第12話 紅い花・2



-4-




 上の階層へ。上の階層へ。

 青年は進む。

 少女の姿と紅い花を求めて、上の階層へと。

 この広い塔の中で、たった一人の人間を見つける行為の難しさ。分かっているが、青年は諦めようとしない。

 400階層を少し過ぎた辺りだった。

 人の流れの中を彷徨っていた青年は、不意に、振り返る。

 匂いがした。

 花の匂い。忘れる事など決して出来ない、あの独特の優しい香り。

 青年は匂いの発生源を求め、周囲の視線も気にせず、当たりを付けた方向へと走り出した。

 見えた。

 何度も繰り返し思い出した少女の後ろ姿。

 花が揺れる様そっくりに、少女の髪がゆらりと揺れた。

 待ってくれ、と青年は叫んだ。

 少女は振り返らなかった。否。声は届かなかったのだ。

 青年は障害物となる人を押し退け、走る。

 しかし、少女との距離は縮まらない。逆に、広がっていく。

 待ってくれ、と青年は叫ぶ。

 俺に花を。

 青年は叫ぶ。

 鬱陶しげに自分を見てくる人々の視線など、気にならなかった。

 花が欲しい。紅い花が欲しい。

 少女の髪が揺れた。

 自分と少女の距離は、恐ろしいほど広がっている。

 だが、見えた。

 青年の目には、少女の耳に輝く紅い花が見えた。

 振り返らない少女とは逆に、彼を誘うかのように揺れる紅い花が見えたのだ。

 青年は走る。

 彼に突き飛ばされた人の罵声など耳に入らない。

 小さな少女の姿を見失わないように、ただ走り続けた。




-5-




 少女にようやく追いついたのは、彼女が足を止め、建物の中に入ろうとした時だった。

「待ってくれ」

 青年の声に、少女が振り返る。

 彼女は驚いたように青年を見た。

 何か言いたげに開いた唇に、瞬時に笑みが刻まれる。

 愛らしいとしか言えない表情で瞳を細め、少女は彼に向かって微笑みかけた。

「こんにちは」

「挨拶なんてどうでもいい」

 彼は必死の声で言った。「花をくれ」

 舞台に上がった役者のように、彼は大げさな仕種で少女に手を伸ばした。

 少女は困ったように小首を傾げた。

 その顔に、相変わらず微笑は張り付いたまま。

 青年は焦れた。

 自然と、声が荒くなる。

「紅い花を売ってくれ」

 あかいはな、と少女が呟いた。

 ますます小首を傾げる。髪が揺れた。ゆらりと、髪が。

 少女は気の毒そうに笑みを消した。

「御免なさい」

 柔らかい謝罪の声。「紅い花は、今は無いの」

「無い?」

 そう、と少女が頷いた。

 祈るように身体の前で両手を組み、青年を見上げる。

 どこか仮面を思わせる、青年を哀れむ表情で。

「紅い花は特別なの。特別に育てないとならない花なの」

「……とくべつ…」

「そう。だから、今は無いの」

「……どれぐらい待てば手に入る?」

 青年の問いに、少女は首を左右に振った。

 髪が揺れる。

「分からないの」

 揺れる髪の動きに目を奪われた青年の耳に、少女の幼い声が届く。

 紅い輝き。

 あれは、何だ?

「今…お願いしてるのだけど……。丁度いいのが届くのは、いつになるか分からないの」

 少女が彼を再び見上げた。

 髪が流れる。

 少女の耳が見えた。

 紅い花。

「御免なさいね。紅い花が咲いたら、必ずお届けするから」

 それじゃあ、と言って、少女はドアを開き、建物の中に入って行く。

 彼は、その少女の肩を無理やり掴むと、一緒に建物の中に押し入った。

 建物の中は暗く、妙な臭いがした。

 片手で少女の肩を掴み、逃げられぬように空いた手でドアを閉める。

 少女は強張った表情で青年を見上げた。

「何の御用なの?」

 声に怯えの色は無かった。

 青年は笑った。

 少女の肩を掴んでいない手を、彼女に向かって伸ばす。

 耳に触れた。

 いや。

 耳ではなく、その耳に輝く紅い花に触れたのだ。

「これでいい」

 青年は憑かれたような口調で囁いた。

 少女の顔が強張る。

「この花でいい」

「駄目」

 少女の声には怯えは無い。その顔と裏腹に。

 怯えきった表情で青年を見上げる少女と、話している少女は別の人間のようだ。

「この花は駄目。この花だけは駄目なの」

「でも、他に花は無いのだろう?」

「そう。紅い花は無いわ」

 青年は少女の耳に咲く花を掴む。

 少女の顔がますます強張った。

「痛がってるわ」

 他人の痛みを訴えるような声で、少女が言った。

 青年は笑った。

 笑ったまま。少女の耳に咲く花を、引き千切った。

 ぶちり、とあっさりとした感触。

 それに反して響いたのは、恐怖と激痛で染まった、少女の悲鳴。

 ふと、青年は思った。

 自分は、今始めて、少女の声を聞いたのでは、と。

 青年が肩を掴まれたまま、床に倒れてしまった少女の片耳から、まだ残っていた紅い花を引き千切る。

 こちらもあっさりとした抵抗。

 ふたつの紅い花を手に入れて、青年は満足げに両手の中に小さな紅い花を落とした。

「…………?」

 少女が両耳に付けていた小さな花には、ピアスやイヤリングに必要な金属の留め金は無かった。

 代わりに、緑色の長いモノが伸びていた。

「…………?」

 青年はそれが何か、瞬時、理解出来なかった。

 ………根?

 そうだ。

 これは、根だ。

 紅い花が揺れた。

 生きているように。

 違う。

 花は生きている。

 青年の指に緑の糸のような根が絡まる。

 ちくり……と、指先が痛んだ。

 根の先端が、皮膚を破り、彼の身体に入り込んだのだ。

 小さな紅い花は、確かな意志を持って、動いていた。

彼は、呆然とその風景を見守る。

 ――小さな笑い声が響いた。

 見れば、床に倒れた少女が、虚ろな瞳で彼を見上げている。

 ……ほら、と少女が笑った。

 ……だから駄目って言ったのに。

 少女の瞳が完全に色を失い、死が彼女の身体に訪れても、青年は動けなかった。

 何故なら、既に細い緑色の糸は、彼の身体に侵入していたのだ。

 自分以外の何かに身体――いや、精神を侵される恐怖に、彼は絶叫しようとした。

 だが、既に声は出なかった。

 ゆっくりと、紅い花は彼の意識の中心部へ、文字通り、根を伸ばしていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る