第27話 カッサンドラ・2


―2―




 ある日の夕方。

 血と腐臭のにおいが当たり前となった555階層にある仕事場の酒場に行けば、あまりにも場違いな男が一人、所在無さげにカウンターに座っていた。

 三十歳に差しかかろうと言う年齢だろうか。でも、頼りない表情や、おっとりした動きで随分と若く――いや、子供に見える。

 仕立てのイイ服に眼鏡。

 どう見たって、この階層の人間じゃない。

 下層に住む人間独特の、荒っぽさと言うモノが無いのだ。

 何処から来たんだろう?

 アタシは、まじまじと彼を見る。

 不意に、アタシと彼の視線があった。

 それからが見物。

 彼は酷く大慌てで、呑み掛けだった酒のグラスを落とした挙句、自分のズボンに引っ掛けた。

 慌てて立ち上がった――別に熱くもないのにねぇ――拍子に、足を絡ませて床に転がる。

 最後には、床に眼鏡を転がす芸当を見せてくれた。

 手探りで眼鏡を探す彼に、周りは失笑。

 ちなみに、アタシも笑った一人だ。

 でも、アタシが他の奴らと違った事は、笑いながらも彼に近付き、眼鏡を拾い上げた事。

 そして、見当違いの方向を探す彼に、眼鏡を差し出した事だ。

 彼は眼鏡を掛けると、まるで女神様でも仰ぐかのようにアタシを見た。

 それから、どもりながら、言った。

「わ――私は、その…貴女の…えーと…その…」

 尻すぼみになった声が、「ファン」と言う単語を最後に消えた。

 アタシのファン?

 なら、大切にしないと。

 アタシはとっておきの微笑を男に向けた。

「嬉しいわ」

 媚びた声。男の顔が、ますます赤くなる。

 男の手を優しく握って、その顔を覗き込んだ。

「今夜は、貴方のために歌うわね」

 彼にだけ聞こえるようにそっと囁き、アタシはステージに向かった。

 店の主人が意味ありげに笑う。

 ――今夜の『お客』は彼かい?

 娼婦としてのアタシに、そう訪ねて来たのだ。

 さぁ? と、アタシは曖昧に答える。

 雑音混じりのマイクの前で、両手でふわりと髪を掻き上げた。

 アタシは呆然と床に座ったままの彼に微笑みかけ、紅く塗った唇を開く。

 彼がアタシの客になるかどうか……それはまだ分からない。

 だってねぇ……ほら、アタシを女神様みたいに仰ぐ男が、アタシを抱けると思う?

 ちょっと扇情的な歌詞を歌っただけで、顔をもうこれ以上無いってぐらい赤くしてる男に、何が出来るって?

 アタシは、ご自慢の声で、彼を散々弄び、楽しんだ。




 でも。

 彼はアタシのステージの途中で、かなり名残惜しげだったけど、店を後にしてしまった。

 残念。

 もう少し遊んでやろうと思ったのに。




 翌日も、男は店にやってきた。

 ただし、変わったオプションを付けて。

 両手いっぱいの真紅の薔薇。

 なんとまぁ、こんな役立たずなモノを持ってくるなんて。

 花なんて食えやしないし、金にもならない。

 彼は、その両手いっぱいの花を、恥ずかしそうにアタシに差し出した。

 思わず受け取ってしまったアタシを見て、彼は、本当に嬉しそうに笑う。

 ああ、と、ため息のように息を零して。

「良く似合うと思いましたが、とてもよく似合います」

 貴女には紅い薔薇だと思ったんです、と、男は少年のように笑った。

 彼はアタシの返答を待っている。

 だから、アタシは笑いかけてやった。

 ご丁寧に刺がとられた薔薇の花を両腕で抱き締め、さも嬉しそうに笑ってやったのだ。

「嬉しいわ」

 昨日と同じ台詞になってしまったけど、男はどうでもいいらしい。

 アタシの笑顔しか見てない?

「こんなにいっぱいの花…初めて見たわ」

「よ、喜んで貰えて光栄です…」

 男は聞き取り難い声で言った。

 それでも、純情そうな笑顔で、言った。

 



 その日のステージ。

 歌いながら、アタシは考えた。

 花なんて育ててる人の話、聞いた事が無い。

 下層の人間は、花なんて役に立たないモノを育てたりしない。

 なら。

 あの男は何処から来たのだろう。

 アタシは、ちらりと男を見る。

 昨日と同じカウンター席。アタシを仰ぎ見る、信仰さえ感じさせるうっとりした色。

 ねぇ、あんたは何処から来たの?

 アタシは、慣れた挑発的な歌詞を口にしながら、男を、じっと見詰めた。


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