五:決意
こんな日々が、永遠に続けばいいと思っていたんだ。
五:決意
「……助け出したい、奴等?」
思わず聞き返した結に、しかし、蘭は笑みを崩さないまま「今の君に教えることは出来ないねぇ」と言った。
「俺の話に乗るか反るかは君次第。君が乗らずに、この抗争中、レジスタンスの霧の中でプルプル震えながら守られてるだけってんならそれでもいいさ。俺は別の手を考えるだけだから」
刺のある言い方に顔を顰め、蘭を睨み上げた。
下から睨まれても蘭の、人を食ったような、心の底の読めない笑みは依然として揺らがない。結ごときが嵩にかかったところで、蘭にとっては子猫が毛を逆立てているに過ぎないのだろう。それを悟り、諦めて目を伏せた。そうして、暫し逡巡した後に、結は口を開く。
「……俺の独断じゃ決められない。俺はまだレジスタンス全員に信用されてるわけじゃない。抗争中、黒の帝国に乗り込むなんて……そんな行動が許されるかどうかはわからない」
「へぇ、……わからない、ってことは、君自身は実行する意思はあるんだ」
「……」
蘭の問いかけに口を噤んだ。そんな結を見て、蘭は首を傾げて、まだ迷ってる? と、もう一つ疑問を重ねる。
その問いに答えず黙ったままでいると、木の上の蘭はだれたように枝に寝そべり、チェシャ猫のように笑った。
「仕方ないなぁ、優柔不断な結ちゃんのためにもう一つ後押ししてやるかぁー」
そう言って、蘭はにんまり笑ったまま、次には歌うように唱える。
「黒髪を一つ括りにして、眼鏡の奥には緑の瞳」
「――!」
特徴を羅列されただけで分かった。目を見開いた結を片目で一瞥して、満足げに蘭は笑みを深める。
「お前、黒斗を知ってるのか……!?」
喉が張り付いて、声が出しづらい。思わぬ所で得た友人の情報にあからさまに動揺している結を揶揄するように、さぁね、とチェシャ猫は木の上にだれたままこてんと首を傾けた。
「知ってるかもしれないし、知らないかもしれない。どちらにせよ、ここから先は有料さぁ。タダより高いものはないってね」
どうする? と、問うたそれが最後のチャンスであることは言われずともわかった。
「……わかった。何とかする」
ひとつの決意を宿した、結の瞳が蘭のそれを見上げる。蘭がにっこり笑って、木の上に寝そべっていた体を起こした。
「君ならそう言ってくれると思ったよ。それじゃあもう一つ良いことを教えてあげようかなー……そう、ところで、レジスタンスで君を疑っているのはルインだろ?」
「……知ってるのか、ルインさんのこと」
「この戦争も長いしねぇ。わりと有名人だよ、そいつ。
その能力だって、知ってる奴は知ってる」
木に腰掛け足をぶらぶらさせながら、蘭は事もなげに――まるで明日の天気でも言うかのような軽さで――言葉を続けた。
「あいつの能力は『
「……っは」
あっさりととんでもないことを言われた気がする。
――心を読めるだって? そんな相手に隠し事をしながら交渉しなければならないだと? どんな無理ゲーだ、それは。
硬直した結を見下ろして、蘭は愉快そうに笑う。
「まあそう心配すんなってぇ、あいつの能力だって完璧じゃないし、そもそも記憶を読むようなもんじゃない。表層意識に出してなけりゃあ読まれないはずだから、そうだなぁ、お友達のことでも必死で考えてりゃいいよ。心の中で名前でも叫んどきな」
そう言って、あっけらかんと蘭は笑った。なにもかも見透かしているようなこの男は、一体どこまでわかっているんだと、結は思わず身構える。
「……本当か? なんでお前能力のことそこまで知って……」
「え? 知らないよ?」
「は?」
あっさりと否定されて思わず間抜けな声が出た。そんな結をからかうように、勘だよ勘、などと蘭が笑いながらほざく。
殴ってやろうかこいつ、という念を込めて睨みあげる結を見下ろして、彼は今度は苦笑して肩を竦めた。
