第5話


 勇者。


 聞き捨てならない単語に、アーシェは雷に撃たれた様な衝撃を覚えた。どくりと、全身の脈という脈がざわめき、湧き踊る。

 魔王の、監視役。

 今まで、例外なく魔王を的確に葬ってきた天敵。

 父が亡くなってから、十二年。今、この時代にも、勇者は現れた。


「――っ」


 笑う様に高揚する。

 子供が玩具おもちゃを見つけて喜ぶ様に笑みが止まらない。未知の領域に初めて辿り着いた人間は、こんな風に興奮するのだろうか。

 ようやく、見つけた。

 炎の様に胸を焦がし、求めて止まなかった。この日をどれだけ夢見ていたか。

 この感激は、アーシェだけのものだ。誰に理解されなくとも、今、夢の先に辿り着いた。



「……お前が勇者か! ここで会ったが百万年! 聞け、勇者よ! お前には今ここで――」

「――ああ、我が愛しの姫君。その唇は薔薇の様に見せかけてマーガレットの様に愛らしく、艶めかしいね。まるで禁忌の花園に足を踏み入れた蝶の気分だよ」

「で――、……、……………………」



 振り向き様に人差し指を突き付け、アーシェは嬉々とした表情で勇者に宣戦布告をした。

 ――否。しようとした。

 だが。



 何故だろう。

 今、自分の耳に、勇者の印象とは到底かけ離れた言葉が流れつづられた様な。



 恐る恐る、何故か言いようも知れない悪寒に抱き締められながら振り返り、アーシェは勇者のいるだろう地点を確認した。それはもう、人生でこれ以上ないだろうというくらい目を皿にし、無遠慮にまじまじ凝視した。



 声が上がっただろうその場所では、一人の青年が大勢の妙齢の女性に囲まれていた。



 絹糸の様に流れる太陽の髪は、よく手入れされているらしく、さらさらと小川の様な音が聞こえてきそうなほど美麗な輝きを放っていた。緩めに後ろで髪を縛ったその角度も実に自然で、彼の端正な顔立ちに彩りを添えている。

 蒼い瞳は曇りなき空を思わせた。ふっくらした唇は桜の様に柔らかな色で、甘い表情は見る者全てを魅了し、どこまでも堕ちてしまいそうなほど危険な香りを放っている。

 まさしく、花の蜜が服を着て歩いている。

 男性であるアーシェも、何となくだが瞬時に理解した。


「ああ、姫君。今日もお会い出来て嬉しいよ。一夜しか隔てていないのに、僕の心は砂漠の太陽にぎらつかれた様に、乾いて干からびてしまった」

「まああ! 大変ですわ!」

「ランスリット様! ああ、私が癒して差し上げたい」

「ああ、何て心の美しい姫君たちだろう。どうか、姫君よ。僕のこの乾き切っても尚、貪欲に君たちという禁断の果実を求めてしまう卑しい心を、可憐な蜜で満たしておくれ」

「ああああああ、もちろんですわ、ランスリット様!」

「私、貴方のためなら噴火する火山の中にだって駆け込めるわ……っ!」


 うっとりうとうと。

 そんな表現が似合うほどのぼせ上がった女性集団が、青年に熱く熱く溶岩よりも暑苦しい視線を注いでいた。

 だが、そんな女性達よりも、妖艶な手つきで一人の女性のあごに手をかけ、見つめ合ってしまっている青年の方が更に暑苦しい。いや、むしろ寒々しい。

 彼が登場してから、きっかり五分。

 人差し指を突き付けたままのポーズで、石像の様に硬直したまま、アーシェはピンクの賑やかさを放つ空間を呆然と眺めた。


「おい、レティ」

「はい。何でしょう、アーシェ様」


 他の女性とは異なり、至って普通な反応を示すレティに安堵しつつ、アーシェは頬を引きつらせた。


「あれは、何だ」

「はい。あれは、ランス流の挨拶ですわ」

「あ、挨拶?」

「はい。わたくし、ランスとは幼馴染なのです」

「お、おさ、なな」

「彼は、昔から大の女性好きなんです。見る人全てが可愛らしく映り、いつしか条件反射の口説き文句が挨拶になったのですわ」


 有名な日常の光景なのですわよ。


 にこにこと話す口調は、心なしか自慢げだ。

 どこをどう解釈したら誇らしげに語れるのだろうか。そんな当然の疑念が過ぎったが、アーシェは言葉にすることを諦めた。レティの物差しが常識からは月とすっぽんくらい離れているのは、つい先程のやり取りで嫌というほど理解している。

