第二章:大抗争

七:開戦の狼煙

 お父様はどこに行かれてしまったのですか?

 お母様はどうして私達を置いていくのですか?

 「私達のため」だなんて、どうしてあなたが決めるのですか。

 私達は。

 私は。


 私は、ただ。



七:開戦の狼煙



 夜が明けて、白い朝日が大地を照らす。この『子供だけの世界』では、時計はどこでも同じ時間を指す。大地は丸くない。昔の神話で語られていたように、大地はただ平面に広がって、ドームのような空に覆われている。それ故に、今日もまた、晴れ晴れとした青が空を覆っているのだ。暑くも寒くもない、過ごしやすいくらいの日和だった。緯度も軽度もなく、夏も冬もない。火山地帯や雪の地帯を除けばどこもこの程度の気温である。

 この、子供だけの世界において、東西南北の果ては繋がっていない。果ては、果てだ。その先に何も無く、そして、戦争のフィールドが十分に用意されている以上、『果てがある』ことに、何の意味も、問題もなかった。

 故に、平らな世界で、子供達は何の問題もなく戦争の準備を進め、戦場に向かい始めていた。どの陣営も、等しく、である。


 そんな中、苛立たしげに靴を鳴らし、真っ白な廊下を足早に進んでいく影がひとつ。

 首を隠すように巻かれた赤色のスカーフが風に揺れる。ライトブラウンの長い髪をひとつに括り、金の瞳を普段よりも鋭くした彼女は、やはり苛立たしげな様子で、目の前まで来た扉を開け放った。

 白一辺倒の風景から、草木の緑が彼女の視界に飛び込んでくる。しかしそれにさえ舌打ちをして、彼女は自らが率いる部隊の集合場所に突き進んで行った。

 部隊のメンバーは先程と変わっていない。そう、『一人足りない』。

「……インセントは何処だ!」

 彼女――即ち、部隊の隊長であるリオが叫んだ。同部隊に所属するスティアが困ったような顔をする。

「朝から姿を見ていませんが……部屋にも居なかったのですか?」

「ああそうだ、いつもの寝坊ではない、あいつの明確な命令違反だ……聞けば他の部隊ではコープが行方不明だという。全く彼奴らは、総帥の温情に胡座をかいて好き勝手ばかりだな! 白の政府の掲げる理想を忘れたか!」

 苛立ちのこもった返事に、スティアは眉を下げる。

 今回の抗争では、リオが率いる部隊にスティアもインセントも含まれている。スティアにとって、インセントが作戦や集合場所を知らないことは有り得なかった。何故なら、スティア本人が先日作戦表のコピーを渡したからだ。

 インセントの命令違反は今に始まったことではない。いつもならば、スティアも憤りインセントへの不平不満を垂れ流していただろう。だが、今回の隊長はリオだったのである。溜息を吐いて、スティアは憤るリオを眺めた。

 白の政府に所属するものは、必ずどこか身に付けるものに白の政府の――十字架に斜めの打ち消し線のマークを刻むことが定められている。

 多くの者は衣服に刻む。インセントやルドルフなら胸ポケット、コープやスティアなら背中、などのように。だが少数の者は自分自身の体そのものに刻むのである。そうして、そういった者は白の政府に、正確には白の総帥であるヨハンに、どっぷりと心酔した過激派であることが多い。

 そして、リオは腹を露出した衣服を纏い――その左脇腹にマークを刻んでいた。

「――彼奴は秩序を何だと思っている!? ああもう知らん、後で折檻だ!」

 自分よりも激情を顕にする者が近くにいると、逆に冷静になる。よく言われる言葉を自らの身で実感しながら、スティアは何度目かの溜息を吐いた。



 時計はまた暫しの時を刻む。

 抗争が始まる時間が刻一刻と近付いている。それを感じながら、結は、慣れない山道をまた踏みつけ、溜息を着いた。

 山道、である。結が居るのはA地区山岳地帯の――黒の帝国アジトへと繋がる道だった。レジスタンスの作戦は、既に稼働している。結とイルドバッハは黒の帝国アジトに乗り込むため、慎重にアジトへと向かっている途中だった。

