第3話
勇者。
それは、フェルシアーノを建国した初代の魔王の頃より続く、因縁の相手。
昔話にもなるほど有名な物語の発端は、魔王を討つ勇者の誕生だった。
そして、その誕生には、初代魔王の親友であった初代魔道士が深く関係しているという。
初代魔王は心優しく、自分よりも他人を優先するほどのお人好しだったと聞く。
そんな人物だったのに、国を興し、権力を握った時を境に変貌してしまったそうだ。
それは、『魔』を
それとも、権威に憑りつかれたか。
諸説は様々だが、当時の国の荒みっぷりは、子供には聞かせられないほど残虐なものだったらしい。
惨状を嘆いた魔道士は、一人の勇敢な若者に全てを託した。
自らの手では、情が入ってしまう。
酷な決断ではあったが、持ち得る魔力の全てを若者に与え、委ねたのだ。
結果、若者は見事魔王を打ち倒し、勇者となった。
以来、魔道士は二度と国の荒廃を招かぬため、勇者を導く魔法具を作成した。
自分が亡き後も、次世代の勇者を道具によって定め、魔王を監視するシステムを創り上げたのだ。
そうして両者、64代に至るまで、勇者は例外なく魔王を討ち取ってきた。
魔王が天寿を全うすることも無く、アーシェの父も志半ばでその短き生を終えていた。
そして、代々の勇者も、魔王を討つとほぼ同時期に亡くなっていた。まるで、役目は果たし終えたと言わんばかりに。
「……何故だろうな」
自分達の歴史を振り返り、アーシェはぽつりと呟く。
おぼろげにしか記憶にない父は、表情に乏しかったが、とても穏やかで優しい人だった。気がする。
幼かったので記憶も曖昧だが、城の者達の評判も悪くない。未だ敬意をもって名を口にする者も多かった。
なのに、彼らは口を揃えて言う。
父は、道を踏み外したのだと。
父だけではない。
祖母も、
魔王となった者は全員、国を傾ける悪行を犯したのだ。物的証拠もあり、否定する術もない。
父を語る時、魔王の歴史を紐解く時、決まって締められる文句。
――過ちさえ犯さなければ、勇者に倒されることはなかったのに。
勇者は、魔王が道を踏み外さない限りは動かない。あくまで、一般市民として生きる。
ただし、ひとたび勇者としての使命を背負ったならば、光り輝く一筋の希望となりて魔を打ち払う。
幼い頃から聞かされてきた歴史に、特に感傷も抱かなかった。
ただ、父の仇なのだなと、少し複雑な感情を持った程度だ。裁きが下ったのだと非難されれば、反論も出来ない。
だが。
〝どうか、くれぐれもお忘れなきよう〟
「……忘れられるものか」
じいに聞かされた言葉に、顔を上げる。琥珀の月の
勇者は、魔王が即位する時期の前後に指名されるらしい。ならば、今ならもう会えるかもしれない。
アーシェは勇者と顔を合わせ、伝えたいことがあった。
そして、確かめたいことも。
「……んむ、よし!」
気合を入れて、城下に続く道を歩む。
丘の上に立つ城が小さくなるにつれ、眼下には青空の中に溶け込む様に、街並みが広がっていった。見下ろした街は
初めて見る城以外からの景色に、自然と心は弾んでいった。
「……これが、我の故郷か」
多忙な日々を過ごしながら、何度も夢を見た。
城下に下りたなら、街の人達への第一声はどうしようか。
次期魔王だと知ったら、どんな顔をするだろう。
受け入れてもらえるだろうか。
どこを歩こうか。
買い物なんかをしても、罰は当たらないだろう。
――。
「うむ、城下デビューに相応しいな!」
意気揚々と、興奮しながらアーシェは頷く。
本当に様々な小さな夢を描いて、街に下りる日を楽しみにしていた。
その夢が、今、この手に触れられるほど近くにある。
「……、おおっ」
感嘆しながら一歩一歩を踏みしめ、広場に出たところでアーシェはぐるりと周囲を見渡す。
立ち並ぶ建築物や石畳には、細かい傷跡が刻まれ、街の歴史を誇らしげに主張していた。
空に噴き上がる噴水は、まるで鏡の様な透明感で、目にするだけで心が洗われる。
