死がふたりを分かつまで♭♭(ダブルフラット)

 僕はガラスケースの内側で、廃棄される時を待つだけの臆病者でした。いえ、勇気があったとしても、動けぬ僕にはどうしようもなかったのです。

 結果から言えば、僕は廃棄を免れました。買われていくことも恐怖でしかなかった僕は、偶然ではあっても救いを見つけました。

 それは、僕が心から愛する人。愛、なんて使い古された言葉であっても、僕は彼女を愛しているのです。

 彼女は純白の衣をまとい、赤い帽子をかぶった美しい、本当に美しくて、僕の言葉で表現することさえ申し訳ないひとなのです。神は愚かな僕を憐れんだのでしょうか、僕は最期の時を彼女と過ごすことを許されたのです。

 最期の時が迫る夕刻、僕らを買った人間の家へ向かう永遠とも思える時間を、二人きりで。それは何にも代え難い、甘く美しい時間となるでしょう。

 ……いえ、正しく言うならば、そうなるはずだった、のです。揺れる箱の中、僕は彼女を見つめました。彼女もまた僕を見、微笑んでくれたように思います。それだけならばこの上なく幸福な、けれど幾ばくかの緊張を与える時でした。

 ――最期がショートケーキお姉ちゃんと一緒でよかった。

 僕と彼女の間には、もう一人がいました。

 ――チーズケーキお兄ちゃんも、ね。

 彼女はともかく、僕が買われたのは全くの偶然でした。そしてこの子が――モンブランが買われたのも偶然でした。あるいは、「置いていかないで」という叫びがあの人間に届いたのかもしれません。

 無論、僕だってモンブランが憎いのではありません。それどころか、僕を実の兄のように慕ってくれるモンブランを可愛く思っていました。最期の時を前にモンブランの明るさはいくらかの救いになるでしょう。しかし――いえ、やめておきましょう。彼女と二人きりでないのは残念ですが、モンブランを置いていくのは、考えるだけでも辛いことです。

 ――それにしても、外って広そうだね。

 モンブランが呑気に呟きます。

 ――箱の中じゃつまんない。一回くらい、見てみたいな。

 ――外に出なくたって、十分楽しいわよ。ほら、音が聞こえるじゃない。

 彼女の言うとおり、モンブランと共に耳を澄ませば、様々な音に気付きます。僕たちが体験したことのない、体験できない世界の音です。

 ――本当だ。

 それだけ言うとモンブランは静かになりました。最初で最後になる音に聞き入っているのでしょう。僕もそれに倣おうと子供達の声に気を向けた、その時でした。

「怜人!」

 それは僕たちを買った人間とは違う、若い女性の妙に弾んだ声でした。

「あ、佐藤さん」

 僕たちを買った人間がそれに答えます。この二人は恋仲、なのでしょうか。箱の揺れが大きくなり、彼が走ったのだと理解した、その時でした。

 轟音が、辺りに響きました。それは確かブレーキというものの音でしたが、いささか大きすぎる音のようでした。

「怜人!」

 先ほどと同じ若い女性の、しかし先ほどとは違い切迫した、叫びに似た声が響きました。

 世界が揺れ、ああ、このまま死ぬのか、と思った直後、僕の意識が途絶えました。


 *


「――ちゃん、お兄ちゃん」

 泣きそうな声が、僕の耳に届きました。泣かないで、と言おうとしても、上手く言葉が出ませんでした。

「チーズケーキお兄ちゃん!」

 ゆっくりと、目が開きました。

「モン、ブラン……?」

 僕を呼んだ声は確かにモンブランのようでした。しかし、僕の目の前には見知らぬ少女がいたのです。少女は目を覚ました僕を見て安堵の表情を浮かべました。

「よかったぁ……」

「あなたは、一体――」

 思わず起き上がり、そして、ようやく気付きました。

 そもそも僕は、起き上がることなどできないはずなのです。ケーキが自ら動く、など。僕は自分を見て、驚愕しました。

「こ、れは……っ」

 僕は、一人の人間でした。手があり、足があり、触ってみれば顔もありました。何の苦労もなく声を発していました。自分の意志で動いていました。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

「モンブラン……なのか?」

 目の前の少女はこくりと頷きました。この子がモンブランだというのなら、彼女は――

「チーズケーキさん、具合はどうですか?」

 不意に降った声に、僕は顔を上げました。そこにいたのは、何よりも美しい女性でした。

「ショートケーキさん……」

 名前を呟くと、彼女は柔らかい笑みを浮かべました。それだけで、それだけで僕は、この姿を、彼女を姿を幸福だと思えました。

 実際、なんという幸福でしょう。

 廃棄を恐れる必要はないのです。そして僕が望めば、彼女が受け入れてくれるなら、触れることも叶うのです。この腕の中に、彼女を抱き締めることすら不可能ではありません。何故この姿になったかなど、些細な問題に思えました。

 いえ、たとえどんな理由があったとしても、彼女だけは離さずにいましょう。何がおとずれようと、あなたの傍におりましょう。

 ――死が二人を分かつまで。

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