 結の隣に、今、イルドバッハはいない。

「っ、とと……!」

 歩いていると、足元の岩がガラリと崩れた。バランスを崩して転びかかったのをなんとか踏み留まる。

 踏み留まって、結はまた息を吐く。緊張がまだ続いていると自覚して、結は、今朝のことを思い出していた。

 

 ――レジスタンスは今日、朝から慌ただしかった。

 今日の抗争は朝10時から始まる。勿論、10時ちょうどに戦場となるC地区都市部に着いているのでは間に合わないので、レジスタンスもまた他の陣営同様、早朝から確認と準備に取り掛かる。そんな慌ただしさの中、結は玄関に突っ立っていた。それは、やることがなくて途方に暮れているのではない。

「結、準備出来たか?」

「! は、はい!」

 奥から、長い足を大股に動かしてやって来たイルドバッハを見て、結は慌てて姿勢を正した。イルドバッハはいつもの調子で、からりと笑う。

 彼は数歩で結の目の前に立ち、その鼻をつまんだ。

「緊張してるな」

「……少し」

 直ぐに解放された鼻を擦り、結は正直に零す。イルドバッハはまた軽快に笑った。

「大丈夫だって、こういうのは肩の力を抜いといた方が上手くいくもんさ。リラックスリラックス」

「リラックス……」

 反復して、真面目な顔で深呼吸を始めた結にイルドバッハは笑って、その頭を撫でる。

「……さて。昨日も言ったが、黒の帝国アジトまではバラバラで行くことになる」

 ――そして、彼もまた真剣な表情で、そう言った。結は顔を強ばらせ、頷く。

 それは昨日の夜に言われたことだった。イルドバッハと結は黒の帝国アジトに潜入することになるが、その道中が問題だったのだ。

 イルドバッハは顔が割れているが、結はまだ黒の多くの者に知られていない。結一人であれば、見つかっても白の政府特有の『マーク』――インセントの胸ポケットにも刻まれていた、十字架に斜めの打ち消し線を引いたようなもの――が無いために白の政府の者とは思われない。迷い込んだ、どの陣営にも属さない『はぐれもの』だと思われれば、抗争に夢中な彼等からは無視されるだろう。だがイルドバッハと一緒に居れば、レジスタンスの人間だとバレてしまう。であれば、イルドバッハが結を守りながら身を隠して進むより、二手に別れた方が迅速且つ安全だろう――というのが、結論であった。

「言ってた通り、俺はちょっと回り道して行く。結はここから真っ直ぐ黒の帝国のアジトに向かってくれればいい……道は分かるな?」

「っ、はい」

 既に渡されていた地図をポケットの中で握りしめ、緊張した顔持ちながらも結は頷く。それを確認して、イルドバッハは笑う。

「よし、それじゃ行くか。到着目標は11時、作戦終了目標は12時だ。俺達は1時間で、黒の帝国を巣に呼び戻す警鐘を鳴らさせる。

……つっても戦場の様子によって時間は遅れるけどな、そこはルイン達に任せることだ」

「分かっとるわ阿呆」

 イルドハッハが視線を流した先には此方に向かってくるルインが居た。相変わらずガルドを抱えたまま、眉を顰めて糸目越しにイルドバッハを睨む。

 ルインはそのままイルドバッハと結の前を通り過ぎて、準備をするメンバー全員に声が届くほどの場所で立ち止まった。

「……皆。今日、俺達がやることはとんでもなく難しい」

 ――声を発したのは、ルインに抱えられたままのガルドだった。

「黒と白はただ、敵を殺すことを目的に突っ込んでくる。だが俺達の目的は違う。俺達は、極力死傷者を減らして、この戦いを終わらせなければならない。俺達のこれは、死なせないための戦争だ。なるべく早く完遂させなければならない。なるべく白も黒も殺さないで無力化させなければならない。その上で、お前らには絶対に守ってもらわなきゃなんねぇ命令がある」

 低く落ち着いた声は、その場によく響く。全員の目線を集めたガルドは、その声を、彼等に注いだ。


「『死ぬな』。以上だ」


 ――声も無く、結は、その場の全員が結束するのを肌で感じた。全員の目が合う。全員が、同じ意志を共有している。全員異なる自我を持ち、全員異なる性格であり、全員異なる存在でありながら、全員が、今ここに同じ決意を有することが『理解』できる。

