第16話 ウッドシーラー


「では、今日はいよいよ塗装に入りますが、その前に、マスキングします」


 生地調整をした翌日、今日も放課後に長谷川さんのお宅をお邪魔しての作業。


「マスキング箇所は主に二ヶ所。指板面とネックジョイント部。このギターの指板にはローズウッドという油分の多い木材が使われているから、とくに塗装しなくても大丈夫。ジョイント部に関しては、塗装で増した厚みで組み込めなくなるのを防ぐため」


 指板とは、実際に指で弦を押さえる側のネックのこと。指板にはフレットという棒状の金属が打ち込まれており、このフレットに弦が触れることで音程が決まるのである。確かに市販のギターも、ローズウッド指板のものは塗装されていなかった。


 指板面とジョイント部に隙間なくマスキングテープを貼り、余った部分はカッターで器用に切り取ってマスキング部分を整えた。


「で、はい。スプレー缶。必要なものは買ってきた」


 マスキング作業を終えた私たちに、長谷川さんはホームセンターの大きな袋を差し出してきた。その中身を見てみると、数種類の缶スプレーの塗料が入っていた。


「プロの職人もスプレー缶で塗装するんっスか?」


「まさか」


 千明先輩の質問を長谷川さんは鼻で笑った。


「プロは、換気を徹底した塗装場にてスプレーガンで塗装するよ。ただメンテも面倒だし設備にコストもかかっているから、素人には使わせたくない。それに自分の力で作るのが自作の醍醐味でしょ。なら高校生でもできる方法で作るのがベストだよ」


 話を聞くに、スプレーガンとは大型のエアブラシみたいなものらしい。確かにそんな設備を素人の私たちが扱えるわけがない。


「用意したのはすべてラッカー塗料だ。ラッカー系はホームセンターでも買える。これを使って青空塗装だッ。いい塗装日和じゃないか」


 長谷川さんは空を見上げる。私たちもつられて見上げた。ゴールデンウィークが明けた五月の晴天は夏を先取りしたかのように澄み渡っていて、輝くような青が頭上に広がっていた。気温も、まるでオークションでもしているかのように、日々上昇している。まだ長袖を着ていられるけど、あと少し気温が上がれば長袖など着ていられなくなるだろう。確かにいい天気。


「ギターの塗装は主に八つの工程ある。そのうち塗料を使うのは四工程。その最初が、ウッドシーラーだ」


 わかりやすく簡潔にまとめた説明によると、ウッドシーラーとは木材塗装の最初に行う塗装のことで、下塗りとすることで上に乗せていく塗料の食いつきをよくするなど、塗装作業の準備といえる塗料らしい。


「ウッドシーラーは全体的にサッと一回吹きかけるだけで十分だ。さッ、誰がやる?」


 長谷川さんはホームセンターの袋からウッドシーラーのスプレー缶を取り出し、私たちに向けて突き出す。


「…………」


 しかし、そのスプレー缶を誰も受け取らなかった。


「なに。初めての塗装でビビってるの?」


 他の人たちのことはわからないけど、私に関していえば、その通りだった。これまでスプレーを使った塗装なんてしたことがなかったから、うまくいくかどうか不安でしかなかった。


「だ、誰がやるよ」

「そ、そりゃ……言い出しっぺだろ」


 晴美先輩の呟きに千明先輩が反応する。その千明先輩の反応を受け、私以外の五人が私の方をジッと見つめてきた。


「え? 私?」


 いやもう私がやることが決定している空気になっているけど、でも私は無駄に抵抗するかのように確認してみた。すると望がいきなりスプレー缶を受け取り、そして私の手に握らせてきた。コイツめ……。


「わ、わかりましたよ。やりますよ。最初の塗装は私がしますッ」


 もうそう言うしかなく、諦観した私はスプレー缶のキャップを外した。


「じゃあまずネックから。ネックの塗装はヘッド部分から塗装していく。いきなり全体に吹きかけるのではなく、側面は形状に沿って、面の部分はつづら折りになるよう、行ったり来たりを繰り返す感じで。ただし、折り返すときは被塗物の上でしないように。被塗物の上で折り返すと、そこだけ集中して塗料が乗ってしまうから。スプレーを噴射しながら大きく外れてから折り返す感じで」


 長谷川さんが「ここ持って」というので、私は言われるがままにネックのグリップ部分を持つことに。そして教わった通り、まずはヘッドの側面から塗装していく。最初にサッと吹きかけるだけで十分と言っていたので、側面に沿って素早くスプレー缶を動かした。


「こ、こうですか?」


「うーん、ちょっとサッと吹きすぎかな。もう一回吹けばちょうどいいかも」


 そう駄目だしされたので、私は同じ部位の塗装をやり直すことに。


「こんな感じですか?」


「そうだね。これぐらいで十分でしょ」


 そう言って、長谷川さんは今しがた塗装した部分を陽光に照らした。すると塗料が光を反射し、まだ塗装していない部分との差をくっきりと目立たせた。


「今回やるシーラーはこの程度の量でいい。この塗装した感じを覚えて、これに近づけるよう他の部分も塗装してみよう」


 光に照らされた塗装面は、サッと吹きかけたこともあり、細かい飛沫が乗っかっていた。


 私はそのまま、ヘッド外周を塗装する。その際中に、私はどの程度の速さでスプレー缶を動かせばいいのかコツを掴むことができた。次いでヘッドの表面と裏面を塗装。教わった通りつづら折りとなるよう行ったり来たりして塗料を吹きかけていった。


「次はネックエンドの方だ。今とは逆さにネックを持って」


 ネックエンドとは、ヘッドの反対側、ギターのボディとくっつく側のことである。私は言われた通りネックを逆さまに持ちかえる。ヘッドと同様、側面を塗装したのち面の部分に塗料を吹きかける。


「最後にネックグリップの部分だね。今まではネックグリップを持ち手にして塗装していたけど、ここを塗装するにあたって他の箇所を持ち手にしなくてはならない。だが他の箇所といっても、もうヘッドもネックエンドも塗装してしまったので、乾くまで持つことができない。そこでハンガーに吊るして、吊るした状態で上から下へと塗装していくんだ」


 長谷川さんは言いながらキャスター付きの簡素なハンガーラックを引き寄せた。なぜ家の駐車スペースにハンガーラックがあるのか密かに疑問に思っていたけど、なるほど、これは塗装用だったのね。


 極太の針金を曲げただけの単純なハンガーを手渡され、それをヘッド部のペグ穴に通してラックに吊るす。ペグとは、弦を巻き取ってチューニングを行うパーツのことで、ペグ穴とはペグを取り付けるためにヘッドに開けられた貫通穴のこと。


 吊るされたネックが回転しないよう、マスキングされた指板面に指を添えながら、上から下へとスプレー缶を動かす。ただノズルの幅と、そしてかまぼこ型に丸いネックグリップを塗装する都合上、一回ではごくわずかにしか塗布できない。そこでまんべんなく塗料が乗るよう、方向を微妙に変えながら何度も上から下へと移動を繰り返した。


「うん。こんなもんでしょう」


「はぁ、はぁ。こ、これ神経使う……」


 ネックの塗装を終えた私は、たまらず四つん這いになってうなだれた。これまだ下地塗装だよね? つまりこれと同じことをあと何回もしなくてはならないのか……。慣れないうちは精神的にキツイ……。


 私は半ば心が折れかかっていたけど、


「じゃあ、ボディもやろっか」

「へ?」


 まだボディが残っていた。


「大丈夫。ネックに比べて面積が大きくなっただけで、やることは変わらないから。側面は形状に沿って、面の部分はつづら折りで塗装するだけ」


 なんか楽しそうな長谷川さん。そ、そんなに人が疲弊しているのが楽しいのですか? ……などと大人の人に言えるわけもなく、私は連続してボディの塗装に移った。


 といっても、本当にネックのときとやることは変わらなかった。ボディ外周部は、ザグリと呼ばれるパーツを取り付けるために掘られた穴や溝を、それぞれ指で掴むようにして持ち手とした。とくにボディの表面には二つのピックアップを取り付けるためのザグリがあり、その間はちょうどいい感じに出っ張っていてとても掴みやすかった。


 ボディ表面と裏面は、ネックジョイント部にねじ止めされた柄を持つことで塗装できた。ネックのときのように吊るした姿勢での塗装ではないので、心なしか安定して塗装できたような気がする。


 そうして塗装を終えたボディを、ネックジョイント部につけられた柄にハンガーを通すことで、ハンガーラックに吊るす。今ハンガーラックには、塗装済みのネックとボディが並んで吊るされていた。


「さて、では一日乾燥させるから、続きは明日。今日の作業は終了だ」


 長谷川さんのその言葉を聞いて、緊張によって強張っていた私の身体は一気に弛緩した。今はもう、やっと終わった、という感想しか出てこないや。


「あッ……」


 と、唐突に長谷川さんが声を漏らした。


「一個大事なことを忘れてた」

「な、なんですか?」


 この期に及んで、まさか工程を一個飛ばしていたとか言い出さないだろうな。もうやり直す体力なんてないよ。


 と、私はそんなことを思っていたけど、でも事態はもっと深刻だった。


「お互い防毒マスクするの忘れてたな。塗装するときシンナーが出るから、健康のこと考えるとマスクは必須だった。まあ、一回くらいしなくても大丈夫だろう。少量であれば直ちに影響はない。それに屋外で換気も十分だし。私も仕事で塗装するとき、ときどき忘れてるし」


 ちょっと! それかなり大事なことじゃないですかッ! 塗装中普通に呼吸していたから、思いっきりシンナー吸い込んじゃったよ。


 しかしもう過ぎてしまったことはどうにもならない。次回からは徹底しなければ。



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