第6話 妹が教えてくれた・3



-4-



 巻き戻しはまだ終わらない。

 私は硝子の箱に手を伸ばした。

 触れる。

 当たり前の事だが、硝子の感触。

 撫でているうちに、その箱の上部が開くようになっている事に気付く。

 私は箱を開いた。

 妹の手首。

 恐る恐る指を手首に触れさせた。

 冷たい。そして、硬い。

 どうやら、防腐処置を念入りに施されているようだ。

 思った以上に小さな妹の手を掌に乗せ、皮膚の下にプラスチックでも入っているような手を撫で擦る。

 私は思い出していた。

 私たちの両親は、何かと忙しい人種だった。

 平日は仕事。休日は付き合い。

 私と妹は、二人きりで広い家に取り残される。

 寂しそうに本を読んだり人形と遊ぶ妹を見て、私は、酷く哀れに思えてきた。

 まだ幼い妹の手を引いて、外へ遊びに出かけたのだ。

 あの時、私はいくつだったか? 中学になったばかりだった気がする。

 妹はまだ小学校に上がったばかりだった。

 そんな幼い妹の手を引いて、私は、夕焼けの街を歩く。

 遠くまで行けない。ほんの近所だ。

 だが、妹の手は、嬉しそうに私の手を握っていた。

 今と同じように。

 ――今と、同じように?

 私は現実に還る。

 屍体の特徴を多く残した妹の手が、記憶の中そのままに、私の手を握っていた。

 不思議と、怖くは無かった。

 それどころか、私は自然と笑みを浮かべる。

 手首だけになろうとも、妹は妹だ。

 それ以外の何者でもない。


 兄さん。


 そう、呼びかけられた気がした。

 私は笑みを浮かべ、妹の言葉を待ちわびる。

 

 兄さん、また外へ連れて行って。

 昔みたいに、二人で一緒に行きましょう。


 私はゆっくりと頷いた。



-5-



 私たちは手を繋いで外へ出た。

 外はまだ真夜中。

 この近所は静かで、世界中に私たち以外の誰も居ない錯覚に陥る。

 妹と繋いだ手が軽く、冷たかった。

 妹の指に、軽く力が入る。

 握り返してやると、私の脳裏に妹の笑い声が響いた。

「どうだったんだ」

 私は尋ねた。

 妹は何も答えない。私の質問の意味を考えているようだ。

 頭があるなら、軽く首を傾げたところだろう。

「あの街は、どうだったんだ」

 私は繰り返し問う。

 妹は、小さく、ああ、と答えた。


 面白かったわ。


 笑う声。

 妹の声からは、彼女が心底そう思っている事が伝わってきた。

 面白い……か。

 この世の中の異界。

 天国と地獄を同等に存在させているあの街が、妹は面白いと言うのだ。

 妹の言葉は、私の心に強く残る。

 …私は、次の質問を口にした。

「恋人はどうした」

 妹は息を吐くような声を漏らした。

 嘲りの、笑いだ。


 死んだの。

 街に行ってすぐ。

 逃げるしか出来ない小悪党は、何処へ行っても小悪党ね。


 妹の指に力が入った。

 指輪の石が手に当たる。


 あんな男より、今は兄さんの方がずっと好き。


 妹の手首に視線を落とし、私は笑った。

「嬉しいな」

 心からの言葉だった。

 不意に、世界に光が満ちる。

 住宅街を抜け、大通りに出たようだ。

 真夜中だと言うのに、車が通りを走り抜けていく。

「何処へ行きたい?」

 私は妹に尋ねた。

 妹は少し迷ったようだ。

 だが、名案を思いついたように、笑いながら言った。


 賑やかなところ。

 

 妹の言葉に頷き、私は道を右に折れた。

 そちらには、繁華街があるのだ。

 


-6-



 素敵ね、兄さん。

 とっても賑やか。ネオンサインが綺麗だわ。


 妹は繁華街のネオンサインに弾んだ声を上げた。

 真夜中だと言うのに、人波は絶える事無く流れていく。

 楽しげな笑い声を響かせながら、若い女が連れ立って私の横を歩いていった。

 

 兄さんの小説にも、こういう場面があったわね。

 あれは何て小説だったかしら?


 私は少し迷い、タイトルを記憶の底から引っ張り出す。

「……『夜歩く』」

 あの小説で、主人公である『私』はネオンサインが輝く夜の街に紛れ込む。

 『私』はたった独りだった。

 だが、私は独りではない。

 それを言うと、妹は、そうね、と同意してくれた。

 

 兄さん、また兄さんのお話が読みたいわ。

 また書いてね。

 私の為に、書いて頂戴。


「ああ」

 私は頷いた。

 丁度すれ違った若い男女のカップルが、私を見てぎょっとしたように足を止めた。

 化粧だけが派手な女が、私を指差している。

 妹が笑った。


 怖くて綺麗で楽しくて残酷なお話がいいわ。

 

「…私に書けるかな」

 あら、と妹は、芝居がかった声を上げた。


 兄さん、作家がそんな事を言っちゃ駄目よ。

 