「……行こうか」

 ガルドが再び、言葉を掲げた。

「俺達の、戦場へ」


 ――その空気を、思い出して。

 あの一体感を思い出して、結は目を開く。見えるのは草木が減り岩肌が剥き出しになった山地と――いよいよ目視できるようになってきた、黒の帝国アジト。

 西洋の城のような形をした真っ黒な建物は、遠くからでも大きく、威圧感を持って聳え立っていた。

 いよいよ、近付いてきた。作戦開始は近い。見つからないように城に近づかなくてはと、気を引き締め直す。

 そして、結はまた歩きだそうと、した。

 その足を踏み留め、咄嗟に突き出した岩陰に隠れたのは、人の足音を聞いたからである。

 いくら結がイルドバッハに比べればレジスタンスだと周知されておらず見つかった時のリスクが低いとはいえ、ほいほいと見られていい訳では無い。特に、リーベやインセントには顔が割れている。

 自分が人の存在に気付いたように、向こうが気付いていないことを祈りつつ、結は岩陰からそっと様子を伺った。足音が近付いてくる。軽い音は、その人物が小柄であることを示している。

 ――その人物は、まだ年端もいかない少女だった。

 もしかすると、南斗と同じか、それより幼いか。所謂ぱっつんという形で先が切りそろえられた、真ん中分けの長い黒髪は艶やかだ。垂れ目はエメラルドのような翠色をしている。どこか、黒斗を彷彿とする姿をしていた。

 少女はその幼い風貌に似つかわしくなく、真面目な顔で、遠目に見える地表部の都市部や森林部の風景――結がこの山岳地帯に至るまでに通ってきた道程でもある――を見下ろしながら、歩を進めていた。結が暫く立ち止まっていたおかげか、結の存在には気付いていないようである。

「(アジトの方から来たし、黒の帝国のメンバーか?)」

 そう当たりをつけて、それなら尚更見つかる訳にはいかないと、隠れたまま結は彼女が立ち去るのを大人しく待ち続けてやり過ごそうと考えた。

 ――しかし、ガラ、と岩が崩れる音が聞こえて。

 その音が、結と彼女がいる山道の、さらに上――剥き出しになった岩肌の一部が剥がれ、崩れた音だと気付いて。

 それなりに大きめの、握り拳程度の大きさの――高さもあって、頭に直撃すれば一溜りもないであろう――石が、彼女の頭目がけて落ちてくるのを。

 視界に留めて、しまった。


「――危ない!!」


 殆ど、考えるより先に体が動いていた。

 岩陰から飛び出し、彼女に飛びついて突き飛ばす。結自信も受け身が取れきれずに彼女の上に倒れ込んでしまうが、なんとか体重を彼女に被せないようには努力した。石はガツッと大きい音を立て、衝撃にて大地と自分自身を削り、跳ね上がってまた下に落ちていった。

「っ、だ、大丈夫か?」

「……レディを押し倒すなんて、躾のなってない犬ね」

「えっ」

 身体を起こして咄嗟に下の彼女に声をかけると、そんなことを言われて思わず固まった。冷静になって自分の体勢を鑑みると、この小さな少女に覆い被さり、押し倒すような状態になっていると気付く。

「――っわ、悪い、すぐに、」

 退くから。そう言いかけた結の声は、少女がその細い指を結の頬に滑らせたことで不自然に固まった。少女は、その年齢に似つかわしくなく妖艶に、余裕をもって笑ってみせる。

 結はそこで漸く気付いた。彼女の纏うオーラはただの幼い少女が持っていていいものではない、『王者』のそれだと。

「でもいいわ。許してあげる。お前、良い男だもの。私の騎士には敵わないけれど」

「っ、は?」

「私を守ろうだなんて、愚かな考えも許してあげる、と言っているのよ」

 するりと彼女は結の下から身体を抜いて、軽やかに立ち上がる。ぱんぱんと軽く自らの白いワイシャツに黒いベストと黒いプリーツスカートという服を叩き、先程の衝撃で吹き飛んだ――彼女の体躯には似つかわしくなく大きそうな――黒い上着を肩にかけた。

