一:子供だけの世界
「『新参者』が、また1人」
口角を上げたまま、男は深く被ったシルクハットの鍔を撫でる。
「何を求める? 自由か、秩序か――それとも。何にせよ、戦わずして何も得られはしない」
男は上から下まで真っ黒で、まるで影のようであった。誰に話しかけるでもなく、歌うように呟く。
「敵を殺せ。殺して殺して殺し尽くして――手を伸ばすがいい。さあ、戦争を始めよう」
一:子供だけの世界
黒いものが身体にまとわりついて気持ち悪い。そう思った。
扉に飲み込まれた結は、ひたすらに走っていた。上も下も右も左も真っ黒で何も見えない。いつから走っているのか、どうして走っているのかもわからない。ただ、絡み付いてくる黒いものから逃げるように走った。
どれくらい走ったのか――遠くに、光が見える。その光に手を伸ばして、結は闇を蹴った。
光に触れた瞬間、視界が真っ白に染まる。眩暈がするような眩い光に思わず目を閉じて、一瞬の静寂。
その静寂は、爆発音にかき消された。
「――っ!?」
刮目した結が見たのは、瓦礫の山と舞い散る火花。元は建物だったであろう鉄の軸が露出したコンクリートの残骸があちらこちらに残り、そこが街であったことを示す。聞こえるのは爆発音と怒号と悲鳴。砂煙に隠れて、誰がいるのかは結には見えなかった。
平和な日本で17年生きてきた結でもわかる。ここは、戦場だ。
突如何かが飛んできてへたりこんだ結の膝元に落ちる。べちゃ、と嫌な音を立てたそれは人の腕であった。
「――ひっ」
喉が引きつって情けない悲鳴が漏れる。後ずさって、後ろの瓦礫に背中がついた。
ここは何処だ。さっきまで扉の中の、闇にいたんじゃないのか?
そう考えて、見渡しても、闇はおろか扉さえ見えはしない。あるのは残骸となった街の光景だけである。混乱する頭はしかし、少し残った冷静な部分が警報を鳴らした。ここは危険だ、早く逃げろと。
「――っとにかく、安全な、場所に」
どこに行けばいいのかはわからないが、少なくともここが安全でないことはわかる。離れなければ、と、震える足を何とか動かした。
ふと後ろを振り返る。砂煙の悪い視界に、ぼんやりと人影が見えた。よく見れば、それは十代前半ほどの子供であった。子供が、その幼さの残る華奢な腕に炎を纏って別の子供を焼いているのである。
「なんだ、これ」
有り得ない光景にショートしそうな頭を降る。とにかく逃げるのだ。結は走り出した。
走っても、風景はなかなか変わらない。依然として瓦礫の山と、砂煙と、怒号が渦巻く戦場である。
「……どんな規模でやってるんだよ……」
走り疲れて、瓦礫の山に隠れるように座り込む。戦場の中心から少しは離れたのだろうか、喧騒は少し遠くに聞こえた。
「……ここが、『子供だけの世界』……なのか?」
確かにあそこにいたのは見る限り――砂煙でよく見えなかったが――子供だけであった。子供が子供を殺していた。『子供だけの世界』、と黒斗から聞いて連想したのは子供しかいない平和で自由で不正のないような、そんな世界であったが、どうもそういうものからはかけ離れているようである。膝元に飛んできた千切れた腕が脳裏に過ぎって、それをかき消そうと頭を振った。思い出して気持ちのいいものではない。
安全な場所へ、と駆け出したがよく考えればそんな場所があるのかも疑問である。結は頭を抱えた。とにかく情報が少なすぎる。なぜ子供同士殺しあっているのか、腕に纏っていた炎は何だったのか、どこまで行けば戦場は終わるのか――
「あーれ、こんなとこに人がいる」
突如、自分ではない人の声が聞こえて跳ね上がるように顔を上げた。目の前にいたのは、黒い前髪を特徴的なピンで留めた、フード付きの――そこに繋がる恐らく調節用であろう紐の先端は電気を帯びたように光っている――服を着た、結と同年代ほどの少女であった。彼女は可愛らしく小首を傾げて、まじまじと結を眺める。