「別に根拠が無いわけじゃないよぉ? ただ、心を読むなんて能力、それなりの負担が無いわけないだろ? それにルインの奴は『一線を超えた』って聞く。確証もないのにわざわざ君の深層心理を覗くなんて、そんな疲れることしないさ。しかも抗争の前日にね」
一線を超えた――それは、イルドバッハも言っていたことだ。それがどういう意味なのか、その時は聞けなかったが、蘭も何か知っているのだろうか。
しかし、問おうと口を開きかけたその時、蘭がすっくと立ち上がった。
「そろそろ迎えが来る頃だね」
「迎え?」
蘭は黒兎を頭に乗せて、軽く己の両足を手で叩いた。そして、結の質問には答えずに、代わりに、にこりと笑みを浮かべる。
「それじゃあいけそうなら今夜教えてよ、森さん送るからさ」
言うだけ言って、返事を待たずに蘭は木を蹴って飛び上がった。人間の脚力ではありえない程高く飛んだ彼はそのまま何処かへと飛び去って、やがて姿は見えなくなる。
あれもまた、おそらく能力によるものなのだろう。蘭の能力は身体強化系なのだろうか、と思いながら、結はバッジを握り締めて蘭が先程まで居た木を見上げる。あれ程高く飛び上がったのだから、木にも相応の反作用が加わっているはずだが、その大木は歪んだ様子もなく聳えていた。
「結!!」
名前を呼ぶ声が聞こえて、振り向く。暗い路地の向こうに、こちらへ走ってくるイルドバッハが見えた。
「結、こんな所にいたのか! 探したぞ」
結の傍まで走ってきた彼は安堵したように笑って、怪我とかないか、と尋ねた。その額や首には汗が伝い、今まで結を探し回って居たのであろうことは察しがついた。流石に申し訳なくて、俯く。
「すみません、勝手に……」
「んー、兎に取られたのは見つかったのか?」
「え? あ、はい、まぁ」
「それならいーんだ、お前に何もなかったなら」
にかりと笑ってイルドバッハが結の頭をわしゃりと撫ぜた。
勝手に行動した己を叱るどころか心配してくれたイルドバッハに、怒られると思っていた結は思わず安堵の息を吐いた。同時に、その暖かな気遣いに心が落ち着く。イルドバッハ当人はよくわかっていないようで、そんな結を見て疑問符を浮かべていたが。
「さてと、どうする? 結。都市部に来てから割と時間経っちまったが……もう少しいるか?」
「……いえ、戻ります」
その答えが予想外だったのだろう。イルドバッハはきょとんと目を見開いて結を見る。
「いいのか? 黒斗については……」
「ここで闇雲に探しても手掛かりが得られる保証はありません。それより、……ルインさんに話があるんです」
「ルインに?」
イルドバッハが瞬きを一つして、それから思案するように顎に手を添えた。
まあ、それはそうだろう。いきなりこんなことを言い出したら訝しむに決まっている。詮索されたらどう誤魔化そうか、と表情には出さないまま結は思考を巡らせた。イルドバッハを欺くのは心が痛むが、蘭のことを話すわけにもいかない。
――しかし、そのような心配は杞憂だったらしい。イルドバッハは特に深く聞くこともなく「じゃあ戻るか」と笑った。
*
同じ頃、C地区の都市部。
大通りからは随分離れた裏路地の奥、少し開けた空き地は都市部の中に位置してはいるものの都市とは到底呼べまい。そこに生き物の気配はなかった。
――ひとつを除いては。
「……ああ……いよいよ明日か、……胃が痛い……」
空き地に転がる土管に腰掛けて、宮條は深い深い溜息をついた。
宮條は白の政府の一員だ。それも、下級構成員ではなく、部署のうちの一つ『研究部』を任された幹部である。研究開発の分野において類稀なる才能を持つ彼は――しかし、現在非常に疲れ果てていた。それは何時ものインセントとコープの暴走であったり、黒の動向への懸念であったり、ヨハンの無茶振りであったりするのだが、兎も角色々なものが重なって宮條は非常に疲れていた。しかし疲れているにも関わらず、宮條が普段引きこもる、己の城ともいうべきプレハブ研究室からわざわざC地区の都市部にまで出てきているのにも訳があった。