「石くらい気付いていたし自分で避けられたわ。それでも、愚かにもこの私を守ろうとした気概に免じて、無礼には目を瞑ってあげる」

「……は、はぁ……?」

 黒斗を彷彿とする容貌で、黒斗では絶対にしないような自信に溢れた笑みを浮かべ、少女は中途半端に身体を起こしたものの地面に膝を着いたままの結を見下ろす。

「時間が無くて、お前に私の首輪をつけてやれないのが残念ね」

「く、首輪?」

 結の困惑の声には答えず、彼女は優美に微笑んでみせる。

「お前、名前は?」

「……ゆ、結。千ノ宮、結」

 思わず答えてしまって、結は内心焦った。そんな結に気付いているのか否か、少女は笑みを崩さない。

「私の名はウタ。『黒の帝王』、黒乃ウタ。お前、黒の帝国に来たら、手厚く歓迎してやっても良くってよ」

 そうとだけ言って、彼女は踵を返して歩いていく。結が先程登ってきた道程を下っていく彼女の姿は、やがて見えなくなり――

「……黒の帝王……!?」

 ――結は、漸く事態を把握して飛ぶように立ち上がった。

 黒の帝王。それは即ち、黒の帝国――結がこれから潜入しようとしていたアジトの主だ。そんな人物と接触してしまった危機感が遅れてやってくると共に、特に何事も無かったことへの安堵、言われた発言への困惑が混ざりあって、結にどっと押し寄せる。

 今のこの感情を言い表す語彙など、結は持ち合わせていなかった。ただ、黒の帝王――ウタが立ち去った方を呆然と見る。

 そこにはとっくに、小さな少女の影も形も見当たらなかった。


 靴を鳴らして、ウタは山岳を降りて行く。中腹辺りに辿り着いた頃、彼女は足を止め、顔を上げた。

「……ケルベロス!」

 ウタの鈴を転がしたような声が鋭く響く。そのすぐ後、空気が裂かれた。

 巨大な獣が、凄まじいスピードで大地を蹴り付け、彼女の前に降り立つ。狼にも似た獣はぎろり、鋭い目で小さな少女を見下ろした。その目に、全く堪えた様子もなく、ウタは笑う。

 巨大な獣は、ゴキゴキと骨の音を立てて、変形していく。体高3mはありそうな獣は、変形とともに小さくなり、やがて180cm半ばほどの男になる。身体のあちこちに痛ましい包帯やガーゼを張りつけたその男は、人に着けるべきでないような首輪を平然と嵌めたまま、苛立ちを込めた目でウタを見下ろした。

「不機嫌ね、ケルベロス」

「……不機嫌にもなります。ウタ様にあのような狼藉を……俺なら、あんな石、即座に壊してみせました」

 男――ケルベロスはそう唸った。そのすぐ後、ウタの背後で別の男の声が笑う。

「わんわんが狼藉を語るのはギャグじゃねぇ?」

 笑った男は、ケルベロスの睨みを受けながらなお笑い、石を蹴ってウタの隣に並ぶ。190半ばほどの身長の、黒髪だが、目を隠すほどに長い前髪だけが金色の男。

「あらジャック、お前も居たの」

「そりゃー居ますともよ。我等が帝王がお一人でのんびり山岳を下って戦地に向かうってんだから、護衛しにゃあな?」

 ジャックと呼ばれたその男は相変わらずヘラヘラと笑い、ウタの隣へと歩を進める。ケルベロスが吠えた。

「俺はわんわんではない! 俺はこの『獣の遊戯ウルフ・トライフル』を以てウタ様の足となり牙となるのみ! 噛み殺すぞ貴様!」

「あーあーわーってるってうっせぇなぁ」

「貴様!」

 ジャックが面倒臭そうに溜息を吐き、その態度にさらにケルベロスが吠え立てる。自分より遥かに大きな男二人の喧嘩に挟まれて、しかし臆することなくウタはただ肩を竦めた。それもそのはず、この二人の喧嘩はいつもの事である。