「学ランだ、懐かしー」
「は……?」
次の言葉はそれで、思わず結は己の格好を確認する。そういえば黒斗が消えて、あちこち探し回っていたから学校の制服から着替えていなかったのだった。己の格好をきょろきょろと見返す結に、少女は可笑しそうに噴き出した。
「君、全然『慣れ』てないね。さては『新参者』だな?」
「……新参者?」
「本当に何もわかってない感じだね。まあ、新参者なら話は早い! 君の名前は?」
「ゆ、結。千ノ宮結」
矢継ぎ早に言葉をかけてくる少女に押され気味になりながらしどろもどろに返す。結の名前を聞いた少女は、ぱちくりとその大きな琥珀の瞳を瞬かせた。
「結かー。女の子みたい」
「うるせぇな!」
「あはは」
気にしていることを突かれて思わず怒鳴る結を気にしていないように少女は笑う。
「まあとにかく、ここじゃなんだから行こうか」
「……行く? 何処に……」
「『黒の帝国』に」
にこ、と口角を上げ、少女が座り込んだままの結に手を差しのべる。
「新参者ならまだ何処にも所属してないんでしょ? だったらウチにおいでよ。一緒に『自由』を掴み取ろう!」
「……自由?」
頭がついてこなくて、結は混乱する。目の前の少女は何を言っているんだ? 自分は今勧誘でも受けているのか? と。
訳が分からないままに、差し出されたその手を、とろうとした瞬間だった。
物凄い力で首元を何かに掴まれて、視界が、反転。
「――っぐ!?」
どうやら何かに首元を引っ張られて宙を浮いたらしい。瞬間的な首の締め付けは地面の上に半ば投げ捨てるように転がされると同時に解かれ、思わず咳き込む。殆ど何が起こったのか分からなかった。見渡すと、投げ捨てられたことによって強制的に瓦礫の影から放り出され、砂利の上に投げ出された結と、先程手を差し伸べてきた少女の、間に立ち塞がるように白い服を着た背の高い男が立っている。短い黒髪を風になびかせたその男の、傍に控えるようにある趣味の悪いデザインの人型を模した機械のような、何か。その機械の胴体部分から伸びるアーム部分はにょろにょろと動いており、おそらくあの手に掴まれて投げられたのだろうと予測がついた。
「――インセント!」
少女が男を睨みつける。インセント、と呼ばれた男は対照的に肩をすくめて困ったように笑った。
「困るな、リーベ。新参者には白の政府に入ってもらうんだから」
「はぁ? ガチンゴチンの白なんかよりウチの方がいいに決まってるじゃん!」
少女はリーベというらしい。というか、どちらにも入ると言った覚えはないのだが。そんな結の心の声は当然二人に届くはずがない。
「いやいや、秩序は大事だろ? 黒は適当すぎる」
「黒の方が楽しいし! ねぇ結!」
「いやー白の方がいいよ、なぁ結」
「……知らねぇよ……」
なんだか訳が分からない二人に絡まれてしまった。黒も白もわからないが、早く逃げた方がいい気がする。バレないように少しずつ後ずさりしようと足を動かしたその時だった。
「あーもう! 邪魔すんなインセント!」
バチバチッと、弾けるような音が響く。リーベの腕に纏うように突如現れた――電気。
その電気を纏った右手を、そのまま、インセントのいる方向――つまりは奥にいる結への方向でもある――に、向けた。
「――『
バチィッ! と一際高い音が響き渡って、辺り一体が眩く照らされる。インセント、そして結に向けられて放たれた雷撃は、一直線に襲いかかってきた。
動けない結とは対照的に、インセントは未だ余裕のある笑みを崩さない。インセントが手を翳すと同時に、四方八方から瓦礫が飛んでくる。インセントの丁度目の前に集まった瓦礫たちはそのまま組み合わさって壁状になり、雷撃はそこにぶつかって四散した。
「危ないなぁ」
悠然とインセントは笑う。しかし、結からすればたまったものではない。黒だか白だか知らないが、こんなビックリ人間ショーに巻き込まれて死ぬなんてごめんだった。
それに、黒斗。黒斗は無事なのか? その不安が再び蘇る。
――こんな物騒な世界であいつは危険な目に遭っていないか? 早くあいつを見つけてやらなくては。あいつは人見知りの怖がりだ。今頃震えているかもしれない。
こんなところで座り込んでいる暇はない。今、リーベもインセントもお互いに意識が向いている。逃げるなら、今だ。
そこまで考えて、結は殆ど弾かれたように走り出した。インセントたちが居る方向とは逆方向に駆ける。
「あっコラ待て!!」
そんな結に先に気付いたのはリーベだった。足元に落とされる小さな落雷を必死に避けながら転がるように走る結を追いかけようと彼女は動く。インセントもまた、手を翳し――
「っうぁ!?」
結は、痛みと同時に何かに足を引っ掛けて盛大に顔から転ける。振り返れば、岩で出来たような簡素な罠が彼の片足を捉えていた。
「どっちつかずで逃げられたら困るなぁ結」
インセントが悠然とこちらに歩いてくる。罠に足を噛まれ、身動きの取れない結を嘲笑うように、ゆっくりと。
片腕を振ったインセントの手には、どこから取り出したのか、一振りのナイフが握られていた。
「君がこちらに来ないのなら、俺は、君を殺さなきゃならない」
敵を増やすのはよろしくないからね。
そう笑う。にこり、一見人当たりのいい笑みのままのインセントが、しかし言っていることは物騒そのものである。
バチッ! と、また雷光が走った。落雷は丁度インセントと結を阻むように落とされ、咄嗟にインセントが後方へ飛ぶ。
「……リーベ、邪魔しないでくれよ」
「それはこっちの台詞だし! 邪魔しないでくれる? 結を見つけたのは
再び、一触即発の空気。今のうちに逃げようにも罠は簡素な作りの割にしっかりと足を咥え込んでなかなか外れない。
目の前では雷撃が弾けよく分からない機械が応戦している。
――このまま、俺はこいつらのどちらかに殺されてしまうんだろうか?
そう、思った瞬間。
――目の前に降り立った、白。
「『
静かな、しかしよく通る、鈴のような声が響く。同時に、結の頬を冷たい風が掠めた。
白い髪を風に靡かせ、少女が、結を守るように立っていた。髪だけでなく、肌も白い。露出した腹部や太股は陶磁器のようで、しかし不健康な印象は与えなかった。
――彼女の仕業だろうか、リーベとインセントの足元は凍りついて、二人の身動きを封じていた。
「――っちょ、何これ、冷たっ!」
「……レジスタンス」
焦ったような声を上げて騒ぐリーベとは対照的に、インセントは冷静に――しかし明確な敵意を込めて、白い少女を睨みつける。対して少女はくるりと結の方に振り返った。白に近いブルーの瞳が結を見つめる。
彼女が屈んで、結の足を噛む罠に手を翳す。すると冷たい風が罠に纏わりつき、凍り始めた。
凍ったことで脆くなったのであろう。足を動かせば罠は簡単に砕ける。
「……行こう」
罠から抜けた足を半ば呆然と眺める結に、少女はそれだけ言って結の手をとった。引っ張られて、つい立ち上がる。
「え、行くって、何処に」
「……ここは、危険」
答えになっていない。戸惑う結を知ってか知らずか、結の手を引いて少女は走り出す。手を引かれる結も当然走ることになり、後ろから、リーベが「待てー!!」と叫ぶ声が聞こえた。
少女に手を引かれるまま走る。もう喧騒は随分と遠くなって、周りの風景は荒れ果てた街の残骸から自然の多い森に変わってきた。
