二:出会いとそれから

「昨日に続いて、新参者か」

 部屋に、やけに渋い――低い男性の声が響く。その部屋にいるのはソファに腰掛ける、恐竜のようなぬいぐるみを抱えた着物の男だけであった。その男が口を開く。

「なにか思う所が?」

 最初の声よりは高い、良く通る声だった。その声に応じるように抱えられた『ぬいぐるみ』が、もぞりと動く。

「まあ、少しな」

 低い声はそれだけ答えた。



二:出会いとそれから



「……なぁ、これ、どこまで歩くんだ?」

「……」

 前を歩く少女――フロストは、結の問いに答えず無言で歩き続ける。

 悪い奴ではないんだろう、多分。しかし無口というかなんというか、何を考えているのかよくわからない。フロストへの印象を心の中でそう纏めた結は、はぁ、と密かに溜息をついた。普通に考えれば彼女が先程言った「守ってあげる」という言葉をほいほい信じてしまうのは軽率である。しかし、何故だか結には彼女を疑う気にはなれなかった。彼女からは敵意が感じられない、というか、むしろ何も考えていない気さえする。

 森はどんどん深くなっていき、霧さえ出てきてなんとも不気味な雰囲気を醸し出している。彼女は迷いのない足取りでどんどん歩いていくが、整備されていない森の道に慣れていない結は視界の悪さも相まって何度か転びかけた。数回木の根に躓いたところで、漸くその様子に気付いたのだろうフロストが振り返る。

「……手、繋ぐ?」

「お気遣いなく……」

 女の子に支えてもらうのは流石に情けないので丁重に断らせて頂く。いや、守ってあげると宣言されるとか導かれている段階で既に情けないのだが。

 そんな結の様子にフロストは小首を傾げるも、そう、とだけ言ってまた歩きだそうと足を動かした。

「お、フロスト戻ったのか」

 霧の向こうから声がした。

 そちらを見やると、白い霧の中に人影が見える。身長は結より頭一つ分ほど高そうな、その影はどんどん近付いてきた。フロストは黙ってそれがやって来るのを待つ。

 霧の中のその輪郭が次第に明確になる。まだ20歳は迎えていないであろう、若い男のようだった。真ん中分けの黒髪は分け目の部分から少しちょろ毛が出ていて、後ろでは一つに纏めている――その長さはどうやら首の根元まであるようで、男が歩く度にぴょこぴょこと揺れ、吊りあがった気の強そうな瞳は黒斗のものとはまた違った翡翠の色をしていて、目尻から頬にかけて刺青がいれられていた。顔の直線状のものとは別に、胸元が開いた半袖のシャツから覗く鎖骨のあたりにもカールになった刺青がある。刺青イコール不良、のようなイメージがあった結は思わず身構えたが、そんな結に気付いていないらしい男はにぱっと人懐こい笑みを浮かべた。

「お帰りーどうだった? ……ん、お前は新入りか?」

 男が歩み寄ってフロストの頭をくしゃくしゃと撫でる。そこまで近付いて、漸く――フロストに隠れるような位置にいたのだから仕方ないのだが――彼は結の存在に気付いたらしい。

「し、新入り……?」

「ん? 違うのか? お前フロストが連れてきたんだろ? レジスタンスに入りたいんじゃねぇの?」

「レジスタンス?」

 困惑気味の結を見て、男は合点がいったように「あー」と微妙な声を上げた。困ったように笑って、男はフロストに視線を向ける。

「フロスト、お前ロクな説明せずに連れてきたのか」

「……」

「お前が無口なのは知ってるけどさぁ。ほら彼困惑してるじゃねぇか」

 男に諭すように言われて、しかし、フロストは首を横に振る。あまり表情は変わらないが、少し拗ねているようだった。

「……仕方ない。危なかった。から、拾った」

「拾った……」

 ――拾われたのか俺。そんな捨て犬を保護するみたいな。

「犬みたいに言うんじゃねぇよ……」

 結の心境を察したらしい男がそう言って頬をかく。そうして、このままでは埒が明かないと思ったのだろう、仕切り直すようにこほんと咳払いを一つした。

「まあ、立ち話もなんだしな。様子を見る限りお前は『新参者』だろ? 話は俺達のアジトでしよう。この世界のこと、いろいろ教えてやるよ。身の振り方を考えるのはそれからでいい」

