第16話 血濡れの手

 洗い物の途中で、硝子の皿を床に落としてしまったディノス。

 彼女の足下には、大小の硝子の破片が散らばっている。それでもなお、驚くことも、泣くこともしない。声すら上げない。表情も変わらない。まるで、感情が感じられない。ないない尽くしだ。

 この子は本当に人か?ロミオは無意識のうちに浮かんだ考えを、慌てて打ち消した。

 一方で、苛立った様子のエルフは足を動かすのも億劫だと言わんばかりの足取りでディノスの横まで歩み寄り、しゃがんだ。

「ったく、ディノス……。レアティカにチマチマ言われんのは俺なんだからな?」

 エルフが再び舌打ちをしつつ、破片を片そうとディノスの足下に手を伸ばした。

 しかし、彼の手が破片に触れることはなかった。

「……やる」

 エルフの手が鋭利な硝子の欠片を摘まむ前に、彼のよりも一回り小さなディノスの手が、ぐしゃりと破片を鷲掴みにした。それから間を置かず、硝子によって切り付けられた手から血が流れ出る。それを見たロミオは思わず悲鳴を上げ、口を両手で覆った。

 ディノスは破片を握ったまま腰を上げ、台所の隅に置いてあった袋を一枚広げると、そこへ血まみれの破片を入れた。

 掴んでは入れ、掴んでは入れを繰り返すディノス。破片に手をやる度に傷つき、血を流しているのにその顔には何も浮かんでいない。

 ロミオは、自分よりも幼い少女が無言で血を流しながら片付けをしているさまを震えながら見ていた。

「血も拭いとけよ。レアティカに大目玉食らうぞ。俺もお前も」

 ちらりと隣のエルフに目をやると、彼は非常に面倒くさそうに顔をしかめ、腕組みをしてディノスが片付ける様子を見下ろしていた。おそらく、彼にディノスと共に片付けるという選択肢はないのだろう。

 ロミオはたまらなくなり、無言で血を流し続けるディノスに駆け寄った。ロミオの声でぴたりと動きを止めたディノスの腕から破片を取り上げた。

「ディノス、もうやめて。痛いんでしょう?素手でやることないんだよ……?」

「……いたい」

 ディノスの「いたい」は、自分の苦痛を訴えるものではなく、どこか言葉の意味を確認しているような口調だった。鳥が人の言葉の表面だけを真似するのと同じような感じだ。

 二人の間には沈黙が流れたが、それを破ったのはディノスの無機質な声だった。

「……痛くない」

 ディノスの声は、拙い響きで、残酷な言葉をもたらした。

 ロミオは、サッと自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。引きつった笑いを浮かべながら、ディノスの血濡れの手を握った。

「そ、そんなわけないでしょ?だってこんなに血だらけ……」

「ディノスの言うことは本当さ」

 ロミオの震え声を遮ったのは、今まで傍観を決め込んでいたエルフだった。

 彼は嘲りでも嫌悪でもない、ただただ冷たい視線をロミオに向けた。

「そいつは痛みを感じない。ひたすら戦うことを目的に創られた、哀れな狂人形バトルドールさ。痛覚がいかれてるからどんなに傷ついても動く」

 狂人形。争いごととは無縁の生活を送ってきたロミオにとって、それは聞いたことのない名前だった。それでも、いいものではないことくらいはわかる。

 こんな幼い少女を戦場に駆り出すのか。彼女がどこまでも無表情で無感情なのは、どちらも戦に不要だからか。怒りと悲しみが混ざり合い、ロミオは自分でも気づかぬうちに涙をこぼしていた。

 ロミオは自分の足に硝子が突き刺さるのもいとわず床に膝をつくと、しゃがんだまま微動だにしないディノスを正面から強く抱きしめた。

「傷ついても平気なんて……そんなわけないよ!痛いでしょう、泣いていいんだよ。痛いって、声を上げていいんだよ。……ねえ、泣いて……泣いてよ……!」

 出会ってから共に過ごした時間は、まだほんのわずかだ。ほとんど知らない少女相手に自分がこんなにも必死になっていることに、ロミオの頭の片隅は冷静に驚いていた。

 ロミオに突然抱きしめられても、ディノスは抵抗しなかった。その代わり、抱きしめ返すこともなかった。


「馬鹿野郎!何でこんなになるまで放っておいたんだ!お前それでも保護者か!?」

 エルフはディノスに対し、「俺もお前大目玉食らうぞと」言っていたが、結局レアティカの怒りの矛先はエルフのみに向いた。

 ロミオが目を覚ました時のようにエルフの胸倉を掴み上げ、怒りでつり上がった目を向ける。

 そんな眼差しを受けてもなお、エルフは冷たく鼻で嗤ったのみだった。それが余計にレアティカの怒りを増幅させる。

 レアティカは力任せにエルフを床に叩きつけ、その上に馬乗りになった。

「ディノスが!あんな小さな女の子が!皿を割って傷ついて血を流して、それでもお前は助けようともしない!最低だ!人のすることじゃない!やっぱりずっとここで見てるんだった!」

 首に両手をあてがわれ、絞め殺すぞと脅すレアティカに対し、エルフは嘲笑から一転、一切の感情を排除した無の表情で自分に跨る彼を見上げていた。

「人じゃねえだろ、俺らは。お前の言う”人”に、お前自身はどんな目に遭わされた?ジジイ共の汚い手が身体中を這いずり回った、火であぶられた、クソ不味い水を飲まされた……。そうして俺らは

 抑揚のないエルフの声は、レアティカの怒りに満ちた顔をみるみる変えていった。牙をむいていた口は真一文字に閉じ、ギラギラと殺意に燃えていた双眸は潤み、今にも雫を落とさんばかりに揺れている。

「……だから、何だっていうんだ」

 エルフの首にかけていた手ほどき、レアティカは自分の身体をきつく抱きしめた。すっかり震え声のレアティカに、エルフはぞっとするほど優しい声で語りかける。

「お前とディノスは特に……。酷いもんなぁ、故郷で平和に暮らしてたのにいきなり攫われて、人であることを捨てさせられて……。ディノスは痛みを感じない狂人形、お前は…………」

 ひ、とレアティカが悲鳴を漏らした。ひたすらディノスを抱きしめていたロミオも、空気の異変を感じ取ってもみ合う少年二人のもとへ行こうとした。

「言うなっ!…………もう、思い出させないでくれ……!」

 レアティカはかすれた悲痛な叫びを最後に残し、エルフの肩にもたれたかと思うと意識を失った。

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