 それに、たいやきを恵んでもらい、魔王後継者であることを笑い飛ばされ、女性に押し倒される経験を立て続けに味わったのだ。並のことでは動じない。

 そう。動じてはいない。自分は、動じてなどいない。

 そう。決して、動じて、など、――。



「――ふ、ざけるなああああああああああっっっ!!」



 ――いるに決まってるわっ!



 今まで眠りに沈んでいた火山が大爆発を起こした如き形相で、アーシェは大絶叫をかました。びりびりっと大気が怯えた様に震え、周りが一瞬目をまんまるにしている。

 だが、そんな腰を抜かす彼らを尻目に、勇者ことランスは何処吹く風だ。そよ風を受け流す様な涼しげな顔で、わずらわしそうに髪を掻き上げて嘆息した。


「騒々しいね。誰だい、レティ? その気品というものをゴミ捨て場にでも捨ててきた様な男は」

「ご、ゴミ捨てー!? お前など、礼儀というものをすみっかすにした大気汚染物だろう!」

「あ、ランス。この方は、アーシェ様。次期魔王様なのですよ!」

「ふ、魔王? そんな、威厳も風格も気品も無いのに。さしずめ、三流魔王といったところかな?」

「さ、三流!」

「レティ、君の思考回路は確かに面白いけれど、流石にその寝言は寝てから言った方が良いよ?」

「威厳だの風格だの、もうそのセリフは聞き飽きたわ! お前こそ、どこら辺があの壮大な使命を背負っている勇者なのだ! 何かの間違いだろう!」


 は、と馬鹿にする様に吐き捨てられ、アーシェの噴火は更に激化した。町全体がマグマで溢れていく様な怒鳴り具合に、野次馬になった周囲が面白そうに身を引いていく。

 だが、レティだけはその場を離れず、冷静にのんびりと首を傾げた。あらまあ、とアーシェの驚愕をコンパクトに受け止める。


「ですが、アーシェ様。ランスは、本物の勇者ですよ? だって、勇者の鏡が彼を選びましたから」

「なるほど、勇者の鏡! ……って、は!? 勇者の鏡!? 何だそのふざけたネーミングは!」

「あら、ご存じないのですか? 勇者の鏡は、初代魔王様の親友が作り上げた鏡です。今までの勇者は、その勇者の鏡が選び出してきたのですわ」

「何だと!? 魔法具か! って、そんなふざけたネーミングセンスの持ち主だったのか、魔道士!」

「はい。それにアーシェ様。勇者って、みんなこんなものですよ」

「こんなもの!?」


 魔王の監視役である勇者を、あろうことか「こんなもの」呼ばわりするレティにも度肝を抜かれたが、それに一斉に「こんなもんだよなあ」と揃って頷いた民の反応にも仰天した。

 そして、アーシェの驚きは訂正されることもなく、更なる真相をレティは可愛らしく無邪気にひけらかしていく。


「先代勇者は、無類の戦闘狂とのことでしたし」

「せ、せんとうきょ!?」

「その前の勇者は、魔王様に何をとち狂ったか、早食い勝負を挑むほどにグルメで、食でナンバーワンになることに生涯全てを注ぎ込むと世界中に豪語していたそうですし」

「ぐ、ぐる!?」

「えーと、それでその前の勇者は……」

「……今でも覚えておりますよ。愛に命を懸けると宣言した通り、魔王様に求婚に求婚に求婚を重ね、魔王様のためなら死ねると。それはそれは微笑ましい女性でした。わしらも応援しておりましたよ」