「……それ、私も、しようとしてたの。最初から」

「あーごめんごめん痛い痛い」

 心なしかむくれたようなフロストが男の露出した腕を抓る。宥めるように彼女の頭を撫でて、男は結に向き直った。

「その前に名前を聞こうか。お前の名前は?」

「結。千ノ宮、結です」

 結の名前を聞いた男が、一瞬目を見開いた。――そうか、お前が、と、小さく呟いた声は結には聞こえなかったが。

「……俺はイルドバッハ。レジスタンスって組織の、切り込み隊長ってとこかな」

 よろしくな、と男――イルドバッハはまた、人懐っこく笑って結に手を差し伸べる。躊躇いながらもその手を取ると強く握られて少し痛い。骨張った、鍛えられた大きな掌は、結のものよりも熱かった。


 前を歩くイルドバッハとフロストについていって、どれくらい歩いただろうか。イルドバッハは森に慣れない結に合わせて歩みを緩めてくれたので、先程よりは躓かずに歩くことが出来た。

 更に深みを増した霧の向こうに、ぼんやりとした影が見える。小屋のようだ、と気付いたのはもう少し近付いてからであった。

「着いたぞ。ここが、俺達レジスタンスのアジトだ」

「……庶民的ですね……」

「親しみやすいだろ?」

 悪戯っぽく笑うイルドバッハが指す小屋は普通よりは広めのログハウスである。アジト、というよりは普通の別荘か何かのようだ。こんな霧の深い森の中に別荘を作る物好きはいないだろうが。

「まあこの世界は物騒だからな。カモフラージュだよカモフラージュ。そもそもレジスタンスの仲間以外はここまで辿り着けない」

「そうなんですか?」

「この霧は特殊でな。俺達の仲間が出してんだ、これ。一種の結界みたいなもんさ」

 まあ入れよ、と言って、イルドバッハが木製の扉を開ける。促されるままに入ると、内部も外見に違わない様子で、結からは長く続く廊下が見えた。恐らく土足であがる方式なのだろう、玄関に靴を脱ぐスペースはなく、靴箱もない。

「……オジャマシマス」

「そう固くなるなよ。おーい誰かいねぇのー?」

 イルドバッハがそう廊下の奥に向かって呼びかけると、奥からぱたぱたと人が走ってくる音がする。廊下の突き当たりからやって来たのは、焦げ茶の髪の少女であった。

「フーちゃんイルちゃんおかえり! あれ見ない顔がいる」

 フロストがフーちゃんなのは置いておいても、イルちゃん、とはもしかしなくともイルドバッハのことか。随分可愛らしい呼び方をされているようだ、と面食らう結を、その少女は興味深そうにまじまじと見つめる。あんまり見つめられるので思わず目をそらした。顔の距離が近い。

「ただいま。あんまり結を困らせるなよ」

「結? 結っていうのこの子? 可愛い名前だね! 女の子みたい!」

 何万回と言われてきたことだがこの世界に来てからも二回目となるその台詞に微妙な顔をせざるを得ない。そんな結に、少女はにっこりと笑って結に手を差し伸べた。

「初めまして結、私ディーリア! よろしくね」

「よろしく……」

 その手を取ると思い切りぶんぶんと振られる。悪い人物ではなさそうだが、ディーリアというらしい彼女は結にとっては些か元気が良すぎるようだった。

「いつまでそこに居るつもりなん」

 やや冷たい男の声が響く。

 振り返ると、恐竜を模したようなぬいぐるみを抱え、着物の男が廊下に立っていた。片目を隠すような黒髪は、後ろで一つに纏めており、その長さは背中ほどあるようだった。丸眼鏡の奥の、髪に隠されていない左目は笑っているような感情がないような、所謂糸目である。男は冷ややかな視線(といっても糸目なのだが)をイルドバッハに向ける。

「特にイルドバッハ。ガタイのいい男が突っ立ってたら邪魔なんや。はよ奥に入るなり死ぬなりしてくれへん?」

「死にたくはねぇなぁ」

 わりと酷いことを言われている気がするが、イルドバッハは気にした様子もなく笑う。すると、着物の男が抱えるぬいぐるみがもぞりと動いた。

「(……動いた?!)」

 目を丸くする結など置いておいて、当然のようにぬいぐるみから低い声が響く。

「ルイン、そういう言い方はいけねぇぞ」

「ごめんなさい」

 ルインと呼ばれた着物の男は即座に謝り、イルドバッハへの冷たい様子とはうって変わって柔らかく笑ってぬいぐるみを抱き締める。しかし結は突っ込むタイミングを逃して固まるしかなかった。

