第12話 紅い花・2
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上の階層へ。上の階層へ。
青年は進む。
少女の姿と紅い花を求めて、上の階層へと。
この広い塔の中で、たった一人の人間を見つける行為の難しさ。分かっているが、青年は諦めようとしない。
400階層を少し過ぎた辺りだった。
人の流れの中を彷徨っていた青年は、不意に、振り返る。
匂いがした。
花の匂い。忘れる事など決して出来ない、あの独特の優しい香り。
青年は匂いの発生源を求め、周囲の視線も気にせず、当たりを付けた方向へと走り出した。
見えた。
何度も繰り返し思い出した少女の後ろ姿。
花が揺れる様そっくりに、少女の髪がゆらりと揺れた。
待ってくれ、と青年は叫んだ。
少女は振り返らなかった。否。声は届かなかったのだ。
青年は障害物となる人を押し退け、走る。
しかし、少女との距離は縮まらない。逆に、広がっていく。
待ってくれ、と青年は叫ぶ。
俺に花を。
青年は叫ぶ。
鬱陶しげに自分を見てくる人々の視線など、気にならなかった。
花が欲しい。紅い花が欲しい。
少女の髪が揺れた。
自分と少女の距離は、恐ろしいほど広がっている。
だが、見えた。
青年の目には、少女の耳に輝く紅い花が見えた。
振り返らない少女とは逆に、彼を誘うかのように揺れる紅い花が見えたのだ。
青年は走る。
彼に突き飛ばされた人の罵声など耳に入らない。
小さな少女の姿を見失わないように、ただ走り続けた。
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少女にようやく追いついたのは、彼女が足を止め、建物の中に入ろうとした時だった。
「待ってくれ」
青年の声に、少女が振り返る。
彼女は驚いたように青年を見た。
何か言いたげに開いた唇に、瞬時に笑みが刻まれる。
愛らしいとしか言えない表情で瞳を細め、少女は彼に向かって微笑みかけた。
「こんにちは」
「挨拶なんてどうでもいい」
彼は必死の声で言った。「花をくれ」
舞台に上がった役者のように、彼は大げさな仕種で少女に手を伸ばした。
少女は困ったように小首を傾げた。
その顔に、相変わらず微笑は張り付いたまま。
青年は焦れた。
自然と、声が荒くなる。
「紅い花を売ってくれ」
あかいはな、と少女が呟いた。
ますます小首を傾げる。髪が揺れた。ゆらりと、髪が。
少女は気の毒そうに笑みを消した。
「御免なさい」
柔らかい謝罪の声。「紅い花は、今は無いの」
「無い?」
そう、と少女が頷いた。
祈るように身体の前で両手を組み、青年を見上げる。
どこか仮面を思わせる、青年を哀れむ表情で。
「紅い花は特別なの。特別に育てないとならない花なの」
「……とくべつ…」
「そう。だから、今は無いの」
「……どれぐらい待てば手に入る?」
青年の問いに、少女は首を左右に振った。
髪が揺れる。
「分からないの」
揺れる髪の動きに目を奪われた青年の耳に、少女の幼い声が届く。
紅い輝き。
あれは、何だ?
「今…お願いしてるのだけど……。丁度いいのが届くのは、いつになるか分からないの」
少女が彼を再び見上げた。
髪が流れる。
少女の耳が見えた。
紅い花。
「御免なさいね。紅い花が咲いたら、必ずお届けするから」
それじゃあ、と言って、少女はドアを開き、建物の中に入って行く。
彼は、その少女の肩を無理やり掴むと、一緒に建物の中に押し入った。
建物の中は暗く、妙な臭いがした。
片手で少女の肩を掴み、逃げられぬように空いた手でドアを閉める。
少女は強張った表情で青年を見上げた。
「何の御用なの?」
声に怯えの色は無かった。
青年は笑った。
少女の肩を掴んでいない手を、彼女に向かって伸ばす。
耳に触れた。
いや。
耳ではなく、その耳に輝く紅い花に触れたのだ。
「これでいい」
青年は憑かれたような口調で囁いた。
少女の顔が強張る。
「この花でいい」
「駄目」
少女の声には怯えは無い。その顔と裏腹に。
怯えきった表情で青年を見上げる少女と、話している少女は別の人間のようだ。
「この花は駄目。この花だけは駄目なの」
「でも、他に花は無いのだろう?」
「そう。紅い花は無いわ」
青年は少女の耳に咲く花を掴む。
少女の顔がますます強張った。
「痛がってるわ」
他人の痛みを訴えるような声で、少女が言った。
青年は笑った。
笑ったまま。少女の耳に咲く花を、引き千切った。
ぶちり、とあっさりとした感触。
それに反して響いたのは、恐怖と激痛で染まった、少女の悲鳴。
ふと、青年は思った。
自分は、今始めて、少女の声を聞いたのでは、と。
青年が肩を掴まれたまま、床に倒れてしまった少女の片耳から、まだ残っていた紅い花を引き千切る。
こちらもあっさりとした抵抗。
ふたつの紅い花を手に入れて、青年は満足げに両手の中に小さな紅い花を落とした。
「…………?」
少女が両耳に付けていた小さな花には、ピアスやイヤリングに必要な金属の留め金は無かった。
代わりに、緑色の長いモノが伸びていた。
「…………?」
青年はそれが何か、瞬時、理解出来なかった。
………根?
そうだ。
これは、根だ。
紅い花が揺れた。
生きているように。
違う。
花は生きている。
青年の指に緑の糸のような根が絡まる。
ちくり……と、指先が痛んだ。
根の先端が、皮膚を破り、彼の身体に入り込んだのだ。
小さな紅い花は、確かな意志を持って、動いていた。
彼は、呆然とその風景を見守る。
――小さな笑い声が響いた。
見れば、床に倒れた少女が、虚ろな瞳で彼を見上げている。
……ほら、と少女が笑った。
……だから駄目って言ったのに。
少女の瞳が完全に色を失い、死が彼女の身体に訪れても、青年は動けなかった。
何故なら、既に細い緑色の糸は、彼の身体に侵入していたのだ。
自分以外の何かに身体――いや、精神を侵される恐怖に、彼は絶叫しようとした。
だが、既に声は出なかった。
ゆっくりと、紅い花は彼の意識の中心部へ、文字通り、根を伸ばしていった。
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