近くのベンチに腰かけている老夫婦は、幸せそうに遊んでいる子供達を見守っていた。
立ち並ぶ屋台の主の威勢の良い掛け声に、楽しげに応える恋人の姿。肩車をする父と子や、噴水の近くで休憩をしている青年に、話に花を咲かせる年頃の娘達が広場を彩る。
老若男女という単語がぴったり当てはまるその光景で、誰もが楽しそうに笑っていた。
「……うむ。良い街だな」
他人事の様に感想を漏らし、罰が悪くなって頬を掻く。
アーシェにとって、この城下は大切な故郷に変わりないが、書類でしか付き合いがなかったため新鮮で仕方がない。それに、自分が行ってきた政は間違いだらけではなかったと知れて、こっそり胸を撫で下ろした。
自分も、ベンチにダイブしたい。一緒に老夫婦と言葉を交わし、子供達に混ざってはしゃぎ回れば、どんなに楽しいだろう。
「って、いかんいかん」
大いなる誘惑に、だが頭を振りかぶって戒める。
まずは挨拶。それから勇者だ。
しかし、どうやって探そうか。手当たり次第に聞いてみるかと、屋台に近付いて。
――ぐぐうううううきゅるるるるっ。
「――――――――」
腹の虫が、盛大に仰々しく高らかに鳴り響いた。一瞬、全ての時間が綺麗に凍り付く。
アーシェに、何が起こったのか。
理解を放棄していると、見たくもないのに視界に様々な人々が乱入してきた。
老夫婦のきょとんとした眼差し。
子供達のぽけーっと見上げてくる視線。
あらあらと、口に手を上品に当てているうら若き娘達。
じゅーっと鉄板から煙を上げたまま呆けている屋台の主人。
そして、不意に。
ぱちり、と。一つの屋台の主人と目が合った。
とても絶妙なタイミングでの視線の絡み合いは、さながら運命の相手と惹かれあうロマンチックな演出だ。相手と状況さえ正しく整っていれば、アーシェもときめいていたかもしれない。
取り敢えず、にこーっとアーシェは微笑んでみた。
応えて屋台の主人も、にやーっと粗野だが人の好い笑みを浮かべてくれる。
にこーっ。にやーっ。にこーっ。にやーっ。
笑い合い、笑い合い、笑い合った末。
「――邪魔をした」
くるん、ときっちり180度。アーシェは颯爽と手を上げて背を向けた。
「いやいやおいおい! まだ何も始まってねえだろうがよ!」
途端、光よりも速く、屋台の主人が呼び止めてくれた。
その合いの手はありがたいが、今のアーシェには恥を上塗りするだけの行為だ。かあっと、顔が猛烈に熱を持って行く。
「止めるな! 我は、我はこんな始まりは認めん! やり直しを要求する!」
「いや、何の!?」
「無論、城下デビューだ!」
「いや、マジで何の話だよ!?」
あまりに意味不明な主張にも、屋台の主人は律儀に素早くツッコミを叩き飛ばしてくれた。びしっと、丁寧に裏拳まで繰り出してくれて付き合いが良いが、何ら慰めになりはしない。
うきうきと、念願かなった夢の第一歩が、あろうことか腹の虫。
アーシェの夢はたった今、がらがらとガラスの如く崩れ去っていった。
「せっかくの城下デビューがこんな腹の虫……、ますます我の威厳が! このままでは底辺どころか、奈落の底に!」
「いやいや、坊主! 今は三時のおやつにぴったりな時間だから、小腹もすくだろうよ! まあ、まだ一時だけどな!」
「一時のどこが三時のおやつだ! お前には分からんだろう! 我がどれほどこの日を楽しみにし、待ち焦がれ、うきうき眠れぬ夜を過ごしたか! 街の者達への挨拶も、毎晩シミュレートしていたのだぞ!」
「おっほー!? こりゃ、おおげさな!」
「それなのにまさか、初めて民の前に顔を出した最初の第一声が腹の虫。……今我は、この国の歴史に泥を塗ってしまったのだ!」
「おおおい! 何でいきなり一個人から、国の恥にまで規模がぶっ飛んだ! おっちゃん、頭悪いから本気でわからんよ!」
泣きながら、ばっしんばっしんと地面を叩いて嘆くアーシェに、主人は実に的確なツッコミを飛ばしてくれる。どちらかと言えば、この会話自体が国の威厳を