 ――ぬいぐるみが動いた。しかも喋った。無駄に渋いいい声だった。

 ルインに抱き締められたまま、ぬいぐるみは目、もとい埋め込まれた黒いビーズを困惑する結に向けた(ように見える)。

「お前が結か」

「え……あ、はい……えーと名前、なんで……」

「ディーリアの声が聞こえた。……それに、黒斗から、な」

「黒斗……!?」

 ぬいぐるみの発言に思わず反応する。それは結がここに来る理由となる友人の名前だ。ほとんど勢いでぬいぐるみに詰め寄る。

「黒斗を知っているのか!? 黒斗はどこに!?」

「落ち着きぃや。ガルドさんに失礼やで」

「構わねぇよ」

 ルインが冷たい目で結を睨むも、ぬいぐるみ――ガルドというらしい――がそれを諌める。ガルドは結を見上げ、冷静に答えた。

「まず、ここに黒斗はいない。何処にいるかは俺にもわからん」

「そんな、」

「聞きたいことは山程あるだろう。順序を追って説明してやる。……とりあえず、部屋に行こうか」


 案内されたのは、中央に木製の大きなダイニングテーブルと、それを囲むようにいくつかの椅子が並んだ、簡素だが十分な広さのある部屋だった。奥には銀色の、やはり簡単な流し台が見える。恐らくは休憩室のような場所なのだろう。ルインに顎で促され、結は左側中央の椅子に座る。その前にガルドを抱えたルインが、ルインの左右にイルドバッハとフロストが座った。ディーリアは「お茶入れてくるね」と言って流し台の方に向かう。

 なんだか取り調べでも受けるかのような椅子の配置だと、結は体を強ばらせた。

「そう固くなるな。取って食うわけじゃねぇ」

「はぁ……」

 黒斗の名を聞いた時よりは落ち着きを取り戻しはしたものの、緊張気味の結にガルドが優しく声をかける。低い、安心するような声だった。

「まずは自己紹介をしようか……俺の名はガルド。ここ、レジスタンスのリーダーをしてる。後ろのがルインで……イルドバッハとフロストはもういいか?」

「あ、はい」

「あと南斗ナイトとノワールってのがいるが……今は出ていてな。まあそのうち帰ってくるだろう」

 部屋の奥から、コップとティーポットを器用に抱え戻ってきたディーリアが、五人の前にコップを一つずつ置いてポットの中身を注ぐ。どうやら紅茶のようで、独特の匂いと共に紅い液体が白い陶器を満たした。

 ……五人、とは勿論ガルドを含めてなのだが、飲めるのか。ぬいぐるみなのに。とは、流石に突っ込める空気ではなく、結はそれを飲み込むように紅茶を煽る。自覚していなかったが、存外喉が渇いていたらしく、すぐに飲み干してしまった。不躾じゃないか、これ。と、自身の行為になんとも言えぬ居心地の悪さを覚える。

「おかわりあるからねー」

 出されてすぐに飲み干すという結の行為を気にした様子もなく、ディーリアは嬉しそうに笑って空になった結のコップに再び紅茶を注ぐ。妙に気恥ずかしくなって、「どうも、」とだけ答えた。

「さて、まずは、この世界のことについて話そうか。お前にとっては訳が分からないことばかりだろう」

「……はい」

 ガルドが話を切り出す。結が頷くと、彼――名前や声から判断するに男だろう、ぬいぐるみだが――は少し考えるように己の顎(?)に可愛らしいぬいぐるみの手を添える。

「まず、お前はここについて何処まで知ってる?」

「えーと……子供だけの、世界……っすか。地下鉄の避難溝から来れる……」

 都市伝説の内容を思い出しながら答えると、ガルドは頷く。

「お前の場合は地下鉄なんだな」

 その言葉の意味は結には分からなかった。

「ここは……そうだな、便宜上『地下世界』とでも呼ぶことにしよう。お前の言う通り、ここは子供だけの世界。大人は存在せず、また子供が大人に成長することはない。ここには、朝や夜はあれど、四季が巡ることも、年月が経ることもないからな。