 私は苦笑。

「そうだったな」

 一応でもプロなのだ。

 読者を喜ばせる事が出来なくて、何がプロの作家だ。

 読む者が居るからこそ、私は作家であると言うのに。

 小さく笑いながら歩む私を見て、酔っ払いがあからさまに侮蔑の視線を向ける。

 そして、先程のカップルのように、急に目を丸くした。

 酔っ払いの奇妙な行動は、よくある事だ。

 私は腰を抜かしたように座り込んでしまった酔っ払いを無視し、歩き続ける。

 繁華街は長い。

 まるでこのまま世界が終わらないようだ。

 永遠に、このネオンサインが輝く夜が続きそうに思える。

「おい」

 ぼんやりとネオンサインを見つめていた私に、声が掛けられた。

 振り返ると、客呼びらしい青年が、紫色の顔色でそこに立っている。

 随分と顔色が悪い、と思った矢先に、青年の顔が赤く染まった。

 ネオンサインが原因だ。

 一瞬毎に顔色が変わる青年が面白かったらしく、妹がくすくすと笑う。

「アンタ、何を持っているんだ」

 青年の声は震えていた。

 私はそっちに気を取られ、彼の言葉の意味を納得するのに、少々の時間を要す。

「おい、聞いてるのか」

「……ああ」

 私は頷いた。

 何を持っている?

 私は、手に何を持っていた?

 ……ああ、そうか。

「妹と散歩をしているだけだ」

「妹?」

 青年は顔を歪めた。

 嫌悪の表情だ。

 失礼な奴だ。

 妹は何も言わなかったが、機嫌を損ねたのがありありと伝わってくる。

 青年は私の手元に、その嫌悪で醜く歪んだ視線を向けた。

 そして、不躾に妹を指で示し、言ったのだ。

「その手首がか?」

 はッ、と青年は妙に強張った笑みを浮かべた。

 そして、吐き出すように、続ける。

「アンタ、頭変なんじゃないか?」

 ――妹が、笑った。


 兄さん。

 この人、怖がってるわね。


 言われてみればそう思えた。

 私も、妹と一緒にくすくす笑う。

 青年は、笑い出した私たちを見て、唖然としたようだ。

 だが、すぐにその顔を赤く――ネオンサインは青だと言うのに――した。

 おい、と青年は三度、叫んだ。

 私たちではなく、近くに居た自分の知り合いに。

「警察呼べ警察」

 青年はもう一度、私たちを見た。

 怒りと嫌悪。それから、恐怖の色を瞳に浮かべて。

 青年の指が私の顔を指した。

「こいつ、気ィ狂ってる」

 男にしては細い、綺麗な指だった。


 綺麗な指ね、兄さん。


 妹も同じ事を考えたようだ。

 

 羨ましいわ、少し。


 羨ましい?

 

 私の指はもう屍体の色だもの。


 妹の声は少し寂しげだった。

 私は哀しくなる。

 たった独りで人形遊びをしている妹を見た時と同じ気持ちになる。

 私は手を伸ばし、青年の手を捕らえた。

 青年はただ驚いている。

 私たちを指差していた指は、だらりと垂れていた。

「妹を」

 私は青年を下から見上げた。

「妹を、哀しませたくない」

 青年が離せとか馬鹿野郎とか騒いでいたが、それはもうどうでもいい事だ。

 片手は妹の手を握っている。

 もう片方の手は、青年の手首を捕らえている。

 開いているのは、此処だけだ。

 私は、精一杯力を込めて青年の手を引くと、彼の指を口元に引き寄せた。

 躊躇わず口を開く。

 ネオンサインが輝いている。青年の顔が紫に染まった。

 私たちを指差した、青年の生者色の指を咥え、思い切り、歯を立てる。

 青年が、ようやく絶叫した。



-7-



 口の中に血の味が広がる。

 私は妹の華やかな笑い声を聞きながら、アスファルトに転がった青年を見ていた。

 口の中に異物感。

 いつの間にか青年の手を離していた。

 故に空いた手に、私は口の中の異物を吐き出す。

 いまだ生きている色を保った指が、そこに乗った。

 思ったより、綺麗ではなかった。

 妹の笑い声がする。

 華やかな笑い声だ。

 手を胸元に抱きこみ、青年が呻く。彼の仲間らしい男が、ようやく駆け寄った。

 私は、その二人に手に乗せていた指を放り投げる。

「返す」

 そう言ってやったと言うのに、二人とも怯えきった表情で私を見上げるだけだ。

 口の中に血が溜まっている。

 私は地面に血を吐いた。

 口の端から流れた血を手の甲で拭ってから、辺りを見回す。

 気付けば、人垣が出来ていた。

 まいったな。

 どうやら、注目を浴びてしまったようだ。

 幸いな事に、誰もが遠巻きにしているだけで近寄ろうとしない。

 私は、一歩、前に踏み出した。

 人垣が、一歩分、崩れた。

 

 面白いわね、兄さん。


 ああ。

 本当に面白い。

 人間とは、こんな面白い表情をしているのだな。

 怯え、警戒した表情ほど醜く面白い顔は無い。

 自分が上位に立っている優越感は無かった。

 ただ、崩れきった醜い表情が、面白かった。

 私は、笑った。

 妹が、笑った。

 私たちはゆっくりと歩き出した。

 私の動きに合わせて、人垣が崩れる。

 私たちは笑いながら、街を歩いた。

 左右に人垣が出来ている。

 妹と手を繋ぎ、私は軽く空を見上げる。

 黒いだけの空にはネオンサインが輝き、安っぽい明るさを保っていた。

 その空を見上げ、私は、声を出して、笑った。


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