第18話
「大丈夫だ。そこのガキに、興味はねえから」
粗野であるのに、どこか自嘲気味な声が飛んできた。
気の良い笑みを向ける彼に、だが幼いアーシェは動けない。纏わり付く黒い気配に押し潰されない様にするのが精一杯で、現状もろくに把握出来ていないのだ。安心しろと言われても出来るわけがない。
逃げなさい。
あの人は、そう言った。
けれど、彼の人は大丈夫だと遮断する。
ざわざわと、絡みつく瘴気が雑音となって鼓膜を絶えず叩き続けてきた。意識も朦朧としてきて、視界も霞んでいく。何かキッカケがあれば、すぐに気を失いそうだ。
それなのに。
「もう、死んでくれよ」
残酷な言葉だけが、はっきりと嘲笑を乗せて届けられる。
――止めて。
訳が分からない。
どうして、と声にならない疑問を呟こうとして、空気に喉を潰された。
あぐ、と呻くとあの人は反応した。蹲る自分に術式を展開してくれたが、すぐに弾けて霧散した。あの人が魔法に失敗するのを見るのは初めてで、恐慌状態に陥りかける。
止めて。止めて。お願い、止めて。
必死になって身を乗り出すのに、体は縛られた様に身動きが取れない。ぴくりとも動かない指先に絶望して、瞳から熱いものが零れ落ちる。
それでも、懸命にあの人に手を伸ばす。届いて欲しいと願って。
実際は床から全く持ち上がってもいなかったが、気持ちだけはがむしゃらに伸ばした。
だけど。
「……苦しいんだよっ。―――――、――! 全部、全部……!」
死んでくれ。
途切れ途切れに叫ばれた最後の声なき慟哭。
彼の人が吐いた呪詛を皮切りに、視界は真っ赤に変転し――。
「ああああああぁぁぁあああああああああああああああっ!」
「アーシェ!」
叫ぶ自分。揺さぶられる自分。
必死に抱き起こしてくれる温もりに、しかし自分はまともに答えることも出来ない。ただひたすらに、言葉にならない狂った悲鳴を上げ続ける。
「く、――! もはや、――」
何事かを誰かが呟く。
その言葉に、自分を抱き締めてくれていた人は一瞬顔を歪めた。
けれど、最後には悔しそうに頷いて、自分を苦しそうに見下ろしてきた。
手の平が翳される。
熱い。
熱い。
熱くて、焼け切れてしまいそうだ。
注がれる熱に、また癇癪を起こして暴れ回った。きっと、抱き締めてくれている相手をたくさん傷付けた。
それでも、そんな自分を、相手は抱き締め続けてくれた。泣きそうに顔を歪めながら、一層強く力を込めて顔を近づけてくる。
「アーシェ。――」
優しげに、耳元で囁かれる。
けれど、呟きは自分の元には届かない。
だが根気強く、何度も何度も囁きを落としてくれた。まるで、自分をあやす様に。
「大丈夫だ」
囁く合間に、髪を梳かれる。
いつもと同じ。寝る前に、――あの人が、してくれた様に。相手は、何度も笑いながら頭を撫でてくれた。
「あ、あう、あ、――、あ……っ!」
「大丈夫」
「……あ、……!」
「――に。――――――から」
その時の光景は、もう覚えていない。
ただ、覚えているのは、意識が真っ白に遠のく直前。
その人が、怯えや不安を押し殺して、笑いかけてくれたことだけだった。
「―――――――っ!」
はっと飛び跳ねながら、アーシェは意識を覚醒させた。はあ、はあっと荒い呼吸を繰り返してシーツを無意識に握り締める。
「ゆ、め」
荒れた動悸を飲み込む様に口元を手の平で覆い、アーシェは小刻みに震える身体を何とか宥める。ぱたっと、顎から一筋汗が流れ落ちる音で冷静さを取り戻した。
夢を、見ていた。
それは間違いない。
だが、どんな内容だったかがまるで思い出せない。とても重要な記憶であるはずなのに、全体に靄がかかって景色を見通せない感覚だ。立ち込める霧の中に一人迷い込んだかの様に、不安が掻き立てられる。
――今、まさしく一人になったからだろうか。
軟禁に宛がわれた自室を見渡しながら、アーシェは唇を噛み締めて俯いた。
