第10話 職人の真理
長谷川さん宅は、一階部分は仕事場である個人ギター工房で、三階部分が居住スペースとなっている。そして現在私たちがいるこの部屋は、二階部分をまるまる使った「試奏室」という場所だった。
名前の通り、ギターを試す部屋。目測で十五畳以上ある広いこの部屋には防音設備が整っており、多種多様のギターアンプとベースアンプが並べられていた。それはもう楽器屋のアンプ売り場のようであり、もはや定番になった名器たちが勢揃いしていた。部屋の隅にはドラムセットも置かれているので、まさに練習スタジオがそのまま自宅にあるかのよう。
そして部屋の入口に近い位置には応接用のソファーとローテーブルがあり、来客にも対応できるスペースとなっている。応接間とスタジオを混ぜたかのような、ハイブリットな空間がそこにあった。
ここが第二軽音楽部の練習場所。聞くところによると、第二軽音楽部の創始者が長谷川さんの親戚で、高校に通うにあたって長谷川さんのお世話になっていたみたい。その関係で練習場所として使わせてもらっているらしい。その創始者はもう卒業して家からいなくなってしまったけど、しかし第二軽音楽部と長谷川さんの関係は継続しており、後輩である先輩たちに変わらず場所を貸しているとのこと。
「もともとショールームにしようと思って改築したけど、いざやってみるとお客さんなんて全然来なくてね。まあ、住宅街のど真ん中だから、頻繁に人が来るような立地でもないのだけれどもね。そんな事情から、いつの間にかショールームとしての機能は失いただの自由空間になってしまったってオチだよ」
私たちは試奏室のソファーに座りながら長谷川さんの話を聞いていた。ただ応接用のソファーはさすがに女子六人座っただけで埋まってしまったので、長谷川さんは別室から持ってきた椅子に腰かけている。
「その、ギター職人って儲かるんですか? お家の中、とても綺麗ですし」
純粋無垢な陽菜さんが、出された茶菓子の小袋を開けながら、そんな非常に聞きにくいことを無邪気に尋ねていた。
「いや、儲からないね。私の場合は本業以外でちょっとまとまったお金が入って、それで中古物件を大胆に改築しただけ。顧客に信頼してもらえるほどの知識と技術を習得した職人でも、ようやく人並みの生活が送れる程度の収入だね。たまにこの道を目指す若者と会うことがあるけど、相談される度に『金を稼ぎたかったら他の仕事をしろ』と言うようにしているよ。ここはそういう世界なんだ」
「その、お客さんが来なくても稼げるのですか?」
晴美先輩が、出されたジュースのコップをテーブルに置きながら尋ねた。
「それはやり方の問題だね。店舗として工房を経営しなくても、顧客は十分とれる。たとえば、外注業者として楽器店と契約するやり方だ。お客が楽器店に持ち込んだ修理品をこちらに流し、修理して楽器店に戻すとかね。あとは中古買い取りをしている店舗なら、毎日状態の悪い楽器が来るから、それを一括修理して店舗に戻し、商品に変えるとか。さらには個人的なマニアやコレクターとのお仕事かな。他には軽音楽部が盛んな学校との取り引きとか。このビジネスモデルなら、不安定なお客を待つよりもはるかに安定した修理需要を獲得することができる。やりようによっては、不特定多数のお客さんを招かなくても仕事を得ることはできるのだよ」
長谷川さんのお仕事の話に、一同関心を持った。先輩たちも、これまで長谷川さんのお仕事の話を聞いたことがなかったのか、興味深い話として熱心に耳を傾けている。
「私はね、今余生を送っているのだよ。だから余計なことはしないんだ」
「余生、ですか?」
まだ三十代であろう長谷川さんから意外な言葉が出てきたので、私は思わず聞き返してしまった。
「そう、余生。そもそも私が職人を目指したのは、自分にとって理想の楽器を作ることだったのだよ。人の楽器を直したいとか作りたいとか、そういう奉仕的な動機は全くない。己の理想を追い求めるために学び磨き上げた技術に過ぎない。それは幸い金になる技術で、金が絡めばより練磨していくものだから、割り切って作業をしている。多くの楽器に触れることで、より多くの経験を積み、己に吸収していく。私にとって修理品とは、ただの研究素材でしかない。仕事であり、仕事としての責任を負ってはいるものの、仕事という認識になったことは一度もない」
長谷川さんはコップに口をつけ、喉を湿らせてから続きを言う。