「って、勇者なのに、魔王のために死ぬのか! いや、それより応援するか普通!」


 最後は、ベンチに座って平穏そのものだった老婦人が遠い目をして語るのを、アーシェは絶叫し――精根尽き果てた。

 今まで抱いていた勇者へのイメージを木っ端微塵に打ち砕かれ、反応が出来ない。

 長年の因縁相手である勇者。必ず魔王を討ち取る天敵。少なからず尊い存在なのだと、敬意さえ抱いていた。

 だが、真実はどこまでも残酷だった。



「つまり、何か。我々歴代魔王は、そんなふざけたネーミングセンスの鏡に選定された、そんなふざけた勇者どもに、為す術もなく倒されてきたと」

「はい。そういうことになりますわね」

「つまり、我ら魔王は、そんなふざけた勇者どもよりも、ふざけたくらい弱いと」

「はい。……あ、いえ。そういうわけでは、……あるかも、しれませんわね」



 フォローしきれなかったらしく、レティの声がどんどん尻すぼみになっていく。明後日の方向へ視線を飛ばすあたり、根が正直だ。同じく隠し事が苦手なアーシェとは気が合うかもしれない。

 昔から、城に仕える者達の勇者に対する感情は複雑なものだった。主である魔王を倒す絶対的な切り札は、魔王視点からは脅威以外の何者でも無いからだ。


 だからだろうか。アーシェも、ごくたまに勇者の名を背負う人物を思い描いてきた。


 父の、祖母の、歴代の魔王の過ちを正してきた存在。顔すら見たことが無いのに、次第に脳裏のうりに閃くシルエットは大きくなっていった。

 そして、今。歴史的邂逅かいこうに立ち会った、はず、なのに。



「勇者は、こんなもの。……我の、この持て余した空虚な熱意は、一体どこへぶつければ」

「うん? 熱があるのかい? 女性なら手厚く自ら介抱するところだけど、君、男だしね。適当に氷でも頭に乗っけていたら良くなるんじゃない?」

「性格だけでなく、頭までふざけているとは。もう我の城下デビューは色々な意味で台無しだ」



 ランスに心底どうでも良さそうな声で、今思い付いたかの様な対処法を適当にぶん投げられ、アーシェはあまりの眩暈めまいに右手で顔を覆う。心の中だけで四つん這いになってしまった。――あくまで心の中だけですませているのは、これ以上醜態を晒したくないからだ。威厳は欲しい。

 しかし、じいの目をくぐり、エルミスの手助けを受けてようやく抜け出したあの苦労が、粉々に踏みにじられる結果に終わってしまった。


「……あれが、勇者。我は、あいつなんかに、……く、いや」


 ぶつぶつ文句を呟きながら、頭の中を整理する。

 当初の予定は、真ん中あたりからぽきっと折れてしまったが、目的が潰えたわけではない。

 事実、目の前に勇者がいるのだ。

 ならば、やることは一つ。


「お前、……ランスと言ったか」

「うん? 男に愛称で呼ばれても嬉しくないね。ランスリットと呼びなよ」

「分かった。では、ランス」

「……箱入り息子かと思いきや、なかなかどうして。良い性格をしているね」


 何か用かな。


 鬱陶しい蚊を叩き落とす様な仕草を見せながらも、一応は話し相手になってくれる様だ。心底面倒そうな面持ちで、こちらに半分だけ向き直ってくる。


 ざりっと石畳を踏みしめ、アーシェは真っ直ぐに彼を見据えた。


 依然としてランスは緩い空気をまとっていたが、一瞬腰にある剣を確認したのを見逃さなかった。冗談みたいな性格ではあるが、伊達に勇者を名乗ってはいないらしい。相当の腕前であることも、身のこなしから読み取れる。

 互いが、互いに距離を測る。

 呼吸や指の先までのわずかな動き、瞳の奥にある光を見つめ、見えない刃を交わし合う。

 勝負は、一瞬で片が付く。

 歴戦の勇士の対決の様な緊迫感の中、アーシェが自ら一歩を踏み出そうとした、その時。



 ――ドンッ!



 たいやきの屋台の屋根が、派手な音を立てて破裂した。


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