「あ、くじょーさん居た居たー! 相変わらず幸薄そうな顔してますね!」
明るい調子のソプラノが聞こえて、宮條は声の方に顔を向ける。其処に居たのは――黒の帝国に所属する、リーベであった。
「やあ、リーベ。元気そうだね」
「宮條さんは相変わらず疲れてますね!」
「はは……」
宮條の元に歩み寄ってきたリーベは無遠慮に彼の頬をつまんでむにむにと弄る。特に宮條も抵抗はせず、代わりに苦笑いを返した。
「何時もここに来る時は疲れてますけど、そんなにしんどいなら寝てればどうです? どこに住んでるのか知りませんけど」
「いいんだ。ここで君と話すのは楽しいし、癒されるから」
それに家、もといプレハブに居るといつインセントとコープが荒らしに来るか分からない。住処に安寧などないんだ――とは、心の中に留めた。リーベにそんなことを言うわけにはいかない。
「まあ今は私も忙しいんですけどねー、抗争が明日なんですよ。団体に属してない宮條さんには関係ない話でしょうけど」
そう溜息をつくリーベは、宮條が白の政府の幹部であることを知らない。
宮條は苦笑いを浮かべて、そうだね、と一言答えた。訂正はしなかった。その代わりに、何も知らない男を装う。
「抗争か。よく分からないけど、気を付けて。怪我をしないようにね」
「だーいじょうぶですって! なんたってこのリーベちゃんですからね!」
リーベがそう満面の笑みを浮かべ、二本の指を立ててピースサインを作ってみせた。
――癒される。
宮條の心の呟きである。インセントのような見た目だけは無邪気だが中身は邪気たっぷりの笑顔でも、コープのような何かを企んでいるような含みのある薄笑いでもない、何の裏もない無垢な笑顔に宮條は内心咽び泣いた。彼は現在非常に疲れていた。
しかし、彼女のこの笑顔が見たくて、白の同胞の目を掻い潜りここまでやってきたのだから、宮條の大袈裟なまでの感激も致し方ないのかもしれない。
彼女との、この関係を維持するために、宮條は白と彼女の双方を騙している。
そんな宮條の心境は知らず、ただ、リーベは一つ瞬きをした。
「……というか、宮條さんはどっかに所属する気無いんですか? 黒の帝国、いいとこですよ」
それはいつも聞かれる質問であった。宮條もまた、いつも通りの苦笑いを浮かべ、いつも通りの返答をする。
「あんまり組織に所属するっていうのが合わなくてね。それに、戦争に参加するのも怖いし」
「うーん、確かに宮條さんは前線なんかに出たら一瞬で死にそうですけど」
「……はは……」
安定の低評価である。
しかし確かに宮條は戦闘員ではないし、能力も戦闘向きのものではなく、かなり使い勝手の悪いものである。故に、前線に出たら瞬殺されるかもしれない、とは大袈裟な話ではなかった。
「でも別にみんながみんな前線に出ないといけないわけじゃないですよ? それにいざとなったらこのリーベちゃんが守ってあげますからね!」
どやぁ、と効果音でもつきそうな笑顔を浮かべ、彼女は胸を張った。
「だから、宮條さんも黒に来ましょうよ! 一緒に自由を掴みとりましょう!」
「考えておくよ」
「……宮條さんはそればっかですね」
その返答を聞いて、自信満々な笑顔から一転、むすりと眉を顰め、頬を膨らませてリーベはぼやいた。彼女は表情が随分とよく変わるので、見ていて飽きない。
――ふと、彼女が拗ねた顔のまま、呟いた。
「そんなに私の勧誘は魅力が無いでしょうか……自由を掴み取るって素敵だと思うんですけど」
「いや、リーベの問題じゃないよ、ただ僕にもまあ色々あって……」
「でも昨日も断られたんですよ」
「昨日?」
まさか、昨日やって来たという『新参者』のことを言っているのか?
