第19話 痛みと興味

 酷く動揺したフェイデルの後を追って孤児院の中へ入り、廊下を走る。老朽化が進んでいるらしい床は、そう重量のない女たちが走り抜けるだけでギシギシと軋んだ。

「こっちよ!」

 向かう先は、台所だ。一見静まり返っていると思いきや、走りながら耳をすませばわずかにパキン、カシャンと陶器や硝子の砕け散る音がした。

 台所はさっき綺麗にしたばかりだ。トアンク、フェイデルと協力して片付けたのだから、粉に近いような欠片すら落ちていない筈だ。それなのに、食器の砕ける音は台所から響く。

 フェイデルは慌てるあまり、体当たりをするかのような勢いで台所へ通じる扉を開ける。途端、悲鳴を上げた。

「ディノス!もうやめてっ!貴方自分が何してるかわかっているの!?」

 フェイデルの肩越しに先を見たロミオは、そこに広がる光景に驚き、硬直した。自分のさらに後ろにいるトアンクも光景が目に入ったらしく、背後で息をのんだのがわかる。

「……どうして」

 ディノスがぽつりと呟いた。

 様々な大きさに割れ散った真っ白な陶器、血の付いたフォーク、ナイフ……それらに囲まれながら、ディノスは座り込んでいた。両手のみならず腕や足まで傷ついていながら、彼女は痛がる素振りも見せない。

 痛みを感じていないのだ、とロミオは直感した。

 ディノスはこちらを気にすることもなく、ただ破片を握っては離しを繰り返していた。真っ白い陶器は瞬く間に黒味を帯びた赤に変わる。

「ディノス、駄目っ!」

 その場にへたり込んでしまったフェイデルを押しのけるようにして前に出たロミオは、ディノスの腕を掴んでその中の破片を全て床へ落とした。破片と共に決して少なくない量の血も滴り落ち、ロミオは胸を締め付けられる思いだった。

 何故止めるのかわからない、というような視線を寄越してくるディノスに対し、ロミオは努めて冷静に語り掛けた。

「なんで、自分から傷をつけようとするの?話してみて?」

「……痛い、と思いたかった」

 この幼い少女は、おそらく今朝初めて痛みというものを知ったのだろう。しかしロミオも、痛みを知ってほしいとは思ったものの、自ら積極的に傷つくような真似をしてほしいわけではなかった。

「自分から傷つくことはないんだよ。そんなにしたら痛いでしょう?」

「……痛くない。さっきは痛かったのに」

「ディノス……」

「なんで、痛かったんだろう」

 淡々と、しかしわずかながら暗いその声に、ロミオはたまらなくなって目の前の少女を抱きしめた。

「自分を傷つけるのはやめて……。貴方はもうずっと前から傷ついて、知らないうちに痛みを負っていたのよ。もうこれ以上、私に辛い思いをさせないで……」

 フェイデルがか細い声を上げる。しかし、そんな彼女の縋りつくような悲痛な声には、ディノスは少しも表情を変えることはなかった。

「産まなければ辛くなかった」

 ぽつりとディノスがこぼした言葉の意味を、ロミオは理解できなかった。だが、視界の端でフェイデルが口元を片手で覆い、異様なほど震え始めたのを見た時、それは言ってはならない禁忌のような言葉だったことに気付く。

 どうすればよいかわからず、立ち尽くすロミオの左手に、生暖かく濡れた感触がした。

「ロミオ、教えて。私に痛みを」

 ロミオは自分の左側を見た。そこには、ロミオの左手を両手で包み込むように掴んだディノスが立っていた。見上げてくる底なしの無垢な双眸に、ロミオは戸惑いを隠せなかった。

 フェイデルがついに、小さく嗚咽を漏らし始めた。それがだんだんと、明確な女の泣き声へと変わる。

「大丈夫。フェイデルには私がついてるから。……今はとにかくディノスをここから離して、手当てしてあげて」

 それまで黙って成り行きを見守っていたトアンクがフェイデルに寄り添い、その肩を抱く。ロミオは彼女の言葉に素直に従い、ディノスを連れて部屋を後にした。

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