四:思惑
惰性的な集団が嫌いで、
見え透いた馴れ合いが嫌いで、
幾つもの手を振り解いて、走ったのです。
走って走って走り続けて。
それなのにどうして、
どうして、まだ、
四:思惑
「大きな抗争は、久し振りだな」
チェス盤を目の前に、ロッソは一人呟いた。チェス盤を挟んだ向こう側には誰もいない。こうして一人で相手を想定しながらチェスの駒を並べるのはロッソがいつも考え事をする時の癖のようなものであった。
「今回、抗争を申し出てきたのはあちら側」
カタン、と小さな音を立て、彼は盤上の黒のキングの隣に白のキングを置いた。
ロッソの脳裏に、三日前白の政府から届いた手紙の文面が過ぎる。
――最後の抗争から数年は経ちました。最近は小さな小競り合いばかり……黒の帝王殿も、このままでは埒があかないことはお分かりでしょう?
4日後。
4日後、久々に大戦争といこうではありませんか。
場所は其方が指定して下さって構いません。
ただ、大戦争なのですから、やはり、ここはトップが出ることは当然でしょう。
黒の帝王殿と、戦場で相見えることを楽しみにしていますよ。
白の総帥より、敬意を込めて――
「……白の総帥、ヨハン……何を考えている?」
我等が帝王との接触を図ろうとしていることは明らかである。しかし、動機が読めない。帝王を引き摺りだし、殺す。そんな単純なものではない気がする。そもそも、ヨハンはそんな正攻法でくる相手ではない。もっと周到に、回りくどく、分かりづらく事を進める男である。
それをロッソはよく知っていた。何故なら――
バキゴシャアアアア!!!
突如背後から轟音が鳴り響き、爆風で部屋の小物が幾つか吹っ飛ぶ。チェス盤もひっくり返り、転びかけたロッソは咄嗟に体勢を整える。
「な、なんだ?!」
慌ててロッソが破壊された方向――丁度部屋のドアがある方だ――を見ると、もくもくと煙が立ち上る奥に人影が見えた。床に散らばる木屑はもしかしなくてもドアの残骸だろうか。よく見れば、ドアノブらしき金属体がへしゃげて転がっていた。
煙が次第に晴れていき、ドアを破壊した張本人であろう人影の姿が明らかになる。
「よぉ、ロッソ」
そう言って、着物を半分肌蹴て、胸元にサラシを巻いた女性はにたりと笑った。眼鏡をかけ、右目を黒い前髪で隠し後ろで一つに括った彼女はロッソもよく知る人物である。
「……葬藍」
呆然と彼女の名前を呟いたロッソは、やがてハッとして叫んだ。
「いやいやいや何でだ?! 何でドア壊した?! 普通に入ってくればいいだろ!」
「何だよ、リーベだっていつも壊してるだろ」
「ドア破壊をテンプレにするのやめろ!」
またリーフィさんに小言を言われる……ロッソは先輩である少女を脳裏に浮かべる。これでドアを破壊されたのは何回目だろうか。ドアを直すのはリーフィだから小言を言いたいのは分かるのだが、何故壊すリーベや葬藍ではなく自分が怒られるのだろう。それは、紛れもなくリーフィが女性贔屓であるからなのだが。
しかし、小言を言っても葬藍の耳を左から右に通り抜けるだけだろう。今までの付き合いで悟ってしまった自分が悲しい。
「……何の用だ、葬藍」
結局諦めて、心なしか痛む頭を抑えつつ問えば、葬藍はきょとんとして首を傾げた。
「用がないと来ちゃいけないのか?」
「えっ」
「まあ敢えて理由を言うなら、暇だからからかいに来た」
「……」
そういえば彼女はそういう奴だった。ちょっと喜んだ俺が馬鹿だった――と、改めて頭を抱えた。
「……もう自分の部屋にでも帰ってくれ……俺は忙しいんだ」
文句を言うのも諦めて、せめてさっさと追い出そうとしっしっと手を振る。彼女の襲撃のせいで粉砕したドアと散らかった部屋もさっさと片付けなければならない。吹き飛んだ黒のビショップを拾い上げるロッソに、葬藍は拗ねたように頬を膨らませた。
「なんだよー、構えよケチだなー」
「俺は参謀だからな。作戦を確認しなきゃならない」
「作戦なんてどうせ俺がぶっ壊すんだから意味無いだろ」
