんだん疲れてきて腕を止める。すると、簡単に両手を捕えられてしまった。


「責任、取りますよ。だから一緒にいましょう」


 ふ、と顔が近くなる。キスされる、と思って身構えたのに、唇は触れなかった。その代わりに、ミカゲさんの吐息が唇に触れる。


「……そういえば、直接言ってもらえるのでは?」

「……っ!」


 ちくしょう、覚えてた。似顔絵に言うのと、本人に言うのとでは、全然違うのに。この年で、こんなこと、言わされることになるなんて。どんどん顔に熱が集まってくる。ああもう。

 すき、と音もなく言った。その瞬間に、私の唇は奪われていた。激しくてクラクラするようなキスだった。


 唾液も、吐息も、全部混ざりあって。2人の境界線さえも、甘く溶け合って。このまま溶けてなくなってもいい。そう思えるくらい、私は彼にダメにされている。

 キスとキスの合間──甘い吐息の中で、深呼吸をするように息を吸う。その次に唇を合わせた時に、少しでも長い時間、彼と触れ合うことができるように。



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