昼間。じいとエルミスに家族の縁を切ると通達された通り、もうアーシェはこの城とは無関係の人間となる。エルミスが魔王として就任し、正しく国は導かれていくだろう。
アーシェは、エルミスが魔王になるのを見届けた後にひっそり国外に追放される。ここに居座ったなら、アーシェを担ぎ上げる不届き者が現れるかもしれないという理由だ。
「……そんな心配は、もう無いだろうに」
魔王は、代々直前まで魔王の座にいた者の長子並びに別の子供、または孫に受け継がれていく。いない場合に初めて別の王族が選ばれるのだが、例外は今の今まで無く、全て長子が継いでいた。
だが、今回は長子のアーシェを押しのけ、従兄のエルミスが魔王となる。
今まで一度も覆されなかった例外を成し遂げたのだ。
ならば、他の分家の者達の意見は全て取りまとめているだろう。例外を成立させるためには、長い年月をかけて用意周到に準備を進めていないと不可能だ。
しかし、それでも万が一ということは何にでもある。
エルミスの地位を揺るがす危険因子であるアーシェの存在は、確かに邪魔以外の何物でもない。万が一をも排除するエルミスは、優秀なのだ。
「……結局。我は、家族のお荷物にしかならなかったか」
魔法はエルミスより不得手。常識も知らない。城下に出てからは、知識の落差の激しさを痛感した。
エルミスは城下に赴いていたから、その点でも不安が無い。民のためによく心を砕いていたし、政治の手腕も申し分ないのはよく知っている。エルミスが魔王となるなら、きっと今よりもこの国は素晴らしい方向へ発展していくだろう。
出来れば力になりたかったが、嫌われた今となっては、ささやかな願いも叶わない。
「……この国を出る、か」
城以外の世界を知らないアーシェは、生き抜くことが出来るのか。
いっそ、死んだ方がエルミスの憂いも無くなるのではないか。
そう思いながらも死を選べないのは、自分を生んでくれた人達に申し訳が立たないからだ。生きる以外に選択肢が無い。
だが、国を出たなら。
「レティや、ランスにも会えなくなるな」
たいやき屋の主人。ベンチに座る老夫婦。傍で語らっていた青年や、華やかな女性の輪。
孤児院の院長に、賑やかな子供達。国を出たなら、再び入国出来るかは分からない。今生の別れとなるかもしれないのだ。
それは、ひどく淋しい。
「……っ」
ぎゅっと、両腕で己を抱き締める。不意に熱いものが込み上げてきたか、ぎりぎりで押し戻した。
――これ以上醜態を晒して、エルミスやじいに呆れ果てられたくない。
裏切られたとは思っていない。これは、自分が招いた結果だ。努力が足りなかったのだから仕方がない。当然の成り行きだったのだろう。
むしろ、感謝している。
今まで育ててくれたこと。家族として振る舞ってくれたこと。例え彼らにとっては家族『ごっこ』だったのだとしても、アーシェにとっては紛れもなく温かな家庭だった。
だから、恨むなんて絶対に無い。
だが。
それでも。
〝お前の初反抗期に対する、俺からのささやかなプレゼントってことで〟
「……もっと、一緒に。いたかった、な」
嗚咽を噛み殺しながら、笑う。
絶対に届かない祈りは、シーツに転がって消え去った。ぽすん、とそのまま横になってシーツと一緒に深く思考に沈む。
――初めてエルミスと出会ったのは、アーシェが四に届いたばかりの頃だ。
理由は確か、父親同士で子供を引き合わせようとかそういう話になったのだと思う。友好を更に深めるとか何とか、そんな建前も話していた気がする。
もっとも、叔父の方はアーシェを排除することしか頭になかったはずだ。アーシェを見つめる瞳は、いつだって冷たくて刺す様な鋭さだった。
だからきっと、彼の息子もそうだろう。半ば構えて顔を合わせたのは記憶に新しい。
しかし、エルミスは予想とは全く違う人柄だった。
初対面の時から妙に達観している人物だった。
