第3話 記憶の女・3(完)


-6-



 白い女が笑っていた。

 男の前で、笑っていた。

 細い指先が身体の前で組み合わされ、祈るような姿で男を見ている。

 夢か。

 これは夢なのか。

 女は微笑み、微かに色付いた唇を綻ばせる。

 男は恐る恐る女に手を伸ばした。

 金属義手へとなった右手が、女の髪に触れる。

 指先に絡む感触。

 柔らかい。

 指先にしばし髪を絡め、それから、男は女の頬へと指先を伸ばす。

 暖かい肌に、触れた。

 女は男の顔を見上げる。

 白い肌の中。綺麗な紅い瞳が笑っている。

 男に触れられた事を喜ぶように、紅い瞳が。

 不意に。

 本当に不意に、女の瞳が閉じられた。

 そして、再び開いた女の瞳に浮かぶのは、涙。

 女の笑顔は何度も見た。

 おぼろげながら記憶に残っていた。

 だが、涙を見るのは初めてだ。

 男は、涙に怯え、手を引こうとする。

 女が左右に首を振った。

 否定の動き。男は手をそのままに、女の泣き顔を見つめる。

 男は混乱していた。

 混乱し、必死の思いで女に願う。

 泣かないでくれ、と。

 女は男の顔をじっと見上げた。

 やがて、いまだ祈るように組んでいた手を解き、そっと自分の頬に流れる雫を拭い去る。

 涙を拭い去ると、女はもう一度微笑んだ。

 女の唇が動いた。

 言葉が、綴られる。


 いかないで


 願いの言葉。

 

 ここにいて

 わたしのそばにいて


 女の望み。

 男は女の頬を、ゆっくりとなぞる。

 その感触を確かめるように。


 たたかいなんてどうでもいい

 あのまちにはいかないで

 わたしのそばにいて


 幼子を宥めるように、女は何度も囁く。

 たたかい、と男は小さく呟いた。

 そうだ。

 自分は、外からこの街に来たのだ。

 この女を捨て、たった独りで。

 理由?

 ああ、そうだ。

 人を、殺そうと思ったのだ。

 外の世界で多くの人を殺め、そして、この街に逃げ込んだ犯罪者を。

 捕らえ、殺そうと思ったのだ。

 今思えば、若さ故の正義感。

 正義は必ず勝つと信じた愚かさ故の行動。

 一番守りたい人さえ捨てようとする、愚か過ぎる男の行動。

 最後の日。

 引き止める女の声を振り払い、あくまでも自分の意志を貫き通した。

 女は最初泣き、それから無理に笑った。

 そして、願った。

 今、目前の女と同じように。


 わたしをわすれないで

 わたしをおぼえていて


 男は頷いた。

 ゆっくりと、一度。

 女は微笑んだ。


 もし、もういちどであえたのならだきしめて

 そして、にどとはなさないで


 記憶の女。その唇が刻む言葉を、男はようやく知った。

 女の色を失った髪が、腕に絡まった。

 別れを惜しむように、男を引き止めるように。

 女はもう泣かなかった。

 紅い瞳を潤ませて、男の姿を見送った。



-7-



 覚醒。

 意識が戻った。何処かで見た天井が目に映る。

 ……ああ、『葬儀屋』の店だ。

 その回答に脳が辿り着くまで、数秒を要した。

 まだぼんやりとしている。

 麻酔の効力が思ったより弱かったらしい。男は虚ろな意識で覚醒した。

「――ん?」

 『葬儀屋』の顔が、やはりさかさまに視界に入った。

 少し、困ったような表情をしている。

「麻酔が弱かったようだな」

 まだ修理は終わっていないようだ。

 再び、先ほどと同じ注射を用意する。

 もう一本、麻酔を打とうと言うのだろう。

 あ、と『葬儀屋』が声を上げた。

「せっかくだ。ちょっと見せてやる」

 男の横たわるベッドのすぐ横に、どうやら修理用の部品を載せた台があるらしい。

 『葬儀屋』はその台だから何かを取り上げた。

 男の視界はまだ霞んでいる。

 『葬儀屋』が抱き上げた、大人の胴体程もあるガラスの筒が何か、まだ分からない。

 ゆっくりと、像が結ばれる。

「あんたの腹に移植する予定の顔だ」

 ……ああ、と男は、息を吐いた。

 ガラスの筒。

 満たされた液体の中。


 綺麗な女の顔が浮いていた。

 

 真白な髪が揺らめき、海草のように女の顔を取り巻いている。

 綺麗な顔。

 眠るように安らかに、瞳を閉じた綺麗な顔。

 あの、女だった。

 男にとっての天国。

 真白な女。記憶の、女。

「数日前に、この街にやってきたばかりだそうだ」

 死んでいる女の顔。

 なのに、唇が綻んだような気がした。

 ゆっくりと、笑みを刻んだような気がした。

「誰かを探して、街にやってきたって話だ」

 女の瞳が、静かに開いていく。

 液体とガラス越しに、男と女の視線が絡み合う。

 女は微笑んだ。

「綺麗な屍体だろう?」

 女の微かに色付いた唇が動く。


 ようやくあえた

 

 もう、はなさないで

 ずっとずっと、だきしめて


 男は、虚ろな意識で頷いた。

 酷く酷く、優しい顔で。



-8-



 ――意識が再び戻ったのは、どれぐらい時間が過ぎた後だったのだろう。

 ガラス筒の女に微笑みかけられたのが最後の記憶。あの後の事は覚えていない。

 多分、『葬儀屋』に再び麻酔を打たれたのだろう、とは思ったが。

 男はふらつきながら上半身を起こした。

 身体に違和感を感じる。

 視線を下げると、金属質の自分の身体。その中で、鮮やかな白の色彩がある。

 安からに微笑んだ女の顔が、自分の脇腹に張り付いていた。

 女の顔だ。

 男は、恐る恐る手を伸ばす。

 夢の中と同じように、女の頬に触れた。

 柔らかい感触だ。

 そして、暖かい。

 自然と男の頬に笑みが浮かぶ。

 ドアが開く音。

 男は音の方に顔を向ける。

 『葬儀屋』が立っていた。

「目が覚めたみたいだな」

 『葬儀屋』の声に頷き、男は床に立つ。差し出された下着とコートを受け取り、身に纏った。

 視界に、もうノイズは入らない。

 男は『葬儀屋』に顔を向け、薄く微笑んだ。

「いい腕だ」

「有難う」

 『葬儀屋』は満更でもない顔で礼を述べた。

 男は、『葬儀屋』に軽く一礼し、その部屋から立ち去ろうとする。

 部屋を出た所で、なぁ、と呼び止められた。

 『葬儀屋』が咥え煙草で立っている。

「あんたら、お似合いだよ」

「…………」

 何か、知っているのだろうか。

 この、『葬儀屋』は、彼女と自分の関係を知っていて、これを……。

「…………」

 男は何も問わなかった。

 その代わり、深々と頭を下げた。

 『葬儀屋』が笑い、軽く頷く。

 それで終わり。男は、『葬儀屋』の店から出た。

 

 

-9-



 外に出てすぐ、男に声が届く。

 耳にではなく、直接内側へ。

 脳から脳へと伝わる、優しい声。


 だきしめて

 もうずっとはなさないで


 男は己が身体を抱きしめる。

「……ああ」

 男は瞳を閉じ、微笑んだ。「……約束だ」

 綺麗な女が、瞼の奥で微笑み返す。

 自分たちはずっと一緒だと、男はもう泣く事は無いであろう女に、囁きかけた。



                “記憶の女”

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