――とは、聞くことは出来なかった。宮條はリーベの中では無所属の放浪者である。こんなに早く、『新参者』のことを知っているわけがない。
「そうそう、昨日久しぶりに『新参者』が来たんですよー! それで黒に入れようと勧誘したんですけどレジスタンスに取られちゃって!」
しかし、聞くまでもなくリーベは自ら語り出した。余程悔しかったのだろう、頬を膨らませて、インセントが邪魔をしなければだとかレジスタンスめだとかぶつぶつと呟いている。
――リーベが喋りたがりでよかった。宮條は心の中でそう呟いた。彼も、『新参者』については聞きたいことがあったのだ。彼女が自ら話題を提示してくれたのは幸いであった。
無知な無所属の男の顔で、宮條は何でもないように口を開く。
「――新参者か、本当に、随分久しぶりだね」
「でしょう!?」
宮條の呟きに、俯いていたリーベが勢い良く顔を上げて叫んだ。先程まで顔を顰めて不満を垂れ流していたのが嘘のように、今度は輝かしいばかりの笑顔を浮かべている。本当に表情がよく変わるものだ。
――かつても、そうであっただろうか。
――どうだろう。
「もうずーっと新参者が来ないから白も黒も特に消耗には気を使うようになっちゃって……ずっと大きい戦争が起こらなかったんですよね。もう私つまらなくって! 明日久々に大きい抗争があるの、楽しみで楽しみで仕方ないんですけど、この調子でまた新参者が来てくれるようになったら、きっとまた定期的に大きい戦争も出来ますよね!」
丸い、琥珀の瞳を輝かせて彼女は語る。
宮條は苦渋の色を顔に出さぬよう努めた。それは今彼女の前でするべき反応ではなかった。
「……リーベは、戦争が好きかい?」
代わりに、やはり何でもない顔で、『何でもない』質問を投げかける。唐突で、それ故に話の流れに関係が無いようにも思えるような、そんな。
「? 突然何ですか宮條さん」
当然、リーベは不思議そうな顔をして、こてりと首を傾げた。そうしてそのまま、その唇は返答を形作る。
「好きですよ。私の電撃で驚く相手の顔とか、倒せば倒すほど貯まるポイントとか――こんなに楽しいゲーム、嫌いなわけないじゃないですか」
やはり当然と言いたげな声で、どうしてそんな当たり前のことを聞くのかわからない、といったような顔で、リーベの琥珀が一つ瞬いた。その返答は、この世界ではなんの異常も見られない、ごく一般的なものだった。そんな質問をすること自体が野暮であるほどに。
「……そうか」
「なんでそんなこと聞くんです?」
「いや、大した意味は無いんだ。気にしないでくれ」
「? そうですか」
宮條はいつものように、気の弱そうな薄い笑みを浮かべていた、ように見えた。ように見えたとは、もっさりしたマッシュルームヘアと太陽光を反射した分厚いレンズの眼鏡で顔の上半分を伺う事は難しかったからだ。
しかし、本人が大した意味は無いというのならばそうなのだろう――と、リーベは特に詮索しようとはせず、代わりに「変なの」と笑った。きっとこれも、いつも通り、大したことはない雑談なのだろう、と。
鐘の音が遠くに聞こえた。
「あれ、もうこんな時間」
それはこの都市部の中央にある時計塔が12時を示す鐘であり、この束の間の歓談の終わりを告げるものでもあった。リーベが頬をかいて、「そういえばお腹空いちゃった」と零す。
「それじゃ、時間ですし帰りますか! 明日……は、無理だと思うから……また明後日、ね、宮條さん!」
「ああ、……またね、リーベ」
にぱりと笑って、リーベは宮條の頬を一つ突いてから大通りに戻るべく狭い裏路地へと駆けていく。それに手を振ると、彼女は裏路地に入る瞬間振り向いて、笑って手を振り返す。
彼女の姿が見えなくなってから、数分の間、宮條は土管に腰掛けて特に何をするでもなく空を見上げていた。空は嫌味なくらい晴れ渡っていて、普段プレハブに篭っている宮條には少々眩しすぎる。目を細め、流れる雲をぼんやりと追った。
――明日はこの空も、戦火を映すのだろうか。
ため息を一つついて、宮條は立ち上がる。思考に浸る時間は終わりだった。確か夕方から本部に呼ばれている、と、己のスケジュールを思い出す。
同時に、『彼』の声が記憶の底から宮條の脳を擽った。
――俺だって、ちゃあんと考えてるさ。布石は打っておくよ――
ああ言った、『彼』は、一体何を、
「……宮條、何をしている」
「っ!?」
突如聞こえたこの場にいるはずのない男の声に宮條は思わず肩が跳ねた。
慌てて振り向いて姿勢を正す。リーベが消えた方向とは反対の路地の道から現れたのは、一人の男であった。
真白の軍服を着た彼にある色といえば、オールバックに整えられた薄いグレーの髪と、冷え冷えとした青灰色の瞳くらいのように思えた。その無機質な色に似つかわしく、男の表情は鉄のように変わらない。
――白の政府のナンバーツーであり、最もヨハンに信頼されていると称される男、ルドルフは、やはり感情の読めない無表情のまま、「何をしている」ともう一度問うた。
「い、いえ……特には」
「そうか」
ジャリ、と土を踏み歩み寄るルドルフに、知らず宮條は身を固くした。
何時から彼は此処に居たのかと、それだけが宮條の思考を支配していた。何時から此処に居て、見ていたのか。リーベとのやり取りを見られてはいないだろうか――そんな宮條の緊迫を他所に、彼の目の前で立ち止まったルドルフはやはり無表情のまま部下の顔を見下ろした。
