第6話 妹が教えてくれた・3
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巻き戻しはまだ終わらない。
私は硝子の箱に手を伸ばした。
触れる。
当たり前の事だが、硝子の感触。
撫でているうちに、その箱の上部が開くようになっている事に気付く。
私は箱を開いた。
妹の手首。
恐る恐る指を手首に触れさせた。
冷たい。そして、硬い。
どうやら、防腐処置を念入りに施されているようだ。
思った以上に小さな妹の手を掌に乗せ、皮膚の下にプラスチックでも入っているような手を撫で擦る。
私は思い出していた。
私たちの両親は、何かと忙しい人種だった。
平日は仕事。休日は付き合い。
私と妹は、二人きりで広い家に取り残される。
寂しそうに本を読んだり人形と遊ぶ妹を見て、私は、酷く哀れに思えてきた。
まだ幼い妹の手を引いて、外へ遊びに出かけたのだ。
あの時、私はいくつだったか? 中学になったばかりだった気がする。
妹はまだ小学校に上がったばかりだった。
そんな幼い妹の手を引いて、私は、夕焼けの街を歩く。
遠くまで行けない。ほんの近所だ。
だが、妹の手は、嬉しそうに私の手を握っていた。
今と同じように。
――今と、同じように?
私は現実に還る。
屍体の特徴を多く残した妹の手が、記憶の中そのままに、私の手を握っていた。
不思議と、怖くは無かった。
それどころか、私は自然と笑みを浮かべる。
手首だけになろうとも、妹は妹だ。
それ以外の何者でもない。
兄さん。
そう、呼びかけられた気がした。
私は笑みを浮かべ、妹の言葉を待ちわびる。
兄さん、また外へ連れて行って。
昔みたいに、二人で一緒に行きましょう。
私はゆっくりと頷いた。
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私たちは手を繋いで外へ出た。
外はまだ真夜中。
この近所は静かで、世界中に私たち以外の誰も居ない錯覚に陥る。
妹と繋いだ手が軽く、冷たかった。
妹の指に、軽く力が入る。
握り返してやると、私の脳裏に妹の笑い声が響いた。
「どうだったんだ」
私は尋ねた。
妹は何も答えない。私の質問の意味を考えているようだ。
頭があるなら、軽く首を傾げたところだろう。
「あの街は、どうだったんだ」
私は繰り返し問う。
妹は、小さく、ああ、と答えた。
面白かったわ。
笑う声。
妹の声からは、彼女が心底そう思っている事が伝わってきた。
面白い……か。
この世の中の異界。
天国と地獄を同等に存在させているあの街が、妹は面白いと言うのだ。
妹の言葉は、私の心に強く残る。
…私は、次の質問を口にした。
「恋人はどうした」
妹は息を吐くような声を漏らした。
嘲りの、笑いだ。
死んだの。
街に行ってすぐ。
逃げるしか出来ない小悪党は、何処へ行っても小悪党ね。
妹の指に力が入った。
指輪の石が手に当たる。
あんな男より、今は兄さんの方がずっと好き。
妹の手首に視線を落とし、私は笑った。
「嬉しいな」
心からの言葉だった。
不意に、世界に光が満ちる。
住宅街を抜け、大通りに出たようだ。
真夜中だと言うのに、車が通りを走り抜けていく。
「何処へ行きたい?」
私は妹に尋ねた。
妹は少し迷ったようだ。
だが、名案を思いついたように、笑いながら言った。
賑やかなところ。
妹の言葉に頷き、私は道を右に折れた。
そちらには、繁華街があるのだ。
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素敵ね、兄さん。
とっても賑やか。ネオンサインが綺麗だわ。
妹は繁華街のネオンサインに弾んだ声を上げた。
真夜中だと言うのに、人波は絶える事無く流れていく。
楽しげな笑い声を響かせながら、若い女が連れ立って私の横を歩いていった。
兄さんの小説にも、こういう場面があったわね。
あれは何て小説だったかしら?
私は少し迷い、タイトルを記憶の底から引っ張り出す。
「……『夜歩く』」
あの小説で、主人公である『私』はネオンサインが輝く夜の街に紛れ込む。
『私』はたった独りだった。
だが、私は独りではない。
それを言うと、妹は、そうね、と同意してくれた。
兄さん、また兄さんのお話が読みたいわ。
また書いてね。
私の為に、書いて頂戴。
「ああ」
私は頷いた。
丁度すれ違った若い男女のカップルが、私を見てぎょっとしたように足を止めた。
化粧だけが派手な女が、私を指差している。
妹が笑った。
怖くて綺麗で楽しくて残酷なお話がいいわ。
「…私に書けるかな」
あら、と妹は、芝居がかった声を上げた。
兄さん、作家がそんな事を言っちゃ駄目よ。
私は苦笑。
「そうだったな」
一応でもプロなのだ。
読者を喜ばせる事が出来なくて、何がプロの作家だ。
読む者が居るからこそ、私は作家であると言うのに。
小さく笑いながら歩む私を見て、酔っ払いがあからさまに侮蔑の視線を向ける。
そして、先程のカップルのように、急に目を丸くした。
酔っ払いの奇妙な行動は、よくある事だ。
私は腰を抜かしたように座り込んでしまった酔っ払いを無視し、歩き続ける。
繁華街は長い。
まるでこのまま世界が終わらないようだ。
永遠に、このネオンサインが輝く夜が続きそうに思える。
「おい」
ぼんやりとネオンサインを見つめていた私に、声が掛けられた。
振り返ると、客呼びらしい青年が、紫色の顔色でそこに立っている。
随分と顔色が悪い、と思った矢先に、青年の顔が赤く染まった。
ネオンサインが原因だ。
一瞬毎に顔色が変わる青年が面白かったらしく、妹がくすくすと笑う。
「アンタ、何を持っているんだ」
青年の声は震えていた。
私はそっちに気を取られ、彼の言葉の意味を納得するのに、少々の時間を要す。
「おい、聞いてるのか」
「……ああ」
私は頷いた。
何を持っている?
