4章 姉妹の本心

第21話 水研ぎとバフ


 マリ先輩から望の様子について指摘されてから、私はずっと上の空となっていた。授業中も休み時間も、さらには家に帰って自室にいるときも、考えてしまうのは妹の望のことばかり。私に依存している望は、実は私の知らない何かを抱いているらしい。そう考えると、これまでの生活の中で発した望の言動には、何か含みがあったのではと思えてしまう。


 ただいくら考えても、その何かを明かすヒントには行きつかなかった。ようとして望の本心は知れないまま。


 そして心にモヤモヤとした感情を抱きながら中間テストを受けることに。幸いテスト自体の手応えは上々だったのでとくに心配はなかった。というよりも望のことで一杯一杯だったので、テストに対して過度に緊張したり不安になったりせずいつも通りの実力を発揮できたというだけ。そのせいか全てのテストが終了し週末を迎えても、これといって解放感などといったものとは無縁だった。


 そんなわけで週が明けて月曜日。中間テストが終わって瀕死の重傷を受けている陽菜さんと、私と同程度の学力で割と平然としている望と一緒に、放課後長谷川さんのお宅を訪ねた。二階の試奏室では先輩たちが先に来ていて、テストの手応えがよかったのか余裕の表情を浮かべているマリ先輩と、撃沈している晴美先輩と千明先輩がそれぞれソファーに座っている。ていうかそんな様子で大丈夫ですか、三年生の先輩お二人。


「先輩。今日から作業再開ですよ」

「起きてくださーい、先輩!」


 私と陽菜さんは生気のない先輩二人を促そうとするも、活動する気力がないのか反応が鈍い。まるで屍のよう。そこまでだめだったのですか、テスト。


「もう放っておこう」


 そんな魂の抜けた状態の上級生を見限ったのか、望は冷たい声音で言い捨ててからジャージに着替え始める。その他者を突き放す態度は、トラウマの影響で人を避けているいつもの望であった。そこに変化はない。ないけど、マリ先輩が言うには私の印象とは違うらしい。でもその違いは正直よくわからなかった。


 私たちが着替え終わっても先輩二人は蘇生しなかったので、結局一年生組とマリ先輩の四人で製作作業の続きをすることとなった。


 ラッカー塗料によるトップコートを終え、乾燥期間を経て行う作業は、水研ぎというものだった。サンディングシーラーのときと同様、塗装面にはスプレーによる飛沫で表面がうねっている。これを平らにするのが目的。紙ヤスリでも水につけることができる耐水性のものが使われ、ヤスリの番手もかなり細かい。番手が細かいのと塗料の粘りでヤスリの目が詰まりやすいとのことで、その対策として水分を含ませながら研磨することを水研ぎというらしい。


 小ぶりな洗面器に水を張り、複数の紙ヤスリを浸す。細かい番手の中でも一番粗いものから研磨を開始し、磨いたところから塗料の艶が消えていきマットな風合いになっていく。目安として、全体の艶がなくなるまで研磨。その後はどんどん細かい番手のヤスリに切り替えていき、研磨傷を細かくしていく。


「これ、どうですか?」


 交代で研磨作業を進め、望の番でちょうど一通り研磨し終えた。そのタイミングで長谷川さんが様子を見に来たため、仕上がりを見てもらうことに。望から受け取ったボディを長谷川さんが受け取り、光に当てて研磨の具合を細かくチェックしていく。


 途端、長谷川さんの表情が険しくなる。無言のままチェックをする長谷川さんに対して私たちはどうすることもできず、ただただ不安になりながら結果を待つしかできなかった。


「……わからん」


 ふと長谷川さんは険しい表情のまま呟く。しかし瞬時にその呟きの意味を理解することはできなかった。


「わからんって、どういうことです?」


 陽菜さんが小動物のように小首を傾げながら尋ねる。


「全く傷が見えないんだ。研磨しているはずなのに、研磨の傷が全く」


「そ、そんなことがあるのですか?」


 私はたまらず聞き返してしまう。


「暗色系の色は傷が目立ちやすく、黒とかは研磨が難しいんだ。半面、白とかの明るい色はあまり傷が目立たないから磨くのは簡単。でもいくら白でも光に当てれば傷を見ることができるから、しっかり研磨することはできる。ただこいつはラメが入っているせいか、ただでさえ傷が見にくい白のうえにラメで光が乱反射して、傷を見ようとすればするほど見えなくなっていく。これはちょっと、水研ぎの具合がわからんぞ」


 長谷川さんはボディを掲げ、光の当て具合を試行錯誤しながら見上げるようにチェックするも、やはり研磨の傷を正確に捉えることができない様子。


「本職の職人でもわからないことってあるんですね」


 私は皮肉気味に言ってみた。こういうところに私の性格の悪さが出てしまう。


「これはカラーリングが悪いね。まあ、本職の奴が見てもわからないなら、それはそれでいいんじゃないの」


 でも長谷川さんは大人の余裕からか、とくに気にした様子もなく答えた。


「なんか、テキトーですね」


「そんなものでしょ。本職がわからないなら素人はもっとわからないよ。ならこれ以上突き詰めるのは無意味だ。仕上がりとして高みを目指すのはいいことだが、でもその高みが誰にも理解できないものなら、それを目指す意味はどこにもない。どんなものでも時間と金をかければいくらでも技術的にすごいことはできる。ただそれが意味あるものなのかどうかを判断する、判断できるのが玄人の本質ってものよ」


 その言葉を言う長谷川さんは、まさに職人の顔をしていた。技術と知識を極め、その分野の真理に到達した者だけが放つことができる、深みのあるオーラ。


「ま、水研ぎはこんなもんでいいでしょう。あとはバフやって光らせれば、楽器店に並んでいるような鏡面仕上げになるよ」


 そう言って、長谷川さんは次の作業の準備をしてくれた。バフとは研磨剤を用いてピカピカの鏡面仕上げにすることで、通常なら円盤状の布が高速回転する大型機械に押し当てて一気に磨いていくらしいけど、さすがに高校生の私たちには使わせてもらえなかった。そこで代用として、ポリッシャーというよく車に使うような、電動ドリルのドリル部分が布やスポンジになっている工具を使って磨き、ポリッシャーが届かない入り組んだ箇所は布に研磨剤を染み込ませて手で磨いていく。


「いいんじゃない。どうせ色的に傷とかわからないから、適当に光沢があればいいでしょ」


 一生懸命に磨く私たちをよそに、長谷川さんは実に緩い感じで仕上がりを見る。磨いたばかりのボディとネックを、長谷川さんは綺麗な布で乾拭きしていく。すると表面についた余分な研磨剤がとれ、本来の塗装面があらわになる。


 一同、咄嗟に言葉が出なかった。現れたのは、まさに新品のギターそのものだったから。傷一つない塗装面は綺麗な鏡面仕上げになっており、透明なトップコートが光沢を帯びている。そのトップコートの中には、白をベースに銀色のラメが入っていて、光を乱反射して雪のような輝きを演出していた。まさにスノーホワイト。ギターの表面に雪原が現れていた。


「さ、あとはパーツを取り付けて組み込むだけだ」


 製作作業に協力してくれた長谷川さんも嬉しいのか、快活な笑顔をしている。ただそれ以上に、うちから湧き上がる歓喜に私自身がのまれた。


 これまでは所詮ギターの形をした木だった。でも今は明確にギターとなっている。そしてそれは私たちの手によってなされたという事実が、言い知れない満足感を与える。


 物が形になるということを、人生で初めて実感することができた。それだけでも、私たちの楽器製作は意味のあるものになった。




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