第11話 鳴らないチャイム

 あの日あった出来事を考えないように、描いて描いて、とにかく描いて。打ち合わせ以外は外に出ないで、描いて描いて。そうしていたら、いつの間にか数話分のストックができてしまった。

 ミカゲさんが姿を表さないので、部屋は荒れる一方だった。でも、置き去りになったミカゲさんの飲みかけのコーヒーが物に埋もれていてくれた方が、心が揺れなくていい。

 しかしながら、漫画のほうは順調だった。ランキングも常に上位をキープするようになり、応援ポイントやコメントも今まで以上に増えてきて。というか、今の私にはそれだけが支えだった。だからそれに応えるように、描いて描いて。そんな日々がしばらく続いて──そして、私に思ってもない朗報が舞い込んできた。


「た……単行本化!?」

《はい。先程出版社の方交えた会議で決定しました。おめでとうございます》


 電話越しの小宮さんの声は、こころなしか少し弾んでいるように思えた。


《人気も安定してきましたし、先日のキャラ投票も、男子部門でタカヒロが一位だったじゃないですか。いい波が来てますし、するなら今だと》


 他の連載作家さんの作品が単行本化されて書店に並ぶのは今まで何度も目にしていた。そのたびに羨望のまなざしをむけ、時には嫉妬で落ち込むこともあった。

 でも、私の漫画が単行本化。私の漫画が書店に並ぶ。それは昔からの夢だった。専門学校を卒業してからずっと漫画を描いてきたが、ようやく一人前の漫画家として認められたような気がする。ネットに疎く、私の漫画を読めていない田舎の母も、単行本になれば娘の活躍が目に見えるようになって喜んでくれるだろう。


《というわけで、これからかなり忙しくなります。単行本化にあたって、表紙・裏表紙・カバー裏のイラストの打ち合わせに、一話目からの修正。あとは、ウェブ版再録だけじゃ買い手はつきませんから、単行本版描き下ろし番外編も必要ですし、宣伝用イラストも何パターンか。さすがに全部は回せないと思うので、何度か休載をはさみながら少しずつ……》

「やります。やらせてください」


 きっぱりと言い放った私に、小宮さんのほうがうろたえた。


《いや……無理はしなくて大丈夫ですよ? 他の作家さんも休載はさみながら単行本化作業進めてましたし、というか休載はさまないととてもやってられる量では》

「読者さんが待ってくれてますから。連載のほうは数話分ストックできてるので、後で送ります。修正あれば直しますし。休載は嫌です。やらせてください」

《…………わかりました。でも、無理だけは絶対にしないでくださいね》


 しばしの沈黙が続いた後、小宮さんは渋々了承をしてくれた。それから、今後の流れなどを大まかに説明してもらった。


《あと、一点だけ注意していただきたいんですけど、単行本化の件は発表できるレベルまで作業が進んでから運営から公表しますので、ご家族とか、少数の方にはお話してくださって大丈夫ですけど、あまり公にしないでくださいね》

「はい。わかりました、ありがとうございます」


 電話を切って、後から喜びがこみあげてきて、その場で思い切りガッツポーズをする。単行本化。私の漫画が、単行本化! まずは母に連絡しよう。きっと自分のことのように喜んでくれるに違いない。あとは、私の夢を応援してくれていた専門時代の友人に、それから、それから。


『──すごい、よく頑張りましたね。おめでとうございます』


 はきっとそう言って抱きしめてくれるだろう。糸のような目をさらに細めて笑うボサボサ頭が脳をよぎって。そのイメージを霧散させるために慌てて首を振る。

 これから忙しくなる。しばらくは彼のことを思い出さなくていい。だって、忙しくしていないと、あのリズムでチャイムが鳴るのを待ってしまうから。

 母に連絡したら、作業再開だ。ペチン、と両頬を叩いて気持ちを入れ替えてから、母の携帯への通話ボタンを押した。



 * * *



「これであらかた終わりましたね。本当に、休載せずに済むとは思いませんでしたよ」


 何度も出版社の方交えて打ち合わせして、依頼されたことを一つ一つ片付けて。単行本化の作業は、小宮さんが思っていたよりもずっと早く終わった。何せ、打ち合わせ以外はこの数ヶ月の間、描くか寝るかしかしていない。食事は描きながらしてるし。


「こちらとしても嬉しい限りです。見本が出来たら郵送しますね!」

「分かりました。ありがとうございます」


 単行本化の件でお世話になっている出版社の沼澤さんは、人懐こい大型犬のような笑みを零した。この手の男性は周りにいなくて興味深かったが、残念ながら左手には結婚指輪が光っている。

 話が一旦終わったところで、小宮さんが怪訝そうに私に言った。


「でも……以前よりずっと顔色が悪いですよ。ちゃんと食べてますか? ちゃんと寝てますか?」

「ちゃんと食べてますし、寝てますよ」


 一日一食は食べてるし、最低でも三時間は寝ている。寝付きは浅いけど。


「……なら、例の彼氏さんと何かありましたか?」


 鋭すぎる。なるべく表に出さないようにしていたのに。これが女の勘ってやつなのか。でも、こんなプライベートな話を仕事相手とする訳にもいかないので、慌てて否定に入る。


「いやだから彼氏じゃ、」

「えっ、絢本先生恋人いらっしゃったんですか!? 存じ上げませんでした。じゃあ今回悪いことしてしまいましたね。絢本先生のこと独占しちゃって」

「いや……ハハ……」


 沼澤さんも混ざってきてしまって、もう訂正出来そうな気配じゃなかった。

 ミカゲさんは、私が仕事一辺倒になったからって怒るような人じゃない。それどころか、そんな私を労わって、応援して、包み込んでくれた。そんな人だったから好きになったんだ。

 あ、やば。仕事してないから、鮮明に思い出してしまう。ミカゲさんの声、温度、笑顔。好きになったもの全部。

 単行本化が決まったあとも、彼は家を訪ねて来なかった。気づいたら、追い返したあの日からだいぶ時間が経ってしまっている。あんなふうに言っておいて今更遅いし、もう前のような関係には戻れないだろうけど──せめて、この気持ちは彼に伝えて終わりたい。


「……じゃあ、私そろそろ。失礼します」


 テーブルの上にお金をいくらか置いて、二人の担当さんに頭を下げてから、私は店を飛び出した。



 * * *



 アパートに着くや否や、ミカゲさんの部屋のチャイムを鳴らす。何度連打しても音はならない。壊れているのだろうか。前はそんなことなかったのに。もどかしくなって、直接扉を叩いた。


「ミカゲさん、アヤです。いますか?」


 返事はない。お昼だし、出かけてるのかな。時間を改めて行くしかないか。連絡先も知らないし。

 とぼとぼと自宅に帰る。郵便物が溜まりに溜まったドアポストを見て、あ、と思う。見本誌、郵送するって言ってたな。ここ片付けておかないと受け取れなくなってしまう。外側にはみ出てるものを引っ張り出したあと、内側のポケットに溜まったものも一つずつ取り出していく。チラシに、DMに、公共料金のお知らせに……見なくて大丈夫そうなものは次々とその辺に放る。すると、中から一通だけ、異質な封筒があった。真っ白な封筒。直接投函されたものだろうか。消印を見ようとして表にすると、ドクン、と心臓が音を立てた。


『アヤちゃんへ』


 綺麗な字で書かれたその6文字だけで、誰からの封筒か察しがつく。私をアヤちゃんと呼ぶのは彼しかいない。消印はない。やっぱり直接投函されたものだろう。封はされていなかったから、簡単に開けた。

 中には便箋とは言えない白い紙が一枚だけ。同じく綺麗な文字で、短い文章が綴られていた。


『アヤちゃんへ

 今までありがとう。漫画、頑張ってください。

 さようなら。

                    御影』


 何度読んでも、それ以外の文字は書いていない。これがいつ書かれたものなのかも分からない。ありがとうの意味も、さようならの意味も分からない。分かったのは、ミカゲ、ってこう書くんだなって、本当に今更すぎることだけで。

 さっきチャイムが鳴らなかった。それは、壊れているんじゃなくて──。


「……っ!!」


 慌ててスマホを取り出して、「大家さん」と登録してある番号に電話する。大家さんは近所に住んでる気のいいおばさんだ。この時間でも家にいるはず。


《もしもし?》

「もしもし! 103号室の鈴木ですが」

《あらどうもぉ。どうしたのかしら、そんなに慌てて》

「えっと、私の隣の……102号室の方の件なんですけど! ミカゲ……ミカゲ、」


 話しながら、自分に絶望する。私、ミカゲさんのフルネームさえも知らない。


《御影……陽一さん? その方ならお引越しされたけど……何かあった?》

「それって、いつですか!?」

《えぇと……一ヶ月くらい前だったかしら。ごめんなさいね、オバチャンで記憶も曖昧で》

「どこに行くとかは……」

《それは伺ってないわねぇ》

「そう……ですか。分かりました。ありがとうございます……」


 電話を切って、呆然とする。ミカゲさんが、いなくなった。こんな一枚の紙切れだけで、私の前から消えてしまった。理由も行先も告げてもらえず、別れの挨拶もないまま。

 私、まだあの日のことも謝ってない。気持ちも伝えられてない。今までのこと感謝もしたい。単行本化が決まったって、それも伝えたかったのに。それなのに、それなのに。


「ミカゲさんのバカぁ……」


 私の心をこんなふうにしておいて、勝手に居なくならないでよ。ギリギリのところで保っていた理性が壊れて、いい年こいて、わんわん泣いた。

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