「自覚してるなら少しは作戦を守ってくれないか?」
溜息をついて、ロッソは片付けを続行する。その様子にやがて諦めたのか、葬藍は大穴と化した出入口に足を向けた。
残骸を踏み分け、部屋から出た葬藍が、あ、と何かを思い出したように呟いてロッソの方に再び振り向く。
「そういえばロッソ、ウタ様が呼んでたぞ」
「それを先に言え!!!」
ロッソの叫び声は帝国の拠点に高らかに響いた。
*
「まだ作戦会議終わってねぇみたいだな」
会議室の様子を見に行っていたイルドバッハは談話室に帰ってきて一言そう言った。はぁ、と空返事をする結の向かいのソファに座り、紅茶のカップを傾ける。
「能力の話はしたし……ずっとここに居るのも暇だよな。結、どっか行きたいとこあるか?」
「何処か?」
「おう。何処でも連れてってやるぞ」
行きたい所、というか、正直なところ外に出たい。勿論黒斗を探しにだ。そう考えても、しかしそんな事が許されるのだろうかという懸念はある。外は危険だそうだし――何より、どうやら結はまだここレジスタンスの参謀であるルインに信用されていないようだと感じていた。
ルインに信用されていない、というのは自虐ではなく、実際そうだろうという確信すらある。朝食の時もだったが、ルインが結を見る目は、明らかに敵を監視する目だ。
考えあぐねて黙った結に、イルドバッハがあっけらかんと「特に無けりゃ外出るか」と提案した。
「……え、良いんですか」
「ずっと室内に篭ってるのも暇だろ? 街にでもくりだそうぜ。ついでにこの世界の都市部のルールとか教えてやるよ。場所は……折角だしC地区でいいか」
「そうじゃなくて、ルイン、さんとか……」
「気にすんな気にすんな」
軽く笑い、イルドバッハは結の頭をわしゃわしゃと撫ぜ回す。そのまま立ち上がらせて、こいこいと手招きしながら談話室の扉へと歩いていくので、慌てて後を追った。
イルドバッハの後について廊下を歩く。木製のそれは足を動かす度にキシキシと軽く軋んだ。この建物自体、古いのだろう。一体どれくらい前にレジスタンスが結成されたのかは分からないが、ここは人が年を取らない世界だ。イルトバッハ達の見かけからレジスタンスの歴史を推し量ることは難しい。会議室の前を通ると中ではまだ議論しているようで、話し合う声が僅かに聞こえた。
――玄関の扉を開けて外に出れば、昨日のような霧はなく、明るい森の中1本の道が切り開かれていた。恐らくこの道が外に繋がるものなのだろうが、果たして昨日こんな道があっただろうか。結は記憶を手繰るが、昨日はもっと鬱蒼としていて、こんな道なんてなかった気がする。
「……霧、晴れたんですか?」
「いんや、この森には初めから霧なんてないよ」
諸々の疑問を浮かべながら、とりあえずそれだけぽつりと呟いた結に、イルドバッハは事もなげに答えた。
「この森は初めから、一本道でここまで繋がる単純な作りになってるんだ。昨日、結には霧が見えただろうしこの森は深くて整備されてないように感じただろうけど、それは幻覚。ほら、南斗、いただろ? 朝飯の時、お前の隣の」
そう言われて思い出す、室内にも関わらずフードを被った少年のような少女の姿。南斗と名乗った彼女とは、その時特に言葉を交わすことは無かったが。
「あいつの能力は『
「それじゃ、俺は……」
「もうレジスタンスの一員だから、幻覚の対象にはならない。だから霧も無いってわけ」
――南斗にレジスタンスの仲間だと認めてもらえてたのか、一応。あまり話さなかったが、戻ってきたら少しくらい話しかけてみようか――結は、そうぼんやりと思った。
そんな結に、イルドバッハは笑う。
「ほら、ぼーっとしてないで行くぞ結。ルインに見つかったらめんどくせぇし」
「……やっぱり駄目なんじゃないですか、本当は」
「『わるいこと』はバレなきゃ問題ないんだよ」
悪戯っ子のように笑うイルドバッハは、幼い少年のようである。見た目も――年を取らないこの世界を考えれば、実年齢なんかももう遥かに結よりは年上の筈なのだが。
