ロタール
そう思っていると、扉が開かれて白衣を着た中年の男が入ってきた。
眼鏡を掛けたボサボサ頭の男で、灰色の髪を掻きながら、もう片方の手で無精髭を撫でている。その後ろには、老執事が立っていた。
「身なりを整えてからいらしてください。失礼ですよ」
クルトが顔をしかめながら、中年に対して苦言を申した。
つまりこの人が、現当主のロータル・グレーウェンベルクなのか、とアンジェリカは男を見つめる。
「めんごめんご! 聖女様がいらしたんだから、待たせるのもなんだと思ってね」
「事前から来るのをご存じでしたでしょう? なら来る前に準備してください」
「ははは、面目ない!」
「絶対に思っていませんね」
クルトが盛大に溜め息をついた。
「安心してください、クルト様。昨日お風呂に入られたので、臭いはありません」
「まぁ……まだマシか」
ロータルが笑いながら、向かいのソファに座った。それで妥協するくらいに、この人は不衛生な生活を送っているのだろうか。
前世でいた場所では、御法度である。
「さて、お初にお目に掛かります、聖女様。グレーウェンベルク家当主のロータル・グレーウェンベルクと申します」
「初めまして。アンジェリカ、と呼ばれています。今日からお世話になります。よろしく
お願いします」
二人は礼を交わす。
「失礼ですがアンジェリカ、というのは偽名ですか?」
「はい。フクバラ国のグレハム大神官に、そう名乗るよう言われました」
そう言いながら、グレハムの顔を思い出す。
厳つい顔をしていたが、本当にあの状況の中自分に良くしてくれた。結局、あの後どうなったのか知らないままで、少し気掛かりだ。
「うむ。そのグレハム大神官は良識がある良い人だったんでしょうね」
「はい。最低限のことを教えていただきました」
「どうして聖女が偽名を名乗ったほうがいいか、説明していただけましたか?」
「はい」
アンジェリカは頷いた。
元々の名前は真名と呼ばれ、聖女にとって命と同等の価値があるらしい。聖女は半分神みたいなもので、神の真名は重い。真名を呼ばれると、強制的に名を呼んだ者の番になる。あくまで最初に真名を呼んだ人が、ということなので変更は不可能。だから、この人ならば、という人以外には真名を教えたら駄目だ。
と、説明された。色々と略されている気がするが、とりあえず本名を言ったら絶対に駄目、と理解した。
「うむ。グレハム大神官は、本当に良い人だったみたいだ。そのグレハム大神官は今いずこに?」
「それが、それを説明したことが、フクバラの王様の逆鱗に触れてしまって、それ以来どうなさったのか知らないんです」
「それはそれは……つまり、フクバラの王は貴女を嫁にしようとしていた、というわけですな」
「そうみたいですね。本当にグレハム大神官には、感謝しきれません」
あんな男に嫁ぐ羽目にならず、本当に良かった。もし生きていたのならば、お礼を言いたい。
フクバラの王が、どうして聖女を嫁にしようとしたのか。十中八九、神の加護を永続的に受けたいがために、アンジェリカを縛り付けておきたかったのだろう。
「ロタール様、お願いがあります」
「お願いですか?」
「読み書きが出来るように、勉強をしたいんです。可能であれば、家庭教師を付けてもらいたいのですが」
「ああ。それは確かに必要ですな。うむ」
ロタールはクルトを一瞥し、にっこりと笑った。
「でしたら、クルトに教えてもらったほうがよろしいかと」
「はい?」
予想外の答えに、アンジェリカはきょとんとした。クルトも目を見開いている。
「クルトは教えるのが上手いんですよ。さすがにマナーは女性から教わったほうがいいので、専門の講師を雇いましょう」
「でも、クルトは騎士でいらっしゃるのでしょう? お忙しいのでは……」
騎士の仕事の内容は知らないが、仕事をしている身は忙しいのではないか。
ロタールは笑い飛ばした。
「大丈夫、大丈夫! 戦後の処理も終わったし、フクバラの王を討ち取ったから、一気にどーん! と褒美の代わりに長い休暇を貰っているから大丈夫ですよ!」
「あら。そうなのですか?」
「たしかに、休暇は貰いましたが……」
「いいじゃないか。友人関係も広くないんだからさぁ。どうせ、どっかに遊びに行く予定はないだろう?」
「教えるのはいいんです。ただ、部屋で二人っきりになるのは、如何かと」
「家の中だし、使用人も少ないからいいじゃないか」
「そういう問題じゃない」
敬語が外れている。親子なので、そういうこともあるだろうと、受け流した。
「と、いうことでクルト、聖女様の基礎勉強よろしく! ヘルツ、マナーの講師、頼んだよ!」
「畏まりました」
「逃げないでください」
立ち上がるロタールをクルトが止めるが、華麗に無視して、掌に拳をぽんっと置いた。
「あ、そうだ! 部屋の方も用意しているのですが、聖女様の好みは分からないので、とりあえずクルトが用意したのですが、好みが合わないのであれば、すぐクルトに言ってくださいね。お金のことは気にしなくてもいいですので、遠慮はしなくていいですよ。自分の部屋は、好きなものを囲んでなんぼですからね」
「はい。分かりました」
「研究室と執務室以外の部屋は、自由に出入りしても構いません。あ、厨房は危ないので料理長の許可が出てから入ってくださいね。ああ、それから服なのですが流行のものを買ったのですが、部屋同様好みが合わないのであれば、クルトに言ってくださいね」
「俺に全部押しつけるな」
「と、いうことで研究室に行ってきまーす! 聖女様、いや、アンジェリカさん、自分の家だと思ってくつろいでくださいね!」
と、早口で言って、クルトが再び止める前に、応接間から飛び出た。
あまりにもすばしっこいので、本当に研究一筋の人かしら、と邪推していると、クルトが大きな溜め息を吐いた。
「すまない……あの人、早く研究に戻りたかったみたいで」
「本当に変わった人ですね。でも、野望は持っていなさそうで安心しました」
「あの人の頭は、魔法機のことしかないからな」
「夢中になれるものがあることは、幸せなことですよ」
「……そうだな」
クルトは立ち上がり、アンジェリカを一瞥する。
「屋敷を案内する。勉強は明日からでいいか?」
「はい。お願いします」
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