少女は何も言わずに結の手を引き前を行く。冷静に考えれば、この白い少女も得体の知れなさで言えばリーベやインセントと大して変わらないのだ。ほいほい付いてきてしまったが、もしも彼等と同類であったら――そう、結の心に不安が宿り出したその時だった。
突然少女が足を止める。危うくぶつかりそうになりよろけた結の方に、彼女はくるりと振り向いてその青白色の瞳を向ける。
「フロスト」
「……は?」
「名前」
それはこの少女の名前だということでいいのだろうか。少女、もといフロストは何処か催促するような目で結を見上げる。彼女の身長は結より少し小さかった。
「えーと……千ノ宮、結、です」
無言の圧力に耐えかねて口を開く。名乗れ、ということで良かったのかは不安であったがどうやらフロストは満足したらしい。頷いて、「行こう」とだけ言ってまた手を引いた。
「ちょっ、ちょちょちょちょっと待って」
「……?」
「これ何処に向かってん、ですか」
問いかけた結に、フロストは小首を傾げて「……安全な場所?」と答える。聞かれても困る、とは、思えど、それを口に出すことは無かった。それよりも、わからないことは山程ある。
「……ここ、一体何処なんだ。日本なのか? あんたとか、リーベとかインセントとかいう奴等が電気だのなんだの操ってたのは何なんだ? 安全な場所って何処だ? ……そもそも、安全な場所なんてあるのか?」
畳み掛けるように問い詰めれば、フロストはたじろいだように眉を下げる。それを見て少し結に冷静さが戻った。女の子に、何をしてるんだ俺は――と。
どうやらフロストは話すのが得意でないらしい。落ち着こう、と息を吐いた。そして、もう一度フロストに向き直る。
「……わかった。じゃあこれだけ答えてくれ。
あんたは、俺に危害を加えるか?」
フロストは一度、そのつぶらな瞳を瞬かせ、小さく形のいい唇を動かした。
「守って、あげる」
*
「――んで、新参者はレジスタンスに取られたって?」
「私頑張ったよ!! 白に邪魔されなければ結をちゃんとこっちに連れてこれてたし!」
「そんでも失敗したんだろ? やーいポンコツ~」
「うっさい!!」
「お゛お゛お゛ん!!」
バチィッと弾ける音とともに雷光が走り、それにモロに当たった男が悲鳴なのか何なのかわからない叫びを上げる。ぎゃいぎゃいと騒がしい様子に、最初の声の持ち主である少し小柄な、顎に少し髭を生やした、歳は17、8程の男が深く溜め息をついて太縁の眼鏡を押し上げた。
「いい加減にしろ。リーベ、ユース。帝王様の前だぞ」
そう言われてリーベともう一人、ユースと呼ばれた、リーベに少し似た風貌を持つ、前髪を左に分けた少し額の広い眼鏡の男――先程の電撃でその艶のある黒髪は少し焦げている――は、ハッとしたように姿勢を正す。その様子を確認してから、部屋の奥に目を向けた。
部屋、というよりは広場と言うべき広さの内装はどこか王の間のような雰囲気が漂う。部屋の奥、数個の段差を挟んで、確かな存在感を持ち、あるのは玉座である。赤い高級そうなクッションを囲う金縁にはアンティーク調の装飾が施され、荘厳な雰囲気を纏う。そしてその椅子の左右に、歳は18ほどであろう、男が二人控えているのだ。一人は黒髪を――黒いのは後頭部だけであり、目を隠すほどに長い少しウエーブがかった前髪は金色である――かったるそうにがしがしと掻き、小さく欠伸を噛み殺した。もう一人はそんな男を咎めるような目で見てから、溜め息をつく。その首には犬用と思しき首輪が嵌められており、体の至る所に包帯が巻かれているのだが、彼はその痛ましい己の姿に気を払う様子はない。
そして、そんな二人が左右に控えるその荘厳な椅子には、歳の頃は9か10であろう少女が悠々と腰掛けている。額の中央で分けられた髪を切り揃え、後ろは背中に届くほどの長さの、そのストレートの黒髪はどこか気品を感じさせる。少女はその丸みを帯びた、まだ幼い翡翠の瞳を一度瞬かせ、ふぅ、と悩ましげに息を吐いた。