そして、今、ここでは子供同士が徒党を組み、戦争を行っている」

 結の脳裏に、あの、瓦礫の山と化した街での光景が浮かぶ。切り落とされる腕。舞い散る血潮。怒号と悲鳴が渦巻く――戦場の光景。

「……なんで、戦争なんて」

 絞り出した声は震えているのが自分でもわかる。そんな結を見ながら、ガルドは言葉を続けた。

「……この世界を動かしているのは、『心臓』だ」

「心臓……?」

「それを手に入れた者は、この世界の王者となる……と、言われている。

……誰が言い出したのかも分からないような話だ。だが、皆、それを信じ、心臓を手に入れることで、この世界を己の望む世界にしようとしている。

徒党の、一つは『黒の帝国』。黒の帝王が率いる、『自由な世界』を求める集団でな。もう一つは『白の政府』。白の総帥が率いる、『秩序ある世界』を求める集団だ」

 黒の帝国と白の政府。聞いたことがある名前だった。リーベとインセントが結を引き込もうとした場所。

 結は静かに、確かな警戒を込めて、ガルドを――レジスタンスの面々を睨みつけた。

「……あんたらも、心臓を狙って戦争してるのか」

「いいや、俺達は違う。……と言うと、言い訳がましいように聞こえるかもしれないがな。……ルイン、落ち着け」

 ガルドが冷静に答え、ついでに己を抱えるルインを諌める。どうやら背後に隠した片手にナイフを潜めていたようで、小さく舌打ちしてそれを仕舞う。ルインの行動に、結が警戒を強めたのは当然ではあった。

「……そう警戒するな。俺達はお前を傷付けるつもりはない。

俺達は、黒でも白でもなく、レジスタンスって集団だ。俺達の目的は、この戦争の終結」

「……終結?」

「黒の目的が『自由』で白の目的が『秩序』なら、俺達の目的は『平和』……心臓を巡る、この不毛な戦争を、最小限の被害で終わらせることが俺達の行動原理」

 ガルドが短い腕でたしたしとルインの腕を軽く叩く。それに応じて、ルインはガルドにコップの一つを手渡した。両手でコップを持ち、彼はそれを煽り――飲んだ。

 ――飲んだぞぬいぐるみが茶を。どうなってるんだあのぬいぐるみ。

 緊張感の欠片もないが、結は突っ込まざるを得なかった。勿論心の中でだが。

 短い腕ではルインに抱えられた状態で机に届かないらしい。ガルドは再びルインにコップを預け、結に視線を戻す。

「この戦争は不毛だ。『心臓』を手にした者はこの世界を自由にできるなんて、なんの根拠もない話を信じ、ゲーム感覚で他人を殺す……狂気にでも取り憑かれているかのようにな。この世界では人が死ねば光の粒に包まれて、消える。それも現実味を無くす一因なんだろう。

――人が死に、体が消えた後には赤い小さな石が残る。それは『ポイント』って呼ばれててな。それをより多く集めた者が心臓に辿り着く、っつって、白と黒は競って人を殺してんだ」

「……」

「俺達を信じろ、というのは難しいかもしれねぇが……事実だ。どう考えるかは自由だがな。

別に何処の陣営に行くなだとか、レジスタンスに入れだとか強要する気はねぇ。お前はどうしたい」

「……俺は」

 ガルドの言葉に嘘は無いように思われた。そもそも、彼等にとって結を殺すことなど容易いだろう。今のところ、結にとって最も信用でき、安全なのはここなのである。

 少しの逡巡の後、結は口を開いた。

「俺は、元の世界に帰りたい。黒斗も一緒に」

 結の脳裏に浮かぶのは、かの友人である。

 そうして、ずっと疑問であったことを漸く問うた。

「黒斗はここに居ないんだよな? なんであんたは黒斗を知ってる?」

「黒斗、っつー奴は昨日この世界に来たみたいなんだが、そん時会ったのが俺なんだよ」

 結の問いに答えたのは先程まで黙っていたイルドバッハであった。

「酷く怯えた様子でな。碌に話も出来ずに逃げられちまった。名前は逃げる時にあいつが落としたコレで知ったよ」

 そう言って彼がポケットから黒いものを取り出したそれに、結は見覚えがあった。結と黒斗が通う学校の生徒手帳である。そういえば黒斗はいつも制服の胸ポケットに生徒手帳をいれていたか、と記憶を手繰った。