「ただ自分にとっての最高のギターを作る。そんな楽器真理を追い求めることを自分の人生とした。でもね、意外にも、その真理は二十代の頃に到達してしまったのだよ。自分にとって理想とする、満足するギターを若くして作り上げてしまった。今見ても最高だし、どんなに価値のあるギターと比べてみても私が作ったギターの方が勝っている。生涯をかけて追い求めるものを達成してしまえば、あとは余生を生きるだけってね。だから余生と言ったの。あとは老いて死ぬまで、せっかく身に着けた技術を生活費に変えて隠居生活をするだけだよ」
長谷川さんの語る話に、私は何一つ言葉を返すことができなかった。それは私だけではないようで、ここにいる高校生全員は、人生の先輩が達した境地を精一杯理解しようと懸命になる。
その話に共感することは容易ではない。普段深く考えていない生きるということや、幸せについての価値観が、一般的な人たちとあまりにもかけ離れている。人によってはそんなことのために、と思うことかもしれないけど、長谷川さんはたった一つのことを追い求め、そして果たしてしまったのだ。どんな分野にしろ、真理に達した人の心境を一般人が理解することはできない。積み重ねた情熱が桁違いなのだから。
もしかしたらそういった部分が、長谷川さんが自然と醸し出す印象に影響を与えているのかもしれない。初めて会ったときに感じた、悟りを開いたかのような超然とした印象は、もしかしたら真理に到達し、そして燃え尽きた境地の末なのかもしれない。
この人は、正真正銘の職人。いや、職人の中でも特殊な職人なのかもしれない。
「あの、実は――」
私は長谷川さんに聞いてもらいたいことがある。自分自身の真理に辿り着いた長谷川さんにとっては稚拙なことかもしれないけど、でも長谷川さん以上にふさわしい人物はいない。
「私たち、ギターを作ってみたいんです」
それは長谷川さんのような高尚な目的ではない。ただ大切な妹の復活を勝手に願っている、ただの私のわがまま。
「ふーん」
長谷川さんは私を見定めるかのように眇める。その慧眼は私の背筋を凍らせた。
「いい目をしているね、君」
「えっと……」
「その目には、言葉以上の何かが宿っている。ただその何かは、残念ながら楽器を見ていない」
瞬間的に冷や汗が出た。この人、私の心情を看破している。
「フッ。まあいいでしょう。最近は製作キットとか出回っているし、夏休みの自由工作みたいなノリで一本作ってみればいい。私も協力するよ。ただし、作るのはあくまで君たちだ。こっちも一応仕事として引き受けた依頼がある。仕事の責任は果たさなければならないから、仕事の邪魔にならない程度に頑張ってよ」
険しい表情だった長谷川さんは急に微笑み、私たちのギター作りに協力してくれることを約束してくれた。
「それに、演奏者が楽器を作る価値はあるよ」
「価値、ですか?」
ふと、先週楽器屋で陽菜さんが言った言葉が蘇った。
――超絶テクニックの天才ギタリストがギターを作ったら、ものすごいものができあがるのかな?
「ああ。かのクイーンのギタリストであるブライアン・メイは、暖炉の木を使ってギターを作り、何十年と経った今でも愛用している。それに今や世界的にスタンダードなギターになっているギブソン社のレスポールも、もとはといえばジャズギタリストのレス・ポールさんがギブソン社に持ち込んだ自作ギターが原型と言われている。他にはガレージで作ったギターが評判を呼び世界的にヒットした例もある」
ここにいる一同、それぞれ驚きの表情をした。聞いたことのある名前が出て、そしてその彼らが自分で自分の楽器を作っていた事実を知り、衝撃を受けている様子。
「究極的なことを言えば、楽器は自分で作ったものが一番弾きやすい。自分で作れば、その楽器の鳴らし方を熟知しているし、鳴らしたいように作ることも可能だ。そんな演奏者の理想の楽器を、演奏者自らが追い求めることを、私は『楽器真理』と勝手に呼んでいる。まあそのレベルに達することができなくても、楽器一本作れば楽器に対する見方が変わる。それは今後の音楽人生において必ずプラスに作用するものだ。精々励みたまえ、若者よ」
「は、はぁ……」
最初は単純に、望が復活してくれるきっかけにさえなってくれればと思い、半ば衝動的に言いだしたギター作りだけど、でも長谷川さんの話を聞いてギター作りに重みが増してしまった。そんな高尚なことをしたいわけではない。でももしかしたら、私が勝手に願っている望の復活は、それほどまでに高尚なきっかけを必要としているのかもしれない。
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