第17話 サンディングシーラー


 翌日、学校が終わってからいつも通り長谷川さんのお宅に集まる。昨日防毒マスクの着用を忘れるという痛恨のミスをやらかしたので、今回は作業前にちゃんと用意。口元に円形のフィルターが取り付けられた本格的なものを貸してくれた。


「ウッドシーラーの次はサンディングシーラーを吹く。綺麗に着色するためには表面の凹凸をなくす必要がある。とくに木材の場合は、木の導管が塗料を吸い込んでしまうせいで色の仕上がりにむらができてしまう。それを防ぐためにも、塗膜を作って研磨することで平らな塗装面を整えていく。着色の基盤作りのための塗装だ」


 そう説明されたけど、一部気になることを言っていたのを聞き逃さなかった。


「あの、研磨するってことは、このあとはまさかまた……」

「うん。生地調整のときみたいにまたヤスリ掛けだ」


 まさかの予感が的中した。またあの粉塵まみれになる工程をやるのか……。一回やってみたからわかるけど、あのヤスリ掛けは単純作業でありながら仕上がりに神経を使うから、見た目以上に疲れる作業なんだけど。私以外の皆も、露骨に嫌な顔している。


「研磨時に塗膜が剥がれて木部が露出しないよう、サンディングシーラーはある程度厚塗りする必要がある。そのため複数回行う。まあ……、六人いるし、一人一回ずつやれば十分な塗膜ができるでしょう。連続して塗装すると垂れて面倒なことになるから、三十分くらい間隔開けて乾燥させながらやっていこう」


「ちょっと待てい! 三十分間隔で六人って、塗装に三時間もかかるんかいッ」


 長谷川さんの説明に千明先輩が軽快に突っ込んだ。私たちは学校が終わってから長谷川さん宅に移動し、ジャージに着替えて作業をしている。そのため時刻はもうすぐ十七時と、もう夕方の時間帯である。今から三時間かけて塗装すると、作業終了は二十時になってしまう。そんなに遅くなるのはなんかヤダな……。


「別に二日に分けて塗装すればいいじゃん。それに屋外で作業するなら、日が落ちたら暗くてまともに作業できなくなるぞ」


 まさに長谷川さんの言う通りだった。別に一日でやらなくてもいい。


 というわけで作業開始。順番はじゃんけんで決めたけど、また私が最初に塗装することとなってしまった。私は受け取った防毒マスクを着用。皆も距離をとり、口元にハンカチやタオルを押し当てて直接吸い込まないよう工夫していた。


「ウッドシーラーと違い厚みが必要な塗装になるから、サンディングシーラーは艶々になるまで塗料を吹き付けていく。昨日やったから感覚でなんとなくわかるかもしれないけど、昨日よりも遅めにスプレーを動かしてゆっくり吹きかけていこう。ただし垂れないように」


 そうアドバイスをもらい、私は実際にやってみた。塗装のやり方は昨日と同じで、まずネックから塗装し、次いでボディを。仕上がりを見た長谷川さんから「いい感じに厚塗りできてる。センスいいじゃん」と褒められた。塗装二回目にして早くもコツを掴めたようで、私自身内心嬉しく思えた。もしかして意外な才能があるかも、と調子に乗る。


 一回目の塗装を終え、三十分の乾燥を間に挟む。その間は、玄関先にお菓子とジュースを持ち寄ってお茶会。五月の晴天のもと、ちょっとしたピクニック気分でガールズトークに花を咲かせた。


 三十分経ち、二回目の塗装。二番手は千明先輩だった。


「こ、これ結構プレッシャーすごいな……。失敗して取り返しがつかなくなったらと考えると、全然手が動いてくれない……」


 しかし防毒マスクを着用した千明先輩は、ギターとスプレー缶を持ちながら小刻みに震えていた。緊張しているらしい。


「千明先輩、ビビってるんですかー?」

「おい朔テメー! 普段クールぶってるのにこんなときだけヤジ飛ばしてんじゃねえッ」


「ビビり千明ー」

「オメーあとでしばく!」


 千明先輩は威勢のいい言葉を返してくるけど、正直迫力は全くなかった。そして性格悪いと自負している私は、そんな緊張隠しで虚勢を張る千明先輩が可愛くてたまらなかった。微笑ましいな先輩。


「こんな感じっスか?」

「もっと塗料乗せていいぞ」

「こうっスか?」

「いや、全然塗膜ないな」

「こうっスか?」

「まだまだ。もっとゆっくりスプレー缶を動かして」


 ……と、ビビり千明先輩はいちいち長谷川さんに確認しながらスプレーを噴射させているけど、ことごとく駄目だしを食らっていた。そんなこんなで、私よりも時間をかけて塗装した千明先輩は、塗装が終わるころには疲弊して地面に突っ伏していて、とてもじゃないけど私をしばく余裕はないみたい。でもこれはこれで面白いし可愛いな。