 ジャックとケルベロス――彼等こそが、『黒の帝王』の双璧であり、両腕である。常にウタの両脇に控える彼等は、黒の帝国の二大柱であり、牙だった。ケルベロスの方は自らの能力、『獣の遊戯ウルフ・トライフル』――体の一部から全体まで獣化する能力を以て、ウタの足ともなる。

 その二人の間で、ウタは笑った。

「ジャック、ケルベロス。お止めなさい」

 その一言で、男二人の口争いは即座に静止する。彼等の目を受けながら、ウタは笑みを浮かべ続けていた。

「戦いの前の散歩のつもりだったけど、面白そうな人材も見つけたし、細かいことはどうだっていいのよ」

 その言葉に、ジャックはにまりと笑い、ケルベロスは拗ねたように顔を顰める。正反対の反応を、そのどちらもを意に介した様子もなく、ウタは上機嫌に続ける。

「さぁ、そろそろ行きましょうか。時間も近いわ。……まあ、急ぐ必要は無いのだけど。だって私達は『黒の帝国』……

自由を謳う、黒だもの」

 くすくすと笑ったまま、ウタはケルベロスを見上げた。

「さあ、散歩はもうお終い。私の足になって頂戴、ケルベロス」

 その言葉を受け、ケルベロスの顔が輝く。無いはずの尻尾がはち切れんばかりに振られるのがジャックには見えた気がして、呆れた顔をする。

 やっぱわんわんじゃねぇかよ。という言葉も、口にすると面倒だとはつくづく理解しているのであった。また、目の前の男がゴキゴキと変形していく。肉が蠢き、骨が形を変え、身体中から毛が生えていく。服や首輪は増幅していく肉に呑まれて見えなくなる。恐らくは変身というより怪物の皮を着るようなものなのだろう、と分析していたのはロッソだったか。それにしても、いつ見てもその光景は少々グロテスクだとジャックは思う。もっとファンタジーに、煙立てたら狼、ぐらいに留めておかなかったあたり、能力というものは妙に趣味が悪い。誰のか、というのはジャックには知らぬ事だが。

 ケルベロスがまた、巨大な狼と成り終える。その狼が屈むのを確認して、ウタはひらりとその背に飛び乗った。狼が立ち上がる。それを見上げて、ジャックは笑った。

「なぁケルベロス、俺も乗せてくれよ」

「誰が貴様など……」

「乗せてやりなさい」

「ウタ様のご命令とあらば」

 変わり身の速さにまた笑う。ウタの一言であっさりと頷いたケルベロスの背に飛び乗って、ジャックは前に座るウタを見下ろした。

 実に楽しそうに、その少女は笑っていた。遠くで、狼煙が上がるのが見える。

「開戦ね。楽しみましょう? 今日こそ、白を滅ぼすために」

 ウタはくすくすと笑い、ケルベロスに走り出すよう促した。狼が頷き、大地を蹴り上げる。土煙が上がる。

 それが落ち着いた頃、三人――あるいは二人と一匹――の姿は、既になかった。



 その狼煙を見たのはウタ達だけではない。歩を更に進めていた結もまた、遠くに上がる煙を見た。

「始まったのか……」

 ぽつり、呟いて、否と首を振った。そちらに気を向けている場合ではない。自分は自分の仕事をしなければ。脳裏に過ぎる記憶――自らがこの世界に来て初めに見た『殺し合い』の光景を、首を振ってかき消そうとする。

「……ルインさん達なら、大丈夫」

 自らに言い聞かせるように、一人呟いた。きっと大丈夫だと、あの殺し合いの中でも、彼等はきっと無事でいてくれると、願うように。

「……結!」

 潜めた声で名前を呼ばれる。そちらを見ると、岩陰に隠れてやって来る黒髪が見えた。

「イルドバッハさん……」

「よしよし、無事合流できたな」

 安堵したように笑い、イルドバッハは結の隣にまで近付いて頭を撫でる。

「イルドバッハさん、戦いが」

「ああ、始まったな」

 イルドバッハは頷く。真面目な顔をしているが、結のような不安の色は見えなかった。

「……大丈夫、あいつらは皆精鋭だ。俺達は安心して、俺達のやるべきことをやればいい」

 先程結が自らにかけた言葉を、かけられる。同じ言葉なのに、人からかけられたというだけで安心してしまえるのは何故だろうか。

 結に最早戦場への不安は無かった。頷いて、『それ』を見上げる。イルドバッハもまた振り返り、頭を上げた。

 岩陰からとはいえ――もう目の前にまで迫った黒の帝国アジト、『要塞』は、黒く高く、威厳をもって聳えている。

 ただの建物であるはずなのに、その存在感と威圧感は凄まじく、思わず結は生唾を飲む。

「……人の気配は少ない。想定通り、ほとんどの戦力は抗争に出払ってるみたいだな」

 イルドバッハはそう呟いて、結の頭を撫でる。

「大丈夫、全部上手くいくさ」

「……はい」

 結もまた頷き、再び目の前の建物を見上げる。

 戦争が始まったとは思えないほどの静けさが、そこには流れていた。



 ――その一方でC地区都市部では、血の臭いが漂い、戦争の喧騒が鳴り響く。怒号、爆音、金属音――その音の中、ルインの耳には数多の声が届く。思案。高揚。怯え。歓喜。あらゆる声がルインの頭を叩きつけ、殴りつけ、痛みを伴う攻撃となる。

 『真実の耳トゥルーイヤー』は、元々はこんな能力ではなかった。自らの意思で聞く心の声は選ぶことが出来たし、範囲だって狭かった。こんな、『地区全体の人の声を聞き分ける』ことなど出来るものではなかった。何故ならば、それは人の処理能力を超える。そのような能力を常時発揮させられれば、壊れることは必然だ。

 ルインの能力は最早、制御装置の外れた暴走機械だった。ガルドという新たな制御装置が無ければとっくに壊れていただろう。だからルインはガルドが好きだ。ガルドが何かを隠していたとしても、過去を何も語らなくとも、ガルドのことが好きだ。


 ――己を、己の能力を、こんなイカれたものにした『白の政府』。

 否、『白の総帥』、ヨハン。

 あの男から逃げ出した己を拾ってくれた、ガルドが好きだ。


「ルイン、無理はすんな」

 ルインの耳から、暴力的なまでの声が消えた。膝をつき、音を拾っていたルインの足に、恐竜を模したぬいぐるみの手が触れている。見遣れば、どこか気遣わしげなガルドが自分を見上げている。

「……大丈夫ですよ」

 ルインはそう、微笑んでみせる。


 ガルドが好きだ。

 だからこそ、ガルドのためにならこの力を使っても構わないと思う。それで『白の政府』の企みをぶち壊せるのならば願ったり叶ったりというものだ。

 ルインはガルドを抱き上げて、立ち上がる。自らの背後に並んでいたレジスタンスの仲間達の方へと振り返る。

 レジスタンスも、口にはあまり出さないが、好きだ。自らの居場所だ。ここはとても、居心地が良い。

「……抗争しとる馬鹿共の居場所は把握した」

 なればこそ、と、ルインは心中で笑う。

「行くで。レジスタンス、作戦開始や」


 ――なればこそ。

 ――彼等が誰一人欠けぬよう、誰一人笑顔を無くさぬよう、この力を使おう。


 ――己こそが、レジスタンスの軍師なのだから。




 『白の政府』が陣を張る、都市部の東部のとあるビル。

 その屋上で、ヨハンは戦場を眺めていた。既にぶつかり合い、炎や雷が舞い、銃声さえ響き渡る。

 それらを一望して、ヨハンは笑った。

「まだ『黒の帝王』はお越しでないようですね」

 その白に近い青の瞳に宿るのは、最早狂気と言って差し支えないもの。

 ――この世界に来る前には、無かったもの。

「……もういい加減、時間が無い」

 ヨハンはそう呟く。言葉の悲壮感とは裏腹に、ずっと笑っていた。その様子から、正気であるとどうして思えようか。


「今日こそ――今日こそ、手に入れて見せましょう。全ての願いを叶えるために」


 ヨハンは笑う。

 その背後に控えていたルドルフは、ただ黙って、溜息をついた。

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