「夕方、ヨハンに呼ばれていたと記憶している」
「は、はい、今から、本部に向かおうかと……ルドルフ様は、私に何か……?」
「……いや」
無機質な青灰が少し細められた。
「何も」
その瞳に人らしい温度は無く、それがまた一層不気味さを増していた。そのガラス玉を直視出来ずに、俯く。
「……用がないのであれば、私はこれで」
それだけ言って、宮條は足早にルドルフの横をすり抜けて路地の道へ向かう。ただ、あの瞳から逃れたい、と、その一心で。
ルドルフはそれを呼び止めることはしなかった。機械のように真っ直ぐな姿勢のまま微動だにせずそこに立っていた。それに安堵しつつ、また不気味に思いつつ、宮條は土を蹴る足を早める。ルドルフはリーベとのことは見ていないのだろうか? そんな期待と、それを打ち消す不安が綯い交ぜになって、冷や汗が彼の首筋を伝ってタートルネックに吸収される。その感覚が気持ち悪い。
宮條が履いているサンダルから伝わる感触が、じゃりりとした土から硬いコンクリートに変わった。首を降り、髪についた汗を飛ばす。
――考えることはやめた。迷い、恐れる事は、己の首を絞める行為だと、宮條とてよく学んでいたのだった。振り切るように、早歩きの足が、いつの間にか駆け足になって裏路地の薄暗い道へと向かっていた。
宮條が路地に消えて、足音さえ聞こえなくなり――おもむろに、男は動いた。その手袋に包まれた右手で己の口を覆い、その体勢のまま、また少しの間、立っていた。
彼は何かを呟いたようであった。その声は風に掻き消え、誰に届きもしなかったが――
*
レジスタンスアジトに帰りついたのは、正午を半刻ほど過ぎた頃であった。
「なんだ、まだ会議やってんのか?」
イルドバッハが結を先導して歩きながら、頬をかいて呟いた。彼の言葉通り廊下には人が見当たらず、どうやら午前の状態のまま、会議室に篭っているようであった。
「どうすっかな……結はルインに用があるんだろ?」
「ええ、まあ……」
「んじゃー会議室行ってみっか」
そう言って、イルドバッハは迷うことなく方向を変えて会議室の方へと向かっていく。結はと言えば、ついていっていいものかと迷い、足が止まってしまった。ルインに信用されていない自分が、会議室に入るのはどうなのだろうか――と。
「ほら、行こうぜ結」
立ち止まった結に気が付いたのか、イルドバッハが振り向いて手招きする。彼は己が会議室に向かうことに特に何も思わないのだろうか、ルインが結を怪しんでいる事は分かるだろうに。それとも、分かっていないのか?
そう、思わず結が訝しんでしまうほどイルドバッハはあっさりとしている。結は困惑気味に己の目線より上にあるイルドバッハの顔を見やった。
「……いいんでしょうか?」
「ん? いいだろ別に、ほら行くぞー」
……やっぱり分かっていないのかもしれない。少々、結は遠い目をした。
「……何の用や?」
イルドバッハに連れられてやってきた会議室――の、扉と廊下の間の小さな小部屋で結達を出迎えたのは、案の定、不機嫌な顔のルインであった。相変わらず彼に抱えられたガルドが、こら、と己を抱き上げている男を窘めた。
「ルイン、そうカリカリするな」
「しかし……、……まだ会議中や。馬鹿と部外者は出て行きぃ」
この場合馬鹿とはイルドバッハのことで部外者は結であろう。予想していた反応ではあるが、こうも露骨だといっそ清々しい。
「ルイン、結はレジスタンスの一員だ」
「……僕はまだ信用してません。いくら貴方の決定でも……」
ルインとガルドが何か話している。俺はどうすればいいんだ、と、立ったまま呆けることしか出来ない結の肩を誰かが叩いた。イルドバッハだった。
「気にすんなよ、結。ルインはいつもこうだからさ……俺の時もこうだった」
「はあ……」
イルドバッハも馬鹿呼ばわりされていたが、それはいいのだろうか。しかし、イルドバッハ本人は全く気にしていないように見えた。
「おや、リーダーと参謀殿が帰ってこないと思ったら、結とイルドバッハじゃあないか」
がちゃんと扉が開く音と人の声に目を向けると、会議室から新たに出てきたのはノワールであった。
「こんな所で話してないで中に入ればいいのに」
「……ノワール、」
「ああ、ルインが入れてくれないのか! いやぁ、大変だねぇ結」
けらけらと愉快そうに笑って、ノワールはルインの近くまで歩み寄り、その頬をつついた。
「……やめぇや、ノワール」
「そーんなツンケンしなくていいんじゃない? 結はリーダーが信用した子だ、それともリーダーの目が信じられない?」
「そうやない」
即答し――せやけど、と言って、ルインは口を閉ざした。言葉を選んでいるようだった。そんなルインを眺め、ノワールは少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「まあ、ルインは裏切りには敏感だからね? 『かつて己のチームを裏切った』君の目に、結はどう映っているんだい?」
「――っ!」
ルインが息を飲み、その目を見開いた。彼の前髪で隠れていない、左側の金の瞳は動揺の色を宿している。
されど、驚いたのは結もまた同じだった。
――己のチームを裏切った?