「黒斗は随分必死にお前を呼んでたな。結、って名前を何度も繰り返してた。お前に会うまでは彼女のことだと思ってたけど」

「……女っぽい名前で悪かったですね……」

 むくれるなよ、とイルドバッハが笑う。だがすぐに真剣な顔になって口を開いた。

「黒斗が今無事かは、悪いが保証しかねる。……だが、もし発見できたら……お前がいればあいつも安心できるかもしれねぇな」

 それを聞いた時には、結の中でもう結論は決まっていた。

「ガルド……さん」

 ガルドが無言で結を見つめ、続きを促す。

「俺は黒斗と一緒に元の世界に帰りたいと思う。あいつが見つかるまで……元の世界に帰れるまで、ここに置いてくれませんか」

 厚かましい話だとは自分でもわかる。机の下で知らず、不安を隠すように握り締めた拳に汗が滲んだ。

 ――ぬいぐるみの表情などはわからないが、ガルドが少し笑ったように思った。

「歓迎しよう」



 もう夜も更け、月明かりが照らす、そこは小さな丘であった。小さなプレハブ小屋と、そこから少し離れた場所にいくつもの墓標が立ち並んでいる、それ以外は殆ど何も見当たらない。木の一本も見当たらない。草っ原は広がっているものの、そのプレハブ小屋の周囲、円を描くようにクレーターのような窪みがあり、そこには雑草すら生えていなかった。

「相変わらず粗末な小屋だな」

 そのプレハブ小屋の扉の前で、コープはそう言って、「しかも遠い」と付け加えた。

「まぁしゃーねぇっしょ。所詮使い捨てのだしさ……どうせ何度も『消える』んだから良いの作ったってしょうがねぇや」

 その隣に並んだインセントはそう答えて、扉の前で拳を握る。そうして大きく息を吸い込んで。

「くーじょうくーん!! あーそびーましょー!!!」

 ガンガンガンガンガンガン!!

「うるさい!!!」

 バターン! と大きく音を立てて扉が勢いよく開く。

 扉を開けたのは全体的に丸みを帯びた男であった。白衣を羽織り、大きめの眼鏡にもっさりとした黒髪、肥満体型という程ではないが少々肉付きのいい顔はどこか疲れているようだった。彼はインセントとコープを交互に見て、深い深い溜息をつく。

「またお前達か……インセント、扉を何度も叩くのはやめろと私は前にも言ったはずだが」

「堅いこと言うなよ宮條ー。あとその話し方気持ち悪い」

「『私』とかないわー似合わなすぎて鳥肌だわー」

「ねぇなんで押し掛けられた上にこんなディスられてんの? 泣いていい?」

 最初の口調とは一転し柔らかい――悪く言えばへタレた話し方に戻り、もうやだと呟いた男、宮條にインセントはにっこり笑った。

「とりあえず客人様を早く入れてもてなせよ」

「お邪魔ー」

 早く入れろという割に勝手に上がり込んでいく2人に、宮條が「帰って!」と叫ぶ。涙目だった。

 そんな宮條のことなど気にもせず、2人はずかずかと部屋に上がる。そこは研究室のようであった。紙の束が床に散らばり、何に使うのか分からないような器具が多く備え付けられている。インセントがそれを見て、うわぁと声を零した。

「宮條研究室汚くね? 整理整頓しろよ」

「いつもはしてるよ……今はいろいろ忙しかったんだ。奥の部屋には入らないでくれよ、もっと悲惨だから」

「へー」

「フリじゃないからね?」

 にやつくコープに、「やめてよホント」と宮條は溜息をつく。インセントがそれを見て、意地悪く笑った。

「お疲れですなぁ『宮條博士』。白の政府きっての頭脳、天才様は苦労が多いんで?」

「その苦労の半分はお前達なのだがな」

 ゴホン、と咳払いをし、また宮條の口調が堅いそれになる。

「ところで、お前達何故此処に来た」

「暇だから」

「だから何故暇なんだ」

 即答したコープに頭を抱えつつ宮條が質問を重ねる。その意味が掴みきれず、インセントは首を傾げた。

 それを見て、宮條が問う。

「総帥から聞いてないのか? 朝拝の時に言ってらっしゃっただろう」

「俺朝拝とか大体遅刻して出てないから。コープは?」

「寝てる」

「お前達……」

 『秩序』を重んじる白の政府にあるまじき自由さに宮條は再び頭を抱えた。

「……明後日、C地区の都市部で黒の帝国との『大抗争』が行われる」

「!」

「いつもの小競り合いとは訳が違う。大規模な争いだ。総帥も出られるらしい――あちら側の帝王も出るそうだ」

「……へぇ」

 宮條の言葉に、インセントとコープの目の色が変わる。薄笑いを浮かべたインセントが口を開いた。

「それなら、多分、レジスタンスも出張るだろうな」

「……まあ、彼等は我々の争いを止めることを目的としているからな。……何かあるのか?」

「いんやぁ? ちょっとねぇ」

 チェシャ猫のように笑って、インセントは拾い上げた鉛筆を指先で弄ぶ。

「楽しみだなぁ」



 夜も更に濃さを増し、街の灯りなどないジャングルの奥では、唯一とも言える月明かりさえ木々に遮られて酷く暗い。この場所に――いや、この世界に猛獣といった、人間以外の動物がいないことがその少年にとって数少ない救いだ。

 それは弦切黒斗がこの世界に来て、二度目の夜であった。食事は木々に生えた果物や川の水で何とかなっているが、夜の冷え込みによる寒さは学ラン程度ではなかなか辛いものがある。一つくしゃみをして、黒斗は歩き続ける足を止めた。

「……寒い……」

 仕方ないといえば仕方ない、自業自得といえば自業自得なのだが、冷えと不安は黒斗の精神を確かに蝕んでいた。耐えきれず、その場に膝を抱えて蹲る。

 黒斗の脳裏に浮かぶのは、唯一の友人であり、親友である少年のことだ。

「……結に会いたい」

 呟いて、その言葉にハッとしたように目を見開いた。

「駄目だ、ここで結に会うってことは結がここに来てるってことじゃないか……! それは駄目だ、こんな、危険な場所……」

 ――突如、黒斗のすぐ後ろで風を切る音が鳴る。反射的に振り返った黒斗が見たのは、斜めに切られてぐらりと傾く熱帯雨林特有の木と――それを切ったであろう、太刀ほどの長さの日本刀を携えた男であった。

「見ィつけた」

 黒い軍服を着たその男の表情は、顔に「封」と書かれた赤い札を貼り付けているせいで殆ど伺えない。唯一見える口元が三日月を描く。その口から覗く歯は鮫のように尖っている。また、彼の後ろで一つに括った黒髪から見える耳は尖っており、人の形はしているものの、得体の知れぬ雰囲気を纏っていた。

 その姿を視認した黒斗が男とは反対の方向に脱兎のごとく駆け出したのは、切られた木が重い音を響かせて地に倒れたのとほぼ同時であった。逃げる黒斗を眺め、男は「オやァ」と奇妙なイントネーションで零す。

「隠れンぼの次は鬼ごっこでアりますかァ。私、そろそろ遊ぶのも飽きてきたのですがねェ」

 男は溜息をついて――ついと指を動かした。

 突如、黒斗の足に鋭い激痛が走る。耐えきれずズシャアと滑り込むように倒れた黒斗の足を、杭のような黒いものが貫いていた。

「――ッ!!」

 あまりの痛みに悲鳴も出ない。地面に倒れ込んだ黒斗の、伸ばされた手は虚しく空を切る。暖かいものが黒斗の足を濡らした。

 男が悠然と、のたうつ黒斗に歩み寄る。

「アんまり抵抗しないで下さいねェ。貴方を殺す訳にはイかないんでアりますよォ。

もウ少し優しく招待差し上げよウとしていたのに、貴方が逃げるから、手荒な真似をしなければならなくなった」

 黒杭が貫通した足は激痛を黒斗に訴え、流れる汗は黒斗の頬を濡らした。それでも気丈に男を睨みつける黒斗に、男はくつりと喉の奥でわらう。獲物を甚振る猫のような笑みだった。

「そろそろ観念して頂けましたかァ? 参りましょうか、我等が主様の所へ」

「……っ、来る、な!」

 黒斗が叫ぶ。同時に彼の翡翠の瞳が赤く染まった。円を描くように渦巻いた赤い瞳が一瞬禍々しい光を放ち――

 次の瞬間、黒斗の姿はその場から消えていた。

「……オや、逃げられてしまった」

 大して感情を込めもせず、男はただそう呟いた。

「やれやれ、また隠れンぼでアりますかァ。アァ、主様に怒られてしまウ……」

 くるりと軍服コートの裾を翻し、男はまた悠々と歩いていく。

 後に残されたのは、見晴らしの良くなった空に輝く月が照らす――無残に切り倒された木と、黒斗の血の跡だけであった。

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