いつもここに在るのに、ここではないどこか遠くを見つめている様な人だった。別の世界に君臨している様な雰囲気さえ醸し出していたのを覚えている。
権力に媚びず、群がる者達にも決してなびかない。三歳しか違わないのに、いつも背中は大きかった。幼心に憧れて、先を行く彼を追いかけて、いつか追い付くのが夢だった。
常にぶれない芯を持っていて、真っ直ぐ顔を上げて歩いていた。
カッコ良くて、頼もしくて。
そして、とても優しい人だった。
最初は当然の如く、ぎこちない会話しか出来なかった。
互いに手探りの部分もあったのかもしれない。権力者のどす黒い駆け引きの中で育てば、開けっ広げに付き合えないのも無理はなかっただろう。
だが、会うたびに少しずつ言葉が増えていった。次第に彼が城に来る回数も多くなり、いつの間にかアーシェは彼を兄と慕う様になっていた。
仲の良い兄弟だと評判だった。そして、そんな噂を耳にするたび、秘かに舞い上がっていたのは少し恥ずかしい。絶対に本人には明かせない秘密だ。
仲が良かったのは確かだ。
けれど、同時に彼は、苛々しながらアーシェを見守っていた節もあったのを知っている。
アーシェが、あまりに甘えるのが下手くそだったからだ。
「ガキはガキらしく、大人に甘えてればいいんだ」
彼は初対面の時に、何を思ったのか「甘えろ」と誘ってくれたのだ。苛々しながらアーシェを抱き上げて、あろうことか説教をかましてきた。
理由なんてその時は知る由も無かったが、アーシェの弱さを――子供らしくない部分を見抜かれていたのだとおぼろげに知ったのは、少し大きくなってからだ。
しかし、その甘える、という行為自体がアーシェには至難の業だった。
「あ、……エル!」
「おう。久しぶり」
「うむ、……」
「何だよ?」
「えっと、……えっとな」
「……」
「えー、あー、……、……げ、元気だったか!」
「……」
「……」
甘えようとすればするほど必要以上に緊張してしまい、アーシェはなかなか彼に甘えることが出来なかった。
疑心と策謀だらけのこの世界で、己の本心を剥き出しにすることほど愚かな行為は無い。上手に遠謀術数の世界を渡るうち、自分を見せたり弱味を晒したりするのを、アーシェは苦手になっていたのだ。今振り返ると、父にさえ上手く甘えられなかった気がする。
だからだろうか。最初は、エルミスが何に対してそんなに怒っているのか分からなかった。
甘えろ、と言ってくれた。
アーシェも、そんな風に言ってくれる彼に甘えたいからこそ、姿を見つけたら駆け寄り、時には一生懸命タックルまでした。
それなのに、彼はいつもそれを、不服そうに受け入れていた。
眉尻を上げてぶち切れそうになっていたのも、一度や二度ではない。最初の頃は、特に不機嫌になる確率が高かった。
だから一度だけ、甘えられなくなったことがあった。
その日もきっと、いつもの様に彼は叔父の目を避けて会いに来てくれたのだろう。
彼の姿を見つけた時は、嬉しかった。
だから、思うままに駆け寄ろうとしたのに。
不意に、脳裏に彼の不機嫌そうな表情が過ぎってしまった。
不機嫌そうな顔は、アーシェに対して毎回返してくる彼の反応だ。
軽い彼の笑みが、いつもいつも歪められていく事実だった。
駆け寄っても駄目。タックルをしても駄目。
ならば、どうすれば彼に満足してもらえるのか。全く答えの出ない日々を過ごしてきたからこそ、急に不安になった。
――また、嫌われたらどうしよう。
そんな思いに飲み込まれ、足を止めてしまった。駆け寄ろうとした気持ちにブレーキをかけたのだ。
もちろん、彼は一気に不可解そうな表情になり、そしていつもの不機嫌な表情に変わっていった。
不自然な沈黙が二人の間に降りて、空気が棘の様にアーシェの肌を刺してきた。気まずいから早く何か喋らなきゃと焦るも、更に口も頭も回らなくなって、結局金魚の様に虚しくぱくぱくするだけになってしまった。