「……そうですね」
つられて噴き出した結の頭を、人より体温の高いイルドバッハの掌が掻き混ぜた。
「この世界は簡単にブロック分けされててな。西からA、B……Fくらいまである。それぞれの地区には都市部だの海岸部だの森林部だの色々あんだけど、位置はバラバラだ。そんでもって西側、つまりA地区に近い方は黒の帝国の力が強くて、東側、つまりF地区に近い方は白の政府の力が強い。その中間地点、C地区の都市部は丁度地区の真ん中だから、東西南北から見ても中心地点で、二つの勢力がぶつかり合うにはぴったりの場所ではあるな」
前を歩くイルドバッハの説明に耳を傾けながら、結は彼の半歩後ろをついていく。イルドバッハは、彼の顔立ちが物語るように、恐らく日本人ではないのだろう。そのせいか、それとも本人の性質か、結よりもやけに足が長い。普通に歩けばすぐに距離ができてしまいそうである。彼が結に歩幅を合わせてくれているのでついていくのにそう苦労はしないが。
「……だから、そこが抗争の場所に?」
「だろうなぁ。こんなデカい抗争は久々だけど、ちまちま起こる小競り合いは大体C地区だ。だから俺達レジスタンスはここ、C地区の森林部にアジトを構えてんだけどな」
大きな抗争は久々、ということは、昨日見た光景は『ちまちま起こる小競り合い』だったということか――
――瞬間、結の脳裏にあの映像が蘇って、思わず口を覆った。血肉と、ひとが死ぬにおい。轟々と立ち上る煙と、飛び交う怒号と、悲鳴。べちゃりと嫌な音を立てて潰れた人の腕。瓦礫や地面に付着した、赤、赤、あか――
「大丈夫か、結。顔青いぞ」
ぺち、と頬を軽く叩かれて意識を取り戻した。目の前に屈んで結の顔を覗くイルドバッハの心配そうな緑の瞳と目が合う。あかいろは何処にもなかった。
何か答えようとして口を開くが、喉が貼り付いて上手く震えない。イルドバッハがあやすように結の背中を擦った。
「都市部の、丁度小競り合いの真っ最中に居たらしいな、結。フロストから聞いた」
「……っ、はい」
「いきなり見る光景でそれはキツイよなぁ……どうする? 今向かってんのはまさにそのC地区都市部なんだけど……綺麗になってる筈だから、思い出すことはないと思うけど、引き返すか?」
綺麗になっている筈、という言葉が結には理解が出来なかった。あれほど酷く破壊された都市が、一夜で元に戻るはずがない。しかし、それよりも、引き返すか、という問に結は考えるまでもなく首を横に振った。早く、黒斗を探さねばならないのだ。こんな恐ろしい世界だからこそ、黒斗を一人にするわけにはいかない。
「……大丈夫、です。行かせてください」
「そっか」
イルドバッハが結の頭を軽く撫ぜた。
「無理はするなよ。一人じゃねぇんだから」
「……はい」
「よし、都市部までもう少しだ。もうちょい歩くぞ」
歩きだしたイルドバッハの後を追う。恐怖が薄れたわけではない。昨日の光景は、未だ結の脳裏に焼き付いて離れない。それでも、立ち止まるという選択肢は無かった。黒斗を探し出して、共に帰るのだ。それだけが結を動かす理由だ。結は、密かに拳を握った。
そこから森の道を歩いて、数十分ほどだろうか。道脇の木々が少なくなりことで森の終わりが察せられる。遠くに、建物らしき影が見えた。
……妙だ。結は眉を潜めて建物の影を見つめる。昨日はあんな高い建物は無かった。それらしいものは軒並み瓦礫と化していて、あんな、そびえ立ったまま無事でいた物など無かった。
無かった、筈だった。
――森の道が終わる。土と植物の地面は煉瓦造りの整備されたそれになる。
機械的に並んだビルの列。その隙間に色とりどりの屋根を持つ様々な店が立ち並ぶ。幾人かの子供たちと、幾人か、と数えていいのかわからない黒い人の形をした何かが往来を闊歩する。確かな賑わいを持って、その、都市部と呼ばれる町は、昨日の惨事が無かったかのように平和な時間が流れていた。瓦礫はおろか、煉瓦が敷かれた道には血の跡さえも無い。
「言ったろ? 綺麗になってる、って」