「ノワール」
「はは、まあそういう事さ。レジスタンスは元々訳ありばかりじゃあないか。今までもそうやって怪しい奴らばかり集まって、それでも上手くやってる。私達と結と、何が違うんだい」
ガルドの声で、ノワールは意地の悪い表情から一転、にっこりと笑って宥めるようにそう言った。対してルインはまだ納得のいかないような顔で、恨みがましくノワールを見やる。
「僕等とこいつは違う」
「へぇ、どう違うの?」
何処か楽しげに問うノワールに、ルインは小さく舌打ちをした。苦々しく、口を開く。
「……僕等は、紆余曲折あれど、皆『戦争を止める』ために集まっとるんや。せやけど、こいつはちゃうやろ」
こいつ、と言いながら結に視線をやったルインは、再びノワールに向き直り、語調を強める。
「こいつの一番の目的は、『友人を見つけて元の世界に帰る』ことや。……僕かて初めから裏切るとは思っとらん。せやけど、その一番の目的とレジスタンスならこいつは前者を取る。僕が危惧しとんのはそこや」
「……成程ね」
ノワールが笑ったまま眉を下げて、肩をすくめた。
「ルインの言い分はこうか。今は『友人を見つけて元の世界に帰る』という目的を果たすためにレジスタンスに身を寄せ、裏切る予定もないかもしれないが、その目的を果たすためにもっと都合がいい、あるいは手っ取り早い、そんな場所が見つかれば――白の政府や黒の帝国かもしれないそこに、レジスタンスを売るだろう、と」
ルインがガルドを抱く腕の力を少し強めた。ノワールの質問には答えず、顔を逸らす――しかし、それがまさに、肯定の意を示していた。
「成程成程、ルインの言い分は分かったよ。ならば結はどうだい?」
「!」
突然話を振られ、結の肩が跳ねる。ノワールは食えない笑みを浮かべこちらを見ていた。ガルドやイルドバッハも、ノワールが結に話しかけたことで視線を向けている。
「お、れは」
突然視線の的になり少々気圧されるも、何とか踏ん張り口を開く。ルインの思いは分かった。だからこそ、結は『誤解』を解かねばならなかった。
「……俺の目的は、確かに黒斗を探して元の世界に帰ることです。けど、レジスタンスを裏切って、別の組織に入る、って事は、ないです」
顔を逸らしていたルインが結に目を向けた。糸目の奥の、左の金色、そして右の赤色が覗く。真一文字に閉ざされていた唇が少し動いた。
「何で言い切れるんや」
「……俺は、戦争も、間違ってると思うから」
脳裏に浮かぶのは初日の記憶だ。
瓦礫の街、硝煙と血と人の焼ける臭い。笑って人を殺す子供達。
蘭も言っていた、ここは――イカレた世界だ。
「俺は確かに黒斗を見つけてさっさと元の世界に帰りたい。……でも、出来ることなら、戦争も無くしたいと思ってます」
「――よく言った! 結!」
「うわっ!?」
言い終えると同時にがばりと肩を組まれ、思わずよろける。そうした本人であるイルドバッハは輝く笑顔で結の頭を撫で回していた。少し痛い。
一方で、ルインは未だに納得しきっていないような、釈然としないような顔をしていた。
「……口だけならどうとでも」
「ルインは疑り深いな~」
ノワールが笑い、それならさ、と指を立てた。
「そんなに信じられないなら、『聞け』ばいいじゃないルイン。君のその、『
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