「――まあ、いいわ。許してあげる」
歳に似合わず、凛とした、良く通る声だった。
「白に奪われたなら話は別だけれど、今回はあちらも同じことだものね。それに、野良犬が一匹や二匹増えたところで、変わりはしないわ」
「ですよね! さっすがウタ様!」
「馴れ馴れしい!」
ウタというらしい少女の言葉に嬉しそうに反応したリーベの頭を小柄な男が叩く。バシーンと無駄にいい音が響いた。
「痛い! 何するのロッソ!」
「お前が悪い!」
「……騒がしいわよ、リーベ、ロッソ」
ウタの一言で二人は慌てて姿勢を正す。しかし、横で見ていたユースが「怒られてやんの」と小声で笑い、それに反応した小柄な男――ロッソは無言でユースの足を踏む。悲鳴を上げたユースとこっそり含み笑いを零すリーベ、素知らぬ顔のロッソという、安定の三人にウタはまた溜息をつく。しかしそれ以上は彼等を咎める事はなく、椅子の背にもたれかかった。
「レジスタンスも白も、私達――黒の帝国の敵じゃない」
にこり、と、ウタは少女らしい花が綻ぶような笑顔を浮かべ、しかしその風格はその可愛らしい風貌に似つかわしくない、王者のものであった。
「『心臓』を手に入れ、この世界を統べるのは、私。
――この、『黒の帝王』よ」
*
その頃。『新参者』に興味を示していたのは、黒の帝国だけではなかった。
そこは一面真っ白な部屋。壁も床も天井も、光を受け煌めく天井に取り付けられたステンドグラスさえ、白。教会を思わせる造形のその部屋は――いや、この建物全体が、気が狂いそうな程に真白だ。
そこは教会のような雰囲気を持ちながら、しかし同時に、黒の帝国の拠点と同じように、王の間のようなかたちをしている。
白の政府。己が所属するその組織に不満という不満はないが、ただ一つ、この詰まらない色合いはどうにかならないものかとインセントは思っていた。
「――そう。それで、新参者はレジスタンスに取られたのですね」
ステンドグラスの真下――部屋の奥、備え付けられたシンプルだが品のある椅子に腰掛けた男が、インセントの報告に静かに瞳を伏せた。
男の透明に近い白銀の長い髪が揺れる。髪と同色の、男性にしては長い睫毛は僅かに震え、男の、哀しみを示すようであった。彼の額には、インセントの胸ポケットに刻まれたマークと同じものが刻まれている。十字架に斜めの打ち消し線――それは、『白の政府』に所属することを示す紋様だった。
「レジスタンス、フロスト……彼等は、どうも、我々の邪魔をしたくて仕方が無い様だ」
男の着ているものは、インセントや、男の隣に控える軍服姿の男と比べると異質である。布を纏い、ギリシャ神話の神々のようなそれは、しかし妙に男に似合っていた。
「……哀しい。哀しいことですね、理解されないというのは」
男の悲愴を帯びた声は部屋に静かに響き、黙って聞いていたインセントに漸く男は伏せていた目を開き視線を向ける。その瞳の色は、薄い氷のような、白に近い青であった。
「この世界の主は、誰であるべきでしょうか。インセント」
「……それは勿論、我等が総帥でしょう」
「そう……そうですね」
白い男は、傍目から見て、慈愛に満ちたような穏やかな笑みを浮かべる。その隣に控えていた軍服姿の男は、無言のまま少し目を逸らした。グレーの髪をオールバックにした彼は終始無表情で、その感情を読み取ることは出来ない。
「力とは、正しい者が持ち、正しく使われるべきものです。この世界に必要なのは、秩序だ。
『心臓』を手に入れるのは、『白の総帥』である、このヨハンです」