呆然と、賑わう町を眺める結にイルドバッハが声をかけた。
「……はい」
「都市部だけじゃない。森林部も海岸部も砂漠部も、戦争で破壊された『地形』は、人がそこから出て行って、一晩明けたらもう綺麗さっぱり復元してんだ。
……まあ来たばっかだし、ワケわかんねぇと思うけどな。この世界はそういうもんだ。慣れろ」
「はぁ……」
本当に、この世界では常識が通じないらしい。いや、そもそも異能があったり歳をとらなかったりする時点でそんなものを求めるのが間違いなのか。頭を抱えた結に、イルドバッハが苦笑してまた頭を撫でた。
「さて結、都市部に着いたわけだが、ここでお前に教えとかなきゃいけないことがある」
結が、そう切り出したイルドバッハの顔を見上げると、同時に眼前に人差し指を立てられて思わず目を見開く。イルドバッハは悪戯に成功した子供のように笑って、口を開いた。
「この世界では確かに年中戦争しまくってんだが、まあ、たまには羽を伸ばしてぇ奴もいるんだよ、黒にも白にも。都市部には娯楽施設もあるから、そういう奴らは大体都市部にやって来る。
んで、羽を伸ばしに来てんだから、わざわざ敵陣営と戦いたくはねぇよな、そういう奴等は。それなら自分達のエリア、つまり白ならF地区、黒ならA地区の都市部に行きゃ問題ないんだが、C地区の都市部……つまり、ここにもわりと足を伸ばしてくる。なんでかっていうと、C地区の都市部が一番娯楽施設が揃ってて、質がいいからだ」
「はぁ……」
何の話だと思わず怪訝な顔をしてしまう。そんな結にイルドバッハは苦笑して、まあここからだ、と立てた人差し指で眉を顰めた少年の鼻をつついた。
「敵陣営が鉢合わせたら、そりゃあ小競り合いが起こるよな。実際昨日もそうだった。けど、一応毎度小競り合いが起こるわけじゃなくて、あちらさんも羽を伸ばしたいときは小競り合いが起こらないように暗黙のルールってのを定めてんだよ」
「ルール?」
「『出会っても、相手を詮索せず、己の立場も明かさないこと』」
イルドバッハが、結の鼻を軽く弄りながらニッと笑う。
「そのルールさえ守ってりゃ、基本的には襲われない。小競り合いが起こるのはポイント稼ぎがしたい奴がわざとルールを破るときだが……まあデカい抗争の前日に小競り合い仕掛ける奴は居ねぇだろ。つまり俺達の側がルールを破らなきゃ安全な筈だ」
用心するに越したこたぁねぇけどな。イルドバッハはそう言って鼻を弄っていた指を離した。
「……わかりました」
「うし、じゃあ行くか。結がやりてぇのは、黒斗の手掛かり探し、だろ?」
「! はい」
バレていたらしい。隠していたわけでもなかったが、伝えていたわけでもなかったことをあっさり言い当てられて少し驚いた。言い当てた本人は何ということもないように、どこから行くかなぁ、などと思案していたのだが。
「まあ適当に練り歩いてみっか。シャドウとかにも聞いてみようぜ。似顔絵とかあったら良かったな」
歩きだしたイルドバッハを追って結も足を動かす。と同時に、彼の口から出た聞きなれない単語に首を傾げた。
「シャドウ?」
「アレのこと」
イルドバッハは一言返して指さす。その指の方向を視線で辿ると、どうやら町を行き来する黒い人の形をした何かのことを指しているようだ。
「……あれがシャドウ? あれって何なんですか?」
「んー、この世界の住人?」
「なんで疑問形」
「俺にもあいつらはよくわかんねぇんだよ。この世界の色んな所うようよしてて、娯楽施設とかを経営してるのも大体あいつらなんだけど、喋れねぇしそもそも生き物なのかもわかんねぇし。
都市部に居るシャドウは大体は人型だけど、森林部や海岸部には獣型とか魚型のシャドウもいるぞ。食えねえけど」
――町の中を暫く歩いていると、確かにあちらこちらにシャドウが居た。道を歩くものや、屋台に立って左右に揺れている(客寄せのつもりなのかもしれない)ものなど。