城からの脱出ばかりに頭がいっていて、昼食を丸々放り出したのがいけなかった。時間を巻き戻し、少し前の自分に説教をしてやりたい。「昼はきちんと食べて来い」と。
政策以外では、考えなしになる自分にほとほと愛想が尽きる。城の者達も「会議と日常のギャップが酷い」と
しかし、今更昼を食べて出直してくるという選択肢は無い。本気で間の抜けたただのポンコツになってしまう。
どうしたものか、とアーシェが頭を悩ませて立ち上がろうとすると。
「ほらよ」
すっと、主人が何かを差し出してきた。
ほわっと香ばしい匂いが鼻先をくすぐり、アーシェの腹がまた、きゅーっと
体中の熱が一気に顔に集まるアーシェの肩を楽しげに叩き、主人はほれほれ、と手にあるものを揺らしてきた。
「う、うむー……」
羞恥心をぐっと飲み込み、観察してみる。
主人の手にあるもの。それは、魚の形をしていた。
パイの様でありながら、パイよりも柔らかな生地。綺麗な鱗が丁寧に描かれ、つぶらな瞳は「食べて食べて」とこれまた可愛らしく訴えてくるかの様だ。
だが、生まれてこの方、目にしたことがない食べ物だ。知識を総動員させてみたが、全く思い当たらない。
「……これは、何だ?」
聞かぬは一生の恥。
無知ならば知れば良いがモットーのアーシェは、躊躇いなく聞いてみた。
すると、主人は「およ?」と目を丸くしてから、無駄に歯をきらりと光らせる。
「知らねえのか、坊主。これは、たいやきだ」
「たいやき? ……おお、これがたいやきか! 魚の
未知との遭遇に大いに感動すると、主人も嬉しそうに胸を張った。
アーシェも、たいやきの名前だけは知っていたが、これが、と興味津々に観察してしまう。
屋台を出す許可証に記されていた時に、「たいやきとは何だ」とエルミスに尋ねてみたことがあったが、「魚の饅頭」とひどく簡潔な解説をされていた。
なので、生の魚に
餡子の詰まった生魚が売れるとは、世の中には物好きな者がいると、半ば感心した記憶がある。
「ふむ。すまぬな、たいやきよ」
大いなる勘違いに気付き、アーシェは頭を下げてたいやきに謝罪した。目の前の主人が何故か呆気に取られていたが、世間の常識を知らぬアーシェに理由が思い当たるはずはない。
「それで、……食べても、良いのか?」
「おう! 腹へってんだろ? がぶーっといけ、がぶーっと!」
「が、がぶー?」
「おうよ! こう、頭から、がぶーっと一気に食べてみな」
豪快な食べ方を推奨され、アーシェは面食らった。
悪戯っ子ではあったが、腐っても王家の出自。食事の礼儀作法は叩き込まれていたし、手ずから食べるには少なからず抵抗があった。
しかし、これが民の目線から物事を見るということ。執政者たる者、民の視点に立つことも必要だ。
言い聞かせ、アーシェはたいやきを両手で
が。
――じーっ。
「……、う」
可愛らしく見つめてくるたいやきのつぶらな瞳に、アーシェはよろっと身を引いた。
さっきまでは「食べて食べて」と訴えていたのに、今では「食べるの? 食べるの?」と涙混じりに語りかけてくる様だ。愛らしさ倍増で、かなり居た堪れない。
しかし、これは食べ物だ。
そう。生きてはいない。腹に入れば、全て血肉となるのだ。
だから、食べられる。大丈夫。よし、食べる。
言い聞かせ、口を開ける。
だが。
じーっ。
「……」
じ―――っ。
「…………………」
じ――――――――――っ。
「…………………………………」
見つめれば見つめるほど、迫る様に訴えかけてくる。
まさか、たいやきという食べ物が、これほどまで愛らしいとは思わなかった。「エルめ、心構えくらい教えてくれれば良かったものを」と、ここにはいない兄に八つ当たりしてしまう。
しかし、目の前には不思議そうにしている主人がいる。食べなければ彼の親切心を仇にするし、食べればたいやきが泣く。
――どうするか。
アーシェが、いよいよつぶらな瞳にノックダウンされそうになