第19話


「……エルは、清々しているだろうか」


 自分で呟いておきながら、アーシェは己の言葉で胸を刺される。痛みに耐えかねて、ぎゅっと胸元を握り締めてしまった。


 エルミスにとって、嫌いな人間のお守りをしてきた毎日。


 この機会に、その今まで背負ってきたものを一気に下ろせる。

 もしアーシェがいなくなることで彼の負担を軽く出来るのなら、それでも良いのかもしれない。そんな風に考える自分がいるのは、何処かが壊れてしまっているからだろうか。

 しかし、本心だ。

 アーシェにとって、彼が大切な人であることに今も変わりは無い。



 初めて「甘えろ」と言ってくれた。

 初めてアーシェを魔王の後継者ではなく、「ただのアーシェ」として見てくれた。



 理由なんて、それだけで充分だ。どんな形であれ彼の役に立てるのなら、最後の孝行として満足できる。

 大好きな人達。暖かい空間。優しい笑顔が溢れていた場所。

 どれも、アーシェにとっては掛け替えの無い幸せだった。例え閉鎖的な居場所だったのだとしても、幸福は確かにこの箱庭に存在していた。

 感謝している。

 でも。



 ――だからこそ、納得がいかない点が一つだけあった。



 最初からアーシェが疎ましいのなら、どうしてもっと早くに排除しなかったのか。エルミスほどの知略をもってすれば、十二年前にすぐとは言わずとも、もうとっくの昔に即位出来ていたはずだ。

 彼が魔王になることに賛成はしても、理由や過程では全然納得していない己がいる。このままでは消化不良になって、出奔した後もすっきりとしない気持ちを抱き続けていかなければならないだろう。

 また、冷たい目に貫かれるのは恐い。

 だが、それでも。


「……もう一度、話をしてみようか」


 顔も見たくないと罵られるかもしれない。まともに取り合ってはくれず、牢獄に押し込まれる結果になるかもしれない。

 けれど、何もしないよりはマシだ。それで極刑にされたとしても悔いは無い。

 思い立ったら、即実行。

 アーシェは、気合を入れ直して拳を握り締めた。まずは、扉の見張りを口説き落とす事から始めようと、気分は殴り飛ばす勢いでベッドから降りようとした時。


「……?」


 ふ、と空気が変わった。

 微細ではあるが、しかし緩やかに着実に空気が変質していく流れを感じ取って、ざわりと総毛立つ。

 この感覚は、覚えがある。


「何処かで――」


 つい最近も感じた気がするざわめきに、アーシェが疑問を覚えると。



「――っ、ぐ、あっ⁉」



 どん、と。

 猛烈な圧力が押し潰す様に圧し掛かってきた。あまりの重量に、潰れた呻きが上がる。



「――、な、にっ」



 中途半端に起き上がっていた体が、ベッドから転がり落ちる。

 しかし、せり上がってくる嘔吐感を何とか下して、ベッドを支えに立ち上がった。

 足を踏み締めるのもやっとではあったが、蹲ってもいられない。これほどまでの不穏な異常事態に、元とはいえ魔王後継者であったアーシェが呑気に寝ていられるはずがなかった。


「こ、れは。孤児、院の」


 勇者の鏡の間。

 そこで嗅ぎ取った異様な空気と同種の匂いを感じ取り、アーシェの顔色が蒼白になる。

 何故、あの瘴気がこんな離れた城にまで流れ込んでいるのか。

 動揺を必死で押し隠しながら、扉を開けて城の者達の状況を確認しようとして――。



「――坊ちゃま!」



 ばん、と勢い良く扉を開けてじいが飛び込んできた。アーシェと違って自由に動けるらしい。


「じい!」


 大切な人の無事に安堵して、思わず状況も忘れて呼んでしまった。

 だが。


「坊ちゃま!」

「――――――、」


 蹲る様に、駆け寄ろうとした足を止めた。腕を伸ばして迎え入れる態勢のじいを見て、自然に足が後ろへ後ろへと移動してしまう。

 目の前のじいは、それは溌剌とした笑みを浮かべていた。昼間の冷徹な表情が嘘の様に、アーシェを見つめる瞳は優しい。

 いや、優しいどころか感極まった様にきらきらと――ぎらぎらと、滾る様にぎらつき、血走った瞳で食い入る様にアーシェを凝視してきた。

 極限までに見開かれた双眸は不気味な視線を飛ばし、アーシェの喉元を撫でる様に纏わり付く。


 ――近付いてはいけない。


 アーシェの本能が、真っ赤に閃きながら警鐘を鳴らしていた。


「じ、じい?」

「坊ちゃま、おめでとうございます!」


 じりじりと後退るが、今はまともに体を動かせないアーシェが、跳ね回る様に動くじいを拒む事が出来るはずもない。あっという間に距離を縮められて、腕を強引に引っ張られた。

 ぎりっと、じいらしからぬ物凄い勢いで握り込まれ、骨が割れる様に軋んで激痛を訴えてくる。


「っ、……っ! じい、何をする! 離せっ!」

「何を言います、坊ちゃま。さあ、早く行かなくてはなりませんぞ」


 何処に、と青褪めながら疑問を口にする前に、じいは素早く振り返り。






「貴方様が魔王になられる日が、遂に来たのですじゃ」

「――――――――」






 魔王。

 壮絶なる違和感に、アーシェの身体が芯から震え上がった。

 ふるっと首を振って否定しても、もちろん聞き入れられるはずもなく。それどころか益々腕を握る手に力を込められ、痛みに悲鳴を上げる合間に部屋から連れ出された。腕が抜けそうになるほどの力で引っ張られていく。



「いっ、……じい! 待て、どういうことだ。昼間は、我に――」

「ああ、魔王様あああああああああっ!」

「見ろよ! 魔王様だ!」

「魔王様が、姿をお見せになられたぞーっ!」

「――――――――」



 廊下に出た途端、むあっと熱気と歓喜が噎せ返る様に顔に吹き付けてきた。

 その熱気に息が詰まってげほりと咳き込めば、ぬっと大きな手が眼前に迫る。


「――っ!?」


 思わずばしんと払い除けても、次から次へとあらゆる手がアーシェを絡め取る様に伸びてくる。息を荒げながら飛び出してくる者までいて、踏み締める床が揺らいだ様な錯覚に陥った。


「何、……っ」


 視界に飛び込んでくるのは、所狭しと詰め寄ってくる人という人。その顔ぶれたるや城の者達だけではなく、街で見かけた者やそうでない者まで勢揃いで、廊下やバルコニー、そして階下のエントランスまで埋め尽くしていた。

 見れば、開かれた門扉の向こうにまで列が連なっている。

 あまりに異様すぎる熱狂に、アーシェの震えが増していく。


「な、何なのだ、これは……っ」


 震える疑問に、だが答える者はいない。

 皆が皆、焦点の合わない瞳を熱く潤ませながら凝視してくる。ぎょろりと、右へ左へ、瞳だけが生き物の様に動き、アーシェを一目見ようと列を掻き分けてくる。

 その血走って生き物の様に動く二対の瞳の波が、今はただただ恐かった。


「……やめ……」

「あああああああっ! 魔王様……っ! お待ちして、おりました……っ!」

「……っ!」


 一人が恍惚と腰を折れば、次々と人々がかしずいていく。間近に近付けられた顔も吐息も興奮で上気しており、限界までに見開かれた瞳は明らかに正気ではない。

 視線だけで肌を無遠慮に撫でられる様な雰囲気に、頭や喉元を食い千切られる様な恐怖さえ覚えた。



「魔王様、おめでとうございます!」

「魔王さまあああああああああっ!」

「第65代目の魔王様の誕生を祝して、ばんざーい!」

「ばんざああああい!」

「ばんざああああああああああああい!!」



 口々に讃えてくる、狂った叫びの様な祝辞。

 諸手を挙げてアーシェを囲む彼らの瞳からは、光が失せている。笑顔という能面を晒しながら、一斉に食い千切る勢いで刮目してきた。

 何だ、これは。

 何が、起こっているのだ。


「さあ、坊ちゃま。もうすぐ……!」

「――っ、止めろ、じい!」


 もつれるのも構わず階段を無理矢理降りさせられ、エントランスまで連れ出されたところで何とか腕を振り払う。

 反撃に魔法を発動させようとしても、依然として頭も体も重い。集中力がすぐ途切れて、全て失敗してしまった。

 しかも、腕を振り払ったは良いが、自身の身体さえ支えきれなくて倒れ込んでしまう体たらくだ。


 ――まずい。早く立ち上がらないと、また引っ張り出される。


 焦れば焦るだけ、体からは力がどんどん抜けていく。

 迫る無数の手。舐められる様に見下ろされる血走った視線。体を抱き締めてくる様な不快なほどの熱気。

 力が入らないどころか意識まで朦朧とし、視界が暗転しかけたその時。


「――大丈夫かい、魔王様」


 すっと、目の前に手を差し出される。

 聞き慣れた声に、「すまない」と手を取ろうとして――硬直した。



「……たい、やき、屋」



 ここにはいないはずの、気さくな主人。平素と変わらぬ粗野な笑顔を浮かべた瞳は、焦点が全然定まってはいない。

 いつかの時を思い出す。アーシェを魔王と呼んだ時も、彼の瞳はどこかおかしかった。

 その時はすぐに坊主呼びに戻ったけれど。

 今回は。


「……っ、あ……」

「どうしたい、魔王様。ようやく迎えた晴れの日だってんで、緊張してんのかい?」


 後退るアーシェを追いかけ、引っ込めた手を強引に掴まれた。すぐに抵抗したかったが、一般人相手に魔法をぶっ放すわけにもいかない。

 だが、相手は全く容赦が無かった。


「……っ! いっ」


 アーシェが迷った隙を突いて、後ろ手にまとめて動きを封じられる。解こうとしてもびくともしない力の差に、絶望さえ覚えた。


「たいやき、屋! 離せ!」

「ほら、行きましょうぜ、魔王様。今夜は良い満月でさあ。きっと、良い儀式になるさ」

「――――――――っ」


 嬉しそうに叫ぶ声は弾んでいるのに、どこか異質なまでに不気味だった。それに重なる様に「魔王様あああああ!」と唱和する声は、更に物騒で真っ黒に聞こえた。

 後ろから、前から、右から、左から、無数の手が蔓の様にアーシェを絡め取ってくる。知らない顔が満面の笑顔で肉薄し、自分の腕を、肩を、足を掴んできた。

 べたべたと触れられた箇所に、吐息を吹きかけられた様なおぞましさが走り、一気に鳥肌が立つ。

 抵抗しようにも、力の限り握り込まれて身動きさえ取れない。人の手の平から流れ込んでくる魔気が、内側から這いずり回る様に歓喜の産声を上げるのが、気持ち悪かった。

 嫌だ。――嫌だ。こんな形で、魔王を継承するのは、嫌だ。

 誰か。



 誰、か――。



〝いやあ、今日もお前の頭は掻き回し甲斐があるなあと。お兄様、嬉しくなっちゃって?〟



「――――――――、……エ、ル……っ!」



 気が狂いそうなほどに、理性が焼き切れそうな中。

 アーシェは、無意識に大切な家族の名を呼んでいた。


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