シャドウが黒い影のようではなく、普通の人間と同じ姿をしていたならば、結が元いた世界にあった町の光景となんら変わりはなかっただろう。違いといえば、シャドウ以外、つまり普通の人間は子供しか居ないことと、どうやらこの町、というよりこの世界全体で通貨は必要ないらしいことだ。結は果物屋で特に金を支払った気配もなく子供が店頭に並んだ果物を取っていくのを見たが、店主であるらしいシャドウは何も抗議しないどころか、ぺこりと頭を下げていたのだった。
ブロック分けされた地区、金が無くても回る経済、一晩で修復される地形。不景気や環境破壊などといった問題とは、きっと無縁なのだろう。
そんな小難しい問題に頭を悩ますことなく、ただ子供たちが戦争という名のポイント稼ぎゲームに従事できる、それはとても、
「……上手く出来た世界だな」
ぽつりと呟いた結の声は、前を歩くイルドバッハには聞こえなかったらしかった。
彼が都市部の入口付近で言ったとおり、今日の都市部は平和だった。道で見かける子供たちは、笑い合いながらゲームセンターに入っていったりカードゲームらしいもので遊んだりしている。昨日、小競り合いーーもとい、殺し合いをしていた少年少女達とは思えないほどだ。
――だから、少し気を抜いてしまったのかもしれない。
幾人目かのシャドウに、黒斗の特徴を伝えて見覚えが無いか聞き、首を横に振られて肩を落とした時だった。
「ぷきゅう」
「……ん?」
突如、下から聞こえた鳴き声に首を傾げて視線を向けると、結の足元に黒い兎がいた。
「…………兎?」
「ぷー」
垂れた耳の黒兎はつぶらな瞳で結を見上げる。そういえばこの世界で初めて普通の動物を見たかもしれない。結は屈んで、兎の頭を撫でようと手を伸ばす。
瞬間、兎が結に飛び掛った。
「っうわ……!?」
「結? どうした?」
結に飛び掛り尻餅をつかせた兎は、どこかに走り去っていく。兎が去った方向とは逆方向に少し離れた場所で別のシャドウに黒斗の特徴を聞いていたイルドバッハが結の声に気が付いて顔を向けた。しかし結はそれどころではない事態に気付いて刮目する。
「っやられた! 待てこの馬鹿兎!!」
「結!? 待て、一人で行くのは危な――!」
「俺の校章返せ!!」
学ランの胸ポケットについていた校章バッジを咥え走り出した兎を追って駆ける結にはイルドバッハの静止の声は聞こえていなかった。
「……くそっ、どこ行ったあの兎……!」
どれくらい走ったのか。兎を見失った結はあたりを見渡すと、随分景色が変わってしまって、まだ都市部ではあるようだが大通りから入り組んだ裏路地に入り込んでしまったらしい。
狭くて薄暗い道に自分が立っていると悟って、結は漸くイルドバッハとはぐれたことに気付いた。
――ちょっと、これ、やばくね?
結の頭が漸く冷静さを取り戻す。今の自分の状況は、普通に迷子と言うのではないだろうか。都市部に連れてきてもらっておいて、迷子とか――結は頭を抱えた。どう考えてもやばい。早くイルドバッハと合流しなければ、と、来た筈の道を振り返る。が、必死すぎてどうやってここまで来たのかわからなかった。
「……くそ、全部あの兎のせいだ……」
「ぷっきゅ」
「!」
可愛らしい、しかし今の結には忌々しいあの鳴き声が聞こえて跳ねるように顔を上げた。あの黒兎が路地の奥、T字の突き当たりにちょこんと座っている。まだ校章バッジを咥えていた。
「あいつ!」
「ぷっ」
ぴょこんと兎が横に跳ねて見えなくなる。また見失う前に、と慌てて後を追った。
T字の角を兎が行った方向に曲がる。兎が前をぴょんぴょんと飛び跳ねていくその後を追った。向こうは開けた場所らしく、薄暗い裏路地の終わりを告げる眩しい光が差し込んでいる。暗く狭い道を躓きそうになりながら、必死に走って、走って。
光に飛び込むように裏路地から飛び出した。その向こうにあったのは大通り、ではなく、小さな空き地だった。錆びた噴水を囲むように蔦の生えたベンチが並んでいて、ちらほらと壊れた遊具らしいものがある。元は公園か何かだったのかもしれない――賑やかな大通りとはかけ離れた、廃れた雰囲気に、思わず状況を忘れて立ち止まってしまった。あの『よく出来た』都市部にも、こんな場所があったのか、と。
「兎を追って迷い込むなんて、まるでアリスだよねぇ」
「――!」
「まあ、男のアリスとか、ルイス・キャロルもがっかりだけど」
突如、結のものでない声が降ってきた。慌てて声の主を探してきょろきょろと見渡すと、また「こっちだよ」と声が聞こえた。どうやら壊れた滑り台の近くに聳える大木の上から聞こえるようだった。
見上げると、大木の太い枝に男が腰掛けていた。短めの黒髪に眼鏡をかけ、全体的に黒い服を着た、インセントと同じくらいの年頃の男だ。その膝には校章バッジを咥えた黒兎が悠々と寛いでいる。
「……誰だ?」
「あっれー、君ルール知らないクチ? それとも戦闘狂?」
そう返されて『ルール』を思い出し、ハッとなって口を覆った。やばい。こいつが何者かはわからないが、自身の能力さえ理解していない自分が、戦って勝てる気はしない。
内心冷や汗を流す結の焦りなどお見通しのように、男は笑った。
「ジョーダンジョーダン、俺だって戦う気ないよぉ、君を呼んだの俺だもん」
「……俺を呼んだ?」
「可愛いだろ? この子。森さんって呼べよー」
男が黒兎を撫で回す。そこで漸く、あの兎を使って男が結をここに誘い込んだのだと悟った。なんだか上手く嵌められたようで腹が立つ。
「……校章バッジ、返せよ」
「まあまあそんな怒んなって、コワーイッ」
語尾にハートでもつきそうなテンポで話す男に更にイラッとして、知らず眉間の皺が深くなった。何なんだこいつ。腹が立つ。そんな結とは正反対に男は笑みを深めた。
「返したら君帰っちゃうでしょー? 話を最後まで聞いてくれたら返すから、ちょっと付き合ってよ」
「……話?」
男は膝の上の黒兎――森さんというらしい――の前足をむにむに弄りながら「そう長くはかかんないよぉ」と笑った。
「結ちゃんさぁ、オトモダチを見つけて、さっさと元の世界に帰りたいって思ってるでしょ」
「……なんで、お前が知って……」
「森さんは可愛い上に有能なのよー」
男が黒兎の背中を弄る。その毛皮から取り出したのは、小さな機械――盗聴器であった。どうやら、この兎にいつからかは不明だがつけられていたのだと悟る。
結は口をつぐんだ。
――一体どこまでこの男はわかっているんだ?
「あっははは、そんな警戒すんなってぇ」
「……」
男は朗らかに笑う。しかし、結にはその動作も警戒を深めるものにしかならなかった。男はやがて和ませるのは諦めたのか、一つ咳払いをする。
「まあまずは名乗ろうか。俺のことは蘭って呼んでいいぜー。話ってのはさぁ、結ちゃんにはちょっとやってほしいことがあるんだよねぇ」
「やってほしいこと?」
「明日の抗争。結ちゃん、黒の帝国本部に乗り込んでよ」
その発言に目を見開く。それに構わず、蘭は言葉を続けた。
「明日の抗争では白も黒も本部から大人数出払う筈だからさぁ、そんなに難しいことじゃないだろ? 別に暴れたりとかしなくていい、ただ本部に入り込んで、俺がいいって言うまでそこに居てくれればいいんだ」
「……何で、そんな」
「君を使って悪いことしようってわけじゃないぜ? むしろそれで起こることは、君達レジスタンスにとってもいいことの筈だ」
蘭は笑みを崩さないまま、指で何かを弾く。弾かれたそれは空中を回転しながら重力に従って落ちていき、結の掌に収まる。兎に奪われた校章バッジが結の手の中、太陽の光を反射して輝いた。
「俺もね、君と同じなんだよ、結」
見上げると、蘭はやはり笑っていた。その笑みの真意を読み取ることは結にはできなかった。
「こんなイカレた世界から、助け出したい奴等が居るんだ。その為に、こんな抗争、長引かせたくないんだよねぇ」
だからせいぜい、上手く踊ってくれたまえよ。
そう言って、にんまりと、蘭は笑った。
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