白い男――ヨハンは、にこりと笑いかける。穏やかで優しい笑み。しかし、インセントは背に冷たい汗が伝うのを感じた。
ヨハンが椅子から立ち上がって、白い――本来なら赤色なのであろうが、この部屋に敷かれたものは白である――道となったカーペットにコツリとハイヒールを鳴らす。
段差を降り、インセントの前まで来たヨハンは、彼の肩に優しく手を置いた。
「インセント、君は優秀だ。私は君に期待していますよ」
「……有難うございます」
インセントは賢い。そして、ヨハンのその言葉の真意を、読み取れない程鈍くもない。
「今日はもう下がっていいですよ。疲れたでしょう? ゆっくり休みなさい」
するり、とインセントの肩から手を滑らせるように離し、横を悠然と歩いて、ヨハンは扉を通りどこかへと去っていく。それを追って、軍服姿の男もインセントを抜いて部屋から出ていった。
一人になって、漸くインセントは深い深い息を吐く。
ヨハンの命令さえ守れば、ある程度融通の効く――自身が行っている冒涜的な実験も許される、この組織に不満という不満はない。しかし、己の上司であるヨハンに、少なからず、畏怖のような恐怖のような、『おそれ』を抱いていることも事実である。
「はぁ……」
何だかどっと疲れた。さっさと自分の部屋に戻って寝てしまおうか。もしくは、猫を愛でることにしよう。そう脳内で呟いたインセントの耳に、彼にとっては聞きなれた、間延びした声が聞こえた。
「やーいやーい釘刺されてやんのー」
声の方に目を向ければ、天井のステンドグラス越しに人影が見える。その影は、思い切り、ステンドグラスに足を振り下ろした。
ガラスが割れるような――寧ろその通り割られたのだが――破裂音がインセントの耳を劈く。バラバラと崩れるステンドグラスの破片とともに、その割った犯人である人影が軽く降り立った。
「……コープ」
「インセントおかえりんごー」
「ただいまんごー……じゃないよ何割ってんのおま」
「この方が早い」
コープというらしい、ヘッドホンを首からかけ、黒髪を真ん中わけにした男は降り立った時に少しズレた眼鏡を直しながら平然と答える。
「外から回ってここまで来るのめんどくさかったからさぁ。まあ後で直しといてよ、怒られんのやだし」
「俺の能力そういうんじゃないんだけど」
「こまけぇこたぁいいんだよ」
「ええー」
文句を返しつつもインセントの口元には笑みが浮かんでいた。悪戯っ子のように笑って、コープの肩にのしかかるように腕を置く。
「まぁいいや、宮條でもからかいに行こうぜコープ」
「ステンドグラスは?」
「そのへんの奴らが直してくれるって、多分」
「お主も悪よのぉ~」
2人はあくどい笑みを浮かべ、無残に割られたステンドグラスの破片を踏みながら部屋を出ていく。誰もいなくなった部屋で、やけに見晴らしの良くなった天井から夕日が差し込んでいた。
*
同時刻。また別の場所で――ガタンッ、と、男は机を力任せに殴る。一つの窓から赤色が差し込んでいるもののその部屋は暗く、しかし、散らばった紙とあちらこちらに倒れる家具が、その部屋の持ち主である男の心境を表すようだった。
「新参者……どうして、このタイミングで。僕は確かに――」
「荒れてますなぁ」
男の呻くような呟きに返す声が一つ、まだ若い声だった。朗々としたそれは続ける。
「まあ、十中八九、でしょ。アンタだってずっと持つとは思ってなかっただろ?」
「それでももう少し――いや、言っていても仕方が無いな」
男は白衣の胸ポケットから一つの紙切れを取り出す、それを少し眺めて、また元に戻した。
「……事態が、動き始めているのかもしれない」
決意を込めて、男は呟く。
「急がなければ」
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