迷子と服装検査
あれは忘れもしない、四月も半ばを過ぎてようやくこの学校に慣れてきた頃。特別教室棟の裏手には、グラウンドに隣接した大きな森がある。実習で使うとか使わないとか幽霊が出るとかいろいろな噂が飛び交っているらしいが、真偽のほどは定かではない、らしい。彩から聞いた情報だから詳しくは知らないけれど、ともかく私はその日学校探検をしていて、森に入ってみようと思い立った。入ってみたはいいけれど、すぐに校舎は見えなくなり、道路に出るわけでもなく、私は木に囲まれてすっかり迷子になってしまった。どこを見回しても木ばかり。携帯電話を使おうにも自分がどこにいるのかわからないんじゃ助けの呼びようがない。
困り果てた私が立ち尽くしていると、頭に何かが当たった。
「いったー……」
頭をさすりながら周りを見ると、サッカーボールが落ちていた。とりあえず拾い上げる。
「あんた、どっから来たのよ」
話しかけてみたら、すごく虚しい気分になった。いきなりボールがしゃべり出して道案内してくれないかなーと考えてみる。うう、虚しい。とうとう私は座り込んだ。お尻の下にはサッカーボール。道案内してくれなかった罰だ。
「どうしよ……」
呟いた瞬間、葉が音を立てだした。思わず立ち上がり、音の方を見る。誰か来てる。まさかサッカーボールをお尻の下にしいちゃったからその復讐に大きなサッカーボールが……いやまさか。
がさがさとひとしきり音を立てて、その人は姿を現した。
「あれ?」
彼は私を見て目を白黒させる。まさかこんな森に人がいるとは思わなかったのだろう。私だって、こんな森で迷子になるとは思わなかったし。
「新入生の子?」
歩み寄りながら尋ねられて、私はこくりと頷いた。ユニフォームを見るかぎりサッカー部の人みたいだ。肌は健康的に焼けている。肩はがっちりしていてかなり鍛えているらしい。でも全身のバランスがとれていて、結構かっこいい。顔がいいというよりは、人懐こい笑顔とか、活発そうな雰囲気とか、そういうものがかっこいいと思わせるんだろう。
「もしかして迷子?」
ずばりと言い当てられて、顔が熱くなる。
「……はい」
「そっかー。毎年いるんだよな、探検しちゃうヤツ」
あははー、なんて笑われても何も言い返せない。くそう、私だって好きで迷子になったわけじゃないんだぞ。
「名前は?」
「え、えーと、天音です」
突然聞かれて、驚きながらも答えを返す。そしたら「下の名前は?」なんて平然と言われた。必要ないでしょ、下の名前なんて。思っても言えないのが下級生の弱みだ。
「そら、です。天音そら」
「そらちゃん、か」
そら……ちゃん? 普通天音さんとか呼ばない?
「俺は海道直斗。三年生ね。よろしくー」
手を差し出してきた。高校生って自己紹介の時に握手するものだっけ、という疑問にはそっと目を閉じて、その手を握り返す。しょうがない、なんてったって相手は三年生。しかも森から出してくれる人。
「よろしくお願いします……」
「じゃー行こうか」
口ではそう言いつつ、手を離してくれない。空いてる手で器用にサッカーボールを持ち上げて、そのまま歩き出した。自然と引っ張られる形になって、私もようやく足を動かす。
「あの、手……」
小さく抗議してみると、彼はこちらを見て笑う。何がおかしいかこの野郎。
「離したらまた迷子になるんじゃないの?」
「なりませんっ!」
思わず声を荒げるとまた笑われる。なんて不毛な会話。私が迷子でさえなければこんな手の一つや二つ振り払ってやるのに。そんな私の心情を察してくれる気はないらしく、また前を向いて進んでいく。仕方なく私もついていく。
森から出たら殴り飛ばす、と心に決めて。
***
結局あの時、あいつを殴り飛ばすことはせず適当にお礼を言ったわけだけど。
「あんなののどこがいいのかなー……」
生徒会室の窓からグラウンドを見つめながら呟く。周りできゃーきゃー言ってる方々には聞かれてないはず。多分みんなあの性格を知らないだけだ。顔だけ見ればまあまあだし。ま、朝霧先輩に比べれば月とスッポンだけど。
「何言ってんのよ、そら」
さっきの呟きは誰にも聞こえてないと思ってたけど、彩はしっかり聞いていたらしい。
「サッカー部の部長でエースであの顔よ? いいに決まってるじゃん」
「でも性格とか……」
「いつも笑顔だし優しいし、分け隔てなく接してくれるし、たまに触れてきたりしてドキドキ、って聞いたけど」
「ドキドキ、ねえ」
あれでドキドキするなんて、最近の若者はこれだから……私も若者だけど。しかし彩はどこからそんなに情報を仕入れてくるんだか。
私がぼけっとしてる間も他の女性達は騒いでいるわけで。見かねた朝霧先輩が声を張り上げる。
「サッカー観戦ならよそでやってくれ」
その言葉でぴたりと騒ぎが止んで、それぞれに謝罪の言葉を口にしながら荷物をまとめ、生徒会室を出て行く。
「彩、私たちも帰ろうか」
彩が頷いたのを確認して私は鞄を肩にかけ直す。今度こそ、私たちは生徒会室を後にした。
***
結局配られたのは企画書で、必要事項を記入して次の金曜午後六時までに提出しろ、ということらしい。そして今日はその金曜日で、学校は八時半から始まって、今は八時ちょうどなわけで。
私はベッドの中にいるわけで。
「しまったああ!」
慌てて飛び起きて、三十秒で着替えてリビングに降りる。今日はいつも起こしてくれる母親がいないのをすっかり忘れてた。結婚記念日だから父親は有給とって二人で温泉だかお寺だかに行くとか。夫婦仲がよろしいのはいいことだけど遅刻するのはあまりよろしくないよ。顔を洗い歯を磨き、朝ご飯は時間がないから諦めるしかない。寝癖を押さえつけて家から飛び出たのが八時十五分。学校が始まるまであと十五分。いつもは自転車で二十分弱の道のりだけど、急げば間に合う、ような気がする。ともかくカバンをひっつかみ、私は自転車に飛び乗った。
八時二十二分、家と学校のちょうど真ん中にあるコンビニの前を通る。もしかしたら間に合うかもしれない。頑張れ、私の両足!
八時二十八分、学校が射程圏内に入った。このまま学校に入って一瞬で自転車を止めて音速で階段を三階まで上って教室まで走れば間に合う、多分。それにしても今日は校門に人が多いような……。
「げ」
思わず上品でない声が出る。校門で待ちかまえているのは生徒会と風紀委員の方々だ。つまり今日は服装チェックの日。やましいことのない模範生徒な私は本来だったら何の問題もなく通り過ぎてもいいはずなのに、生まれつき髪が茶色いせいで毎回疑われることになる。そうなれば遅刻するかもしれない。かといって逃げられるわけもなく、自転車を駐輪場に止めて生徒会と向き合う。
「クラスと名前は?」
名簿片手に質問してくる。どこかで聞いた声だなーと思ったら。
「い、一年二組です」
「天音そら、だな?」
朝霧先輩でした。その無表情な顔で言われると尋問されてる気分になる。正直言ってちょっと怖い……キレイだけど。
「名前、お、覚えててくれたんですね」
引きつってる笑顔で言うと、朝霧先輩は眉をひそめた。怒ってるのか、それとも特に意味はないのか。
「その髪は?」
う、やっぱり来た。
「地毛です、これでも」
「そうか」
あれ? やたらあっさりと納得してくれた。ほっとしたのもつかの間、厳しい目が私を見据える。
「そのスカーフは何だ」
「え、あ」
朝急いでたから、適当にスカーフを結んできてしまった。改めて見ると結構ひどい。
「す、すいません!」
慌てて謝ってスカーフを直そうとすると、それより早く視界の端から朝霧先輩の手が伸びてきて私のスカーフを掴んだ。
「うあ、え?」
思わず変な声が出る。
「たった一人のせいで学校全体の印象を決められてしまうこともある。たとえ寝坊しても身だしなみには気を使えよ」
「は、はい」
淡々とお説教しながら私のスカーフを直してくれる。返事をして、視線を彼に戻す。金色がかった髪が視界に入った。さっき納得してくれたのは、彼も髪の色が薄いからだろうか。そう思うと、少し親近感がわいた。
「どういう結び方をしたんだ……」
怒りを含んだ声が言う。どうやら急ぎすぎてた私はとんでもない結び方をしたらしい。
「すみません、あの、自分でできるから……」
「いや、もう少しでほどける」
白い指が少しずつ結び目をゆるめていく。細いくて長い指。しかも、顔、近い……。
近くで改めて見ると、肌がすべすべ。まつげ長い。悔しいけど、私より長そうだ。ああもう、これしきのことで心を惑わされてはダメだ。しっかりしろ私。いくらなんでも顔が赤くなったら不審すぎる。いや、でもこれで動揺しない方がどうかしてるっていうか、私もお年頃の女の子なわけだし、
「終わったぞ。いつまでぼーっとしてる気だ」
彼の声で我に返る。気付けばスカーフは美しく整っていた。なんで女子である私よりネクタイ締めてる朝霧先輩の方が上手なんだ。
「あ、ありがとうございます!」
叫んで頭を下げて一目散に走った。恥ずかしかったのも理由の一つだけど、あと何十秒かでチャイムが鳴ることをようやく思い出したから。
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