他の人間にだったら適当にこなせる愛想は彼には通用しないし、使いたくもない。だからこその沈黙だったのだが、逆効果なのも分かって泣きそうになった。
それが、どれくらい続いたのか。
「……おい」
痺れを切らし、不機嫌そうにかけられた彼の声は、いつも以上に底に落ちていた。これ以上機嫌を損ねたくなかったから動けなかったのに、アーシェの態度が益々彼の苛立ちを増幅させたことは明らかだ。
どうしよう。
今度こそ、嫌われたかもしれない。
じわりと焦燥が浮かぶのを止められなかった。視界が滲んでしまい、必死で俯いて隠そうとしたその時。
「……お前って、……ほんっ、と」
溜息と共に呆れを吐き出される。
びくりと、アーシェの肩が震えると同時。
ひょいっと、軽く抱き上げられた。
思ってもみなかった行動にビックリして顔を上げたら、ばっちり彼と目が合ってしまった。
驚くアーシェに、更にエルミスは溜息を吐く。呆れた様に見つめてくる瞳は、とても綺麗な太陽の色をしていた。
「下手くそ」
囁いてくる声は、とても柔らかい。
理解が追い付かなくて何も反応を返せずにいたら、「ばーか」とまた穏やかな声で罵られた。
「……仕方ないから、歩み寄ってやる」
だから、と。頭を軽く撫でて。
「お前も、頑張って歩み寄れ」
微笑いながら、優しく抱き締めてくれた。頭をくしゃくしゃ掻き混ぜて、ぎゅうぎゅうに抱き締めてくれた。
多分その時、出来得る限りのやり方で彼は甘やかしてくれたのだと思う。そのことに当時は気付かなくて、呆然と享受するだけだった。
けれど、これだけは理解出来た。
まだ、嫌われていない。
まだ、好きでいてくれる。
――まだ、この人に、甘えても良いのだ。
それが分かって、心からホッとしてしまった。
だが、エル、と声を出そうとしたのに喉の奥に絡まって出て来ない。
あれ、とアーシェが首を傾げると。
「――っ」
ぽろっと、意図せずに堪えていたものが目尻から落ちてしまった。
「え、……あれっ」
止めたいのに、ぼろぼろぼろぼろ零れてくる。
それが何故なのか分からなくて混乱したのは懐かしい。
しかも、みっともないからと慌ててこすろうとしたら、やんわり彼に押し止められた。混乱するアーシェに、彼は溜息を吐きながら、また頭を撫でておかしそうに笑った。
「あー、もう泣け泣け。めんどくさいから」
仕方ないなと言わんばかりに、彼はアーシェの顔を肩に押し付けさせてきた。
彼の手は、本当に暖かかった。服越しに伝わる体温も、優しいものだった。
そんな風にたくさん熱を注いでくれたら、もう涙なんて止まるはずもない。わんわんに泣いて彼の服を濡らしたのは、羞恥に塗れまくった思い出だ。
――そんなことがあってから、もう十三年になる。
今でも彼と共に過ごした日々は、羞恥と幸福とやはり羞恥でいっぱいだ。
しかし。
「……それから、少しは甘えられる様になったよな」
この人にはもっと近付いても良いのだと、理性よりも感情で理解出来たのだろう。
彼を見つけたら、ぴょんっと懐にダイブ出来るまでになっていた。いつしか、父よりも、じいよりも、誰よりも甘えられる存在になっていた。
エルミスのことが、好きだった。
従兄ではあるが、兄の様に大切な家族。落ち込んでいたら励ましてくれて、からかう中にも自分を想ってくれる優しさがあって、危険な暗殺者からも常に護ってくれていた。
いつか大きくなって、今より成長したなら、今度は自分が兄を護るのだと、ずっと心に誓っていた。
大切で、大好きだった。
彼が傍にいるのは、当然だ。そう信じて、疑ってすらいなかった。
だから。
傍にいられなくなる日が来るなんて、夢にも思い描いていなかったのだ。
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