第14話 ANGEL・1



RE-ANIMATOR

ACT.5【ANGEL】




-1-




 うたって。ぼくの天使。



 少年は耳を澄まします。

 劇団の下働きである少年が、今劇場で上演されているオペラを見る事など許されません。

 ただ許されるのは、下働きの手を僅かに緩め、隙間から漏れ聞こえる音に耳を澄ますだけです。

 歌っています。

 可愛らしい少女の声が、朗らかに、そして楽しそうに、喜びと恋を歌い上げています。

 少年は、歌い手の少女を知っていました。

 丁度1000階層目に存在するこの劇場。

 少年と少女は、此処よりふたつ下、998階で生まれました。

 少女はとても愛らしく、そして音楽の神様に愛されたように歌が上手だったのです。

 少女は沢山の試験を受けて、この劇団の専属歌手に選ばれました。

 いえ。

 歌うだけではなく、演劇の才能も見込まれて、こうやってオペラの主役を務めるまでになったのです。

 少年は、幼馴染である少女と一緒に居たいが一心で、こうやって下働きとして働いています。

 意地悪な劇団員から、グズだのノロだのバカだの罵られるのは日常茶飯事です。

 なんせ、ここは1000階層。

 下層と上層の境目なのです。

 1000階層より上は、ヘタをすると外の世界よりも恵まれた、この世の楽園なのです。

 そこに生まれた人々が、下層に生まれた少年を疎ましく思うのは当たり前です。

 ただ心配なのは、少女の事。

 少年を心配させないように、いつも笑顔でいる少女です。

 ですが、きっと苛められているに違いない、と少年は不安に思っています。

 でも。

 そんな不安も、少女のこの美しい歌声を聞いていると吹き飛んでしまいます。

 音楽の神様から愛された少女。

 自分以外の誰からも愛されるのは当たり前です。

 少年は、少女が幸せであればそれで良かったのです。

 自分の幸せなど不要でした。

 少女が幸せであれば。そして、時々こうやって彼女の歌を聞く事が出来れば。

 それで、少年は満足でした。




-2-




 仕事が終われば、少女は劇団員の寮に帰ります。

 夜から深夜にかけてのほんの短い時間。

 少年と少女は言葉を交わします。

 短い言葉を交わすだけです。

 それでも、少年と少女は、お互いに相手を心から信頼し、大切に思っている事を理解していました。



 おやすみなさい、と少女が言いました。

 おやすみなさい、と少年が答えました。



 少女の姿が夜の闇に消えるまで、少年は彼女を見送ります。

 それから、彼は疲れた身体で998階層の自分の寝床に戻るのでした。

 



 寝床で、少年は窓から見える月――いえ、あれは月ではありません。月に似せたネオンサインなのです――に祈りを捧げます。

 少女が幸せでありますように。

 神様、貴方が愛するあの音楽の天使に誰よりも幸せを与えてください。

 少年は祈ります。

 少女の幸せだけを。

 少女の為に生きる事が、少年のすべてでした。




-3-




 その日。

 少年の仕事は休みでした。

 休みの日に劇場に近付けば、他の劇団員に怒られます。

 少年は少女の元へ行けない苛立ちと不安を、近所の人の手伝いをするので紛らわしていました。

 そこへ、古くから少女と少年を可愛がってくれた女性が駆け込んできました。

 彼女は恐怖に強張った必死の表情で少年に伝えます。

 混乱し、ぐちゃぐちゃになった彼女の言葉はとても分かり難かったのですが、少年は一番大事な個所をちゃんと理解しました。

 少女に、何かがあったのです。

 少年は女性に手を引かれるまま、1000階層にある病院へと向かいました。





 少女は、白い部屋にあるベッドの上に居ました。

 白いすとんとした医療服の下に収まる小さな身体は、露出した部分すべてが包帯で包まれていました。

 少年は少女の名を呼び、恐る恐る近付きます。

 少年の声が届いたのでしょう。

 少女は、顔をこちらに向けました。

 白い包帯が巻かれています。

 ミイラ男か何かのような感じです。

 少年は少女の名を呼びました。

 少女の口許には僅かですが包帯が巻かれていない場所があり、そこから奇妙な色合いの肌が覗いています。

 真っ白だった少女の肌、そして優しく色付いた唇とはかけ離れたどす黒い色が。

 そのどす黒い色が動きました。

 少年の名が、綴られました。

 その時、少年に訪れた絶望!

 なんと言う事でしょう。

 少女のあれほど美しかった声が、今では100年を生きた老婆よりもしわがれたものになっているのです。

 少女も自分の声に気付いたのでしょう。

 小さく、しゃくりあげました。

 包帯の隙間から覗く無気味な光が、少女の瞳だと気付きました。

 その瞳は、少年以上の絶望に溢れ、光っています。

 少女は包帯に包まれた手でベッド横のテーブルから、硝子製の花瓶を掴み、悲鳴と共に投げつけてきました。

 少年は動けませんでした。

 硝子の花瓶は少年の額にまともにぶつかり、先ほど少女があげた悲鳴よりもずっと綺麗な破壊音を響かせます。

 出てって、と少女は老婆と同じ声で叫びました。

 私を見ないで、私の声を聞かないで、私を聞かないで。

 少女は狂ったように叫びました。

 じくじくと痛む額の傷よりも、少女の叫びを聞いた心が痛くて、少年はその白い部屋から逃げ出しました。

 白い部屋から逃げ出して。

 少年は自分が泣いている事に気付きました。

 額から流れる血よりも熱いものが頬を流れているのです。

 白い部屋からは少女の叫びがいまだ聞こえます。

 少年は耳を塞ぎ、その場に座り込みました。

 少女の狂ったような声など聞きたくありませんでした。

 ですが、ここから離れる事も出来なかったのです。

 少年は声も漏らさずに泣きました。



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