私は、手に何を持っていた?
……ああ、そうか。
「妹と散歩をしているだけだ」
「妹?」
青年は顔を歪めた。
嫌悪の表情だ。
失礼な奴だ。
妹は何も言わなかったが、機嫌を損ねたのがありありと伝わってくる。
青年は私の手元に、その嫌悪で醜く歪んだ視線を向けた。
そして、不躾に妹を指で示し、言ったのだ。
「その手首がか?」
はッ、と青年は妙に強張った笑みを浮かべた。
そして、吐き出すように、続ける。
「アンタ、頭変なんじゃないか?」
――妹が、笑った。
兄さん。
この人、怖がってるわね。
言われてみればそう思えた。
私も、妹と一緒にくすくす笑う。
青年は、笑い出した私たちを見て、唖然としたようだ。
だが、すぐにその顔を赤く――ネオンサインは青だと言うのに――した。
おい、と青年は三度、叫んだ。
私たちではなく、近くに居た自分の知り合いに。
「警察呼べ警察」
青年はもう一度、私たちを見た。
怒りと嫌悪。それから、恐怖の色を瞳に浮かべて。
青年の指が私の顔を指した。
「こいつ、気ィ狂ってる」
男にしては細い、綺麗な指だった。
綺麗な指ね、兄さん。
妹も同じ事を考えたようだ。
羨ましいわ、少し。
羨ましい?
私の指はもう屍体の色だもの。
妹の声は少し寂しげだった。
私は哀しくなる。
たった独りで人形遊びをしている妹を見た時と同じ気持ちになる。
私は手を伸ばし、青年の手を捕らえた。
青年はただ驚いている。
私たちを指差していた指は、だらりと垂れていた。
「妹を」
私は青年を下から見上げた。
「妹を、哀しませたくない」
青年が離せとか馬鹿野郎とか騒いでいたが、それはもうどうでもいい事だ。
片手は妹の手を握っている。
もう片方の手は、青年の手首を捕らえている。
開いているのは、此処だけだ。
私は、精一杯力を込めて青年の手を引くと、彼の指を口元に引き寄せた。
躊躇わず口を開く。
ネオンサインが輝いている。青年の顔が紫に染まった。
私たちを指差した、青年の生者色の指を咥え、思い切り、歯を立てる。
青年が、ようやく絶叫した。
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口の中に血の味が広がる。
私は妹の華やかな笑い声を聞きながら、アスファルトに転がった青年を見ていた。
口の中に異物感。
いつの間にか青年の手を離していた。
故に空いた手に、私は口の中の異物を吐き出す。
いまだ生きている色を保った指が、そこに乗った。
思ったより、綺麗ではなかった。
妹の笑い声がする。
華やかな笑い声だ。
手を胸元に抱きこみ、青年が呻く。彼の仲間らしい男が、ようやく駆け寄った。
私は、その二人に手に乗せていた指を放り投げる。
「返す」
そう言ってやったと言うのに、二人とも怯えきった表情で私を見上げるだけだ。
口の中に血が溜まっている。
私は地面に血を吐いた。
口の端から流れた血を手の甲で拭ってから、辺りを見回す。
気付けば、人垣が出来ていた。
まいったな。
どうやら、注目を浴びてしまったようだ。
幸いな事に、誰もが遠巻きにしているだけで近寄ろうとしない。
私は、一歩、前に踏み出した。
人垣が、一歩分、崩れた。
面白いわね、兄さん。
ああ。
本当に面白い。
人間とは、こんな面白い表情をしているのだな。
怯え、警戒した表情ほど醜く面白い顔は無い。
自分が上位に立っている優越感は無かった。
ただ、崩れきった醜い表情が、面白かった。
私は、笑った。
妹が、笑った。
私たちはゆっくりと歩き出した。
私の動きに合わせて、人垣が崩れる。
私たちは笑いながら、街を歩いた。
左右に人垣が出来ている。
妹と手を繋ぎ、私は軽く空を見上げる。
黒いだけの空にはネオンサインが輝き、安っぽい明るさを保っていた。
その空を見上げ、私は、声を出して、笑った。
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