第10話 ミカゲさんの過去
「これ、どういうシーンなんですか?」
作業中、後ろに立っていたミカゲさんが急に声をかけてきた。普段は漫画自体には何も言ってこないミカゲさんが珍しいな。描いているシーンがこれだからかな。今はまだ締め切りに余裕があるので、ミカゲさんの問いに丁寧に答える。
「……ヒーローのライバルキャラが、主人公に迫って無理やりキスをするシーンです。主人公は別の男の子を好きで、三人は三角関係なんです。主人公は初めてのキスはその男の子とじゃないと嫌だと思っていたのに、ライバルが奪っちゃうんです」
「ああ、なるほど。だからこの女の子は悲しそうなんですね。理解出来ました」
相変わらずまじまじと見られる。なんだろう、普段ミカゲさんにこういうラブシーンの絵を見られることってあまりないから、ちょっと恥ずかしいんですが。
「こういうシーンって、実体験をもとに描いているんですか?」
「ふぇ!?」
何を言い出すかと思えば。私は大慌てで首を振った。
「そんなわけないじゃないですか! 100%妄想ですよ! 私は二人の男の子に取り合いされるような、そんな輝かしい青春送ってません!」
言いながら、自分の高校時代を思い出す。初めてできた彼氏には、私が部活(もちろん、漫画同好会である)の活動にかかりっきりだったことが原因で振られた。
思えば、私の生活の中心にはいつも漫画があって、専門学校の時の彼氏にも、卒業してから一回だけできた彼氏にも、似たようなことが原因で振られている。
「そうなんですか?」
「そうです! 高校時代の彼氏には早々に振られましたし、漫画にできるような素敵な恋愛してこなかったです!」
「意外です。アヤちゃん可愛いですし、実話かと思いました」
またこの人はそんなこと言って。恨めし気に睨みつけると、私の意図は伝わっていないようで、ニコリと笑みを返された。
「……ミカゲさんはどうなんですか?」
「え?」
「とぼけないでくださいよ。過去の恋愛です! どんな恋愛だったんですか?」
これくらい、聞かせてくれたっていいだろう。思えば、ミカゲさんの過去のこと、ほとんど聞いたことがない。だから純粋に興味はあった。こっちは恥ずかしいキスシーンまで見られたのだ。ぐい、と詰め寄ると、ミカゲさんはまあまあ、といったふうに手で私を制した。
「僕だって、そんな褒められるような経験はしていませんよ? 聞いて楽しいものでは」
「聞きたいです。そういう話も、ネタになるかもしれません。聞かせてください」
私が引かないとわかったのだろう。ミカゲさんは観念したようだった。
* * *
「今から話すのは、僕の失敗談です。僕が一番最後に女性とお付き合いしていたのは、僕が大学院生だったころですね。当時の彼女とは、大学三年生の時にゼミで知り合いました。僕はあのころ、若くて、自分本位でしか物事を考えることができなかった」
ミカゲさんがコーヒーをいれてくれたので、それをすすりながら話を聞く。大学院生……ってことは、十年以上前ってことだよね、たぶん。
「当時の彼女は成績も常に上位でしたし、サークル長も務めていて、最初は、優秀な人なんだなぁくらいに思っていました。それが彼女の才能なのだと。でも、違いました。彼女は努力の人でした。誰よりも遅く研究室に残って勉強に励み、誰よりも真剣にサークル活動に励んでいた。そんな彼女を気づいたら目で追うようになっていて、彼女が頑張っているから僕も頑張ろう、というような気持ちも沸いていました。僕は、彼女が頑張っている姿を見るのが好きでした。そのうち、僕から告白をして、僕たちは恋人同士になったんです」
「おお!」
ミカゲさんから告白をするほど、その彼女さんは魅力的な女性だったのか。考えながら、チクリ、と胸が痛んだ。
「そのうち進路を考える時期になりました。僕はまだ大学で学びたいことがあったので院に進むことにしましたが、彼女は就職を選びました。優秀な彼女でしたから、第一志望の企業に内定をもらって、とても喜んでいました。男性が多い職場だから人一倍頑張る、と張り切っていたのを覚えています」
彼女を思い出しているのか、ミカゲさんの表情はとても柔らかい。
「そして、大学を卒業してからも、僕たちは付き合いを続けていました。ただ──僕も僕で研究が忙しくなって、彼女は彼女で仕事が始まったので、会う頻度は自然と減りました。連絡もあまりとらなくなりました。僕はそれを、彼女が頑張っている証だと感じました。だから僕も頑張ろうと、自分を奮い立たせたんです。場所は違えど、一緒に戦っている。そんなことを考えていました」
今のミカゲさんからは、想像ができない過去。私が知らないミカゲさん。今のミカゲさんがすべてだった私にとっては、その話自体衝撃的なものだった。
「久しぶりに会った彼女は、とても疲れた顔をしていて、仕事で大きな案件を任されたと言っていました。それをプレッシャーに感じていると。その時……僕は初めて彼女が弱音を吐いているところを見ました。だから、にわかには信じられなかったんです。僕は頑張っている彼女が好きだったから。それで僕は、かける言葉を間違えた」
「……なんて言ったんですか?」
「『僕も研究頑張るから君も頑張って』と」
「うわぁ……」
思わず声が出て、慌てて口を塞いだ。頑張っている人に「頑張って」と言うのは、少々残酷すぎる。私も何度もその気持ちを味わった。何度も持ち込みをして、その度にダメ出しされて、頑張っているのに、「もうちょっと頑張って」とか言われたりして。あの八方ふさがり感は、今思い出しても辛い。
私のその反応に苦笑いをしたミカゲさんは、しゃべり続けた喉を潤すためかコーヒーを一口すする。
「僕も今ならそう思います。でも、あのころは分からなかったんですね。気が付いたら、平手打ちをされていました。『私が欲しかったのは、そんな言葉でも、一緒に戦ってくれる仲間でもない』──目を真っ赤にさせながらそう言った彼女は、そのまま僕の部屋から出ていきました」
「お……追いかけなかったんですか?」
「はい。むしろせっかく応援してあげたのに、とふてくされていました」
「あああ……」
なんてことを。当時のミカゲさんに私もビンタしてやりたい。きっと彼女さんは、ミカゲさんが追いかけてくるのを待っていたはずなのに。
「……彼女とは、それきり?」
「はい。僕からは連絡しませんでしたし、彼女からも連絡は来ませんでした。そのうち、連絡したくても出来なくなってしまいました」
「え……? それって、どういう……」
「……亡くなったんです。その後、しばらくして」
「えっ……」
ミカゲさんがさらりと言うもんだから、私はしばらく言葉をなくしてしまった。なんで、どうして、そんないきなり。私の動揺が伝わったのか、ミカゲさんは補足するように言葉を足した。
「事故だったそうです。通勤帰りの単独事故で、居眠り運転だったんじゃないかと聞いてます。後から聞きましたが、彼女はずっと異常な時間残業をしていたそうです。きっと、頑張るあまりに睡眠時間も削っていたんだと思います」
なんて声をかけていいのか分からなかった。私には、身近な人を亡くした経験はない。ここで適当に言葉を見繕ったら、彼にも、彼女さんにも失礼だ。
「そんな顔しないでください。もうずいぶん昔の話ですし、心の整理はついていますよ」
「でも……」
「もう遅かったけれど……彼女が亡くなってから、彼女になんと声をかけるべきだったのか、僕は彼女のどんな存在であるべきだったのか、考えました。自分を犠牲にしてまで、頑張ってしまう努力の人に。答えは簡単でした。僕は、その頑張りに気づいて、認めてあげればよかったんです。そばで支えになってあげればよかったんです。倒れてしまいそうなときは、すかさず助けてあげられるように」
頑張りに気づいて、認めて。そばで支えて。それはまさに今のミカゲさんの姿だ。
「初めてあなたに会った時、最後に見た彼女に似ていると思いました。疲れてきっていて、思い悩んでいて」
「私が、ですか?」
「アヤちゃんも努力の人ですから。仕事のためなら何もかも投げ打ってしまうでしょう。だから僕は、あなたを救いたいと思った」
ずっと不思議に思っていた。私はミカゲさんに何もしてあげられていないのに、ミカゲさんは私にたくさんのものを与えてくれる。何でそんなことをしてくれるんだろうと。でも、それがやっと腑に落ちた。
心の整理はついている、と言った。でも、そんなことはないんじゃないか。だって、数年付き合った彼女と喧嘩して、ちゃんとした別れができないまま二度と会えなくなったんだよ。それに──心の整理がついていたなら、私と出会うまでの間に恋人の一人や二人できたはずだ。それなのに誰とも付き合わず、ここまで来て。
──そして、私と出会った。彼女を彷彿とさせる私と。
ギクリ、と胸が痛む。考えちゃだめだ。考えたら、もっとここら辺が痛くなる。
でも、脳の指令とは裏腹に、口から言葉が漏れ出てしまう。やめて、出てこないで。
「……それって、私は、彼女さんの身代わり、ってことですよね……?」
胸のあたりをぎゅっと掴んだ。それでこの痛みがなくなるわけではないのに。
でも、だって、つまり、そういうことでしょう。彼女はまだミカゲさんの中で特別な存在で。私を通して、彼女を見てたってことでしょう。
「そんな風に別れることになって……まだ、ミカゲさんの中では、終わってませんよね? 彼女さんにできなかったことを私にしてるんですよね? 罪滅ぼしするみたいに……」
零れ落ちた言葉たちは、拾い集めることもできないくらいに小さくなって、そのうち消えた。ミカゲさんは、何も言わない。あるいは、言えないのかもしれない。その理由は、やっぱり、図星だったからなのか。
以前、ミカゲさんにとっての私の存在を問うたことがあった。その時もミカゲさんは明言を避けた。
嘘でも「違います」と言ってくれれば。私はこの事実に気づかないふりをして、今まで通りの関係を続けることができたのに。いや、分からない、無理だったかもしれない。だって、私はもう気づいてしまったから。
自分の中のこの感情に。
「彼女の代わりとして与えられた優しさなら、いりません。欲しくありません」
「……アヤちゃん、」
「帰って。……帰ってください!」
中々動き出さないミカゲさんに、つけていたヘアバンドを取って投げつけた。それは大した攻撃にはならなかったけど、石像のようになっていたミカゲさんが動き出すには十分な衝撃だったようだ。
結局ミカゲさんは、何の弁明もしてくれなかった。パタン、と閉まる扉を見ながら、すこし冷えてきた頭で考える。
自分で過去の恋愛話を聞いたくせにこんな風に逆ギレするなんて、私どんだけめんどくさい女なんだろう。こんな女じゃなかったのにな。
気づいてしまった。私はミカゲさんの『特別』になりたかった。ミカゲさんのことが好きだから。名前のないこの関係が心地いいとかそれっぽいこと言っといて、ちゃんと『恋人』になりたかった。彼から与えられるすべてを、自分だけのものだと思っていた。でも、それは違ったんだ。
突きつけられた現実が、辛い。
「……仕事、しなきゃ」
ミカゲさんに投げつけたまま床に落ちていたヘアバンドを拾い上げる。いつものようにそれを頭につけて、邪魔な前髪を後ろへと持っていく。続き、描かなきゃ。仕事、しなくちゃ。
飲みかけのマグカップを片づけることさえ煩わしい。ミカゲさんのことを考えないようにするには、仕事しかない。ていうか、私にはもともとそれしかなかったじゃないか。
ふらふらと机に戻って、私は作業を再開したのだった。
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