 そして再び三十分のインターバルを経て、三回目、本日最後の塗装。しかし、


「あばばばばばばばばば――」


 千明先輩以上にヘタレだったのは、三番手の陽菜さんだった。陽菜さんはギターとスプレー缶を持ったまま、防毒マスクの中で泣きそうになっていた。いや、もう泣いているかもしれない。どうやら第二軽音楽部のメンバーの中で一番プレッシャーに弱いのは陽菜さんのようで、現在進行形でパニックになっていた。


「陽菜頑張れー。お姉さんが見守ってやる」

「おい陽菜ッ。漢を見せろ!」

「ば、ばいぃぃぃぃッ。が、がんばびまずー!」


 晴美先輩と千明先輩がそれぞれ応援するものの、陽菜さんの反応を見る限りダメみたい。プレッシャーに負けて泣いているせいか、発する言葉のすべてに濁点がついているかのように聞こえ、もう何を言っているのかサッパリわからない。


 そんな小さな体躯でパニックに陥っている陽菜さんのことを見兼ねたのか、長谷川さんが陽菜さんの後ろから手を掴み、陽菜さんの腕を動かすことで塗装作業を進めた。しかしそれはもうほぼ長谷川さんが作業していると同義で、陽菜さんはさながら操り人形の如くされるがままになっていた。


 こうしてサンディングシーラーの一日目は終わった。終わるころにはもうすっかり日は暮れており、春の夜特有の、暖かい昼間とは打って変わって肌寒くなっていた。しっかり制服を着込んだ私たちは解散ののち、各々の家路につく。


 次の日の放課後。今日もサンディングシーラーをギターに吹き付ける。


 この日はマリ先輩からスタートし、次いで晴美先輩が塗装する。前日のビックリするくらいポンコツな二人とは違い、マリ先輩も晴美先輩も堂々と作業していた。それはこれまでの作業の様子を見て学んだのか、それともただ単純に二人の先輩の肝が据わっているだけなのか。多分後者だと私は思う。


 改造癖のあるある意味危険な晴美先輩は、曲がりなりにもバンドのフロントマンである。一番目立つポジションである先輩は、それだけプレッシャーに対しての耐性があるのかもしれない。マリ先輩に関しては、話を聞く限りギャルにイメチェンさせられ、調子に乗ってそのままフルギャルメイクで登校するという謎の度胸を示した過去がある。この先輩は普段人畜無害な大人しい性格をしているけど、本質的な部分でネジが一本飛んでいる、とてもパンチのある人なのだ。


 しかし本性はどうであれ、作業風景を見ている限りでは、まさに頼りがいのある先輩そのもの。頼れる先輩というのはこういうのをいうのだと、私は密かに感心した。


 最後に塗装するのは望だった。望は一人静かに防毒マスクをつけ、ギターとスプレー缶を持って手際よく塗料を噴射する。そのあまりにも手際がよすぎる所作に、職人である長谷川さんは目を見張った。私も望に釘付けになる。他の皆はもう作業に飽きているのか、お菓子を食べながらガールズトークをしているけど、私はそこに混ざることなく望を見つめ続けた。


 一言に、美しい。それはまるで洗練された職人芸であるかのように、決して派手ではないけど一切の無駄がない作業だった。


 私たちの誰よりも早く作業を終えた望は、窮屈な防毒マスクを外す。息苦しかったのか、マスクを外した直後に屋外の新鮮な空気を深く吸っていた。


「君は……塗装の経験でもあるのか?」


 長谷川さんは、たまらず尋ねていた。


「いえ。初めてです」


 望はそっけなく答える。そして「ただ――」と続けた。


「見ただけで感覚は掴めました。人の真似は得意なので」


 その返事を少し離れたところで聞いていた私は、思わず息を呑んでしまった。


 それは、望の才能だった。


 天才ギタリストだった望は、誰かが一度アウトプットしたフレーズなら完璧にコピーすることができる。


 ただこれは、ギタリストとして発現した才能に過ぎない。


 本質としては、見たり聞いたりして体験したことなら、高い完成度で再現できてしまうということ。なんでもすぐにこなしてしまうという、生粋の天才肌。


 私が認識していた望の才能なんて、氷山の一角に過ぎない。本人の興味次第でどんな分野にも適用できそうなその才能の片鱗を見た私は、より一層望を羨望の眼差しで見つめた。


 双子の姉妹としての嫉妬とかは全くない。私にあるのは、大切な妹に対する心酔だけ。この一件によって望に対する想いのレベルが上がっただけである。


 やっぱり望はすごい。望は埋もれていていい人間ではないと、私は改めて確信した。



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