第34章 黄泉平坂
ルクレツィアが重い
地面を踏む感触が無く──天も地も無いような、不思議な空間。
服は身に付けているが、銃やナイフのホルスターや左手の義手が無い。慌ててポケットに右手を突っ込むと、指輪に触れて、ホッと胸を撫でおろした。
なんとも言いようのない、どろりとした重たい空気が、ルクレツィアの肺腑を満たす。
目の前には、苦しそうに
「カイ……?」
唸りながら、ルクレツィアを威嚇をする黒い塊は、
「カイ……」
「Odite!」
初めてカイが姿を現した、ヘルメガータの
「Odite! Non! Negata!」
錯乱したように、影が叫ぶ。
黒かった繭の糸が、ひと時であれ、金色に戻ったのは……?
迷うことなく、ルクレツィアは、嫌がる影に唇を押し付けた。
◆◇◆
「………………ぁあッ!」
唇を塞がれ、うまく呼吸ができなかったのか、カイは叫ぶと、ルクレツィアを押しのけ、ぜーはーと、大きく息を吸って吐く。
「お前はッ! お前にはッ! 羞恥心というものが無いのかッ!」
なッ! ──改めて指摘され、ルクレツィアは異議あり! と、叫んだ。
「私のファーストキスを奪ったお前が言うなッ! というか、誰のせいだッ!」
赤面するルクレツィアに、「あ……」と、カイが思い出したように声を漏らした。
カイは先ほどの
しかし、禍々しいその外見は、ルクレツィアが最後に見た、ダァトが連れ去った際のもの──
それでも、会話ができる程度には、
「……すまない。その、大変心配を……かけたようだ」
「……わ、解ればいい。解れば」
お互い、真っ赤な顔でうつむいて、額をコツンと合わせた。
「しかし……どうせ、お前の目的は、我ではなく、『モルガ』だろう?」
「何を言う。両方だ」
安否は? ルクレツィアの問いに、カイは顔をしかめる。
「……奴は、我を……我ごと
だから許せぬ。と、カイははっきりと言った。
「我は奴を助ける気はない」
沸々とこみ上げる怒りを、ルクレツィアの手前、なんとか抑えている──そんな様子のカイに、ルクレツィアは、ダァトの言葉を思い出した。
「何をどうすれば、「
ダァトに却下されたとはいえ、「千年以上蓄積された自分の記憶と人格ごとモルガを消す」という選択を、躊躇なく選んだほどだ。
きっと、ルクレツィアが居なければ、もっと感情的になっていたのだろう。
「……だからこそ、モルガを問い
無理だ。と、カイは首を横に振る。
その表情は、疲れきったような、諦めの態度。
「あらかじめ言っておくが、
◆◇◆
相変わらず天も地もない空間を、ルクレツィアはカイと二人で歩く。
途中、いびつな砂の塊のような大きな人形とすれ違い、ルクレツィアは驚いた。
人形はルクレツィアのポケットに入れた指輪に強く反応し、ポケットの外側から、ゴソゴソと触れる。
「……これ、は?」
「……
時折、
ルクレツィアは、入りそうな右手の薬指に指輪をひっかけ、肘から下の左手で押し込むようにして身に着けた。
「これで、満足か?」
問いかけても、反応はない。
ルクレツィアは考え、手にあたる部分にそっと触れた。
びくりッ──人形は驚いたかのように震えたと思うと、途端にザラザラと崩れて消える。
「モルガッ!」
「……夢だ。慌てなくとも、
行くぞ……ルクレツィアの右手を引いて、カイが歩を進めた。
◆◇◆
漂う臭いに、ルクレツィアは顔をしかめた。
崩れた
精霊機の
「モルガ……?」
声をかけても、返事がない。
ルクレツィアが、近づこうとした、その時──。
「危ないッ!」
「ッ!」
ルクレツィアの足元から、無数の黒い棘が飛び出した。
カイに引き寄せられ、なんとか間一髪、避けることに成功する。
『残念……』
幼い少女の声と同時に、紋様の中央の人影が霧散し、代わりに一人の少女を形作った。
「ルツ!」
ルクレツィアの言葉に、幼い少女は眉一つ動かすことなく、冷たく言い放つ。
『貴女の命を差し出せば
「何を……」
言っている……? 表情の強張るルクレツィアに向かって、ルツが何かを呟いた。
「言った通りだろう? 話にならない!」
ルクレツィアをかばったせいで、蛇の尾のような足に深々と棘が刺さり、カイは顔をしかめた。
棘を抜こうとルクレツィアが触れようとするが、カイがそれを制止する。
「やめておけ。お前の『魂』に、傷が入る」
二人のやりとりを見て、ルツが冷たい視線を向けた。
『……シャダイ・エル・カイ……貴方、邪魔よ』
「少しは敬え! 我の
ルツに呼び捨てにされ、ムッとカイが眉間にしわを寄せる。
しかし、その言葉が、ルツの怒りの琴線に触れたのか、初めて怒りの表情を見せた。
『何よ! 全部貴方のせいじゃない!』
まるで、癇癪をおこす幼子のように、目に涙を溢れさせ、ルツが叫んだ。
無数の小さな棘が、四方八方、様々な空間から飛んでくる。
『貴方が、
「チッ……」
カイは舌打ちすると、早々に避けることを諦め、棘がルクレツィアに当たらないよう、翼を広げて覆い隠し、彼女を抱きしめた。
『貴方なんか大嫌いッ!』
「嫌いで結構ッ! このクソガキがッ!」
「やめんかッ! 貴様らッ!」
子どもの喧嘩か! と、ルクレツィアが叫んだ。
「ルツ! お前も落ち着け! 何が起こった! モルガはどうした!」
『──ッ!』
怒りに顔を歪ませて、ルツが二人を──否、ルクレツィアを睨んだ。
『貴女が、それを言うの?』
震える声が、ルクレツィアを糾弾する。
『
「な……」
予想もしない言葉に、ルクレツィアは絶句した。
ルツは、ジッと涙に濡れた顔でルクレツィアを睨みつけたまま、口を開いた。
『
ルツがそう言うと、紋様の中央に、再び、ぼんやりと黒い人影が浮かび上がる。
同時に、周囲の腐臭が、濃くなった。
『けど、
思わず、ルクレツィアは目を見開き、口を押えた。
手足の肉は黒ずんで、腐って骨が見える。
両耳はちぎれて、血の塊がこびりつく。
眼球は無く、見開かれた眼窩の奥に、闇が広がる。
カイにとっても、モルガのこの状況は予想外だったようで、わなわなと震え、ルクレツィアを抱きしめる手に、力がこもった。
『……闇の操者。貴女のせいで、
私は、あなたたちを、赦さない……。
ルツの呟きに、二人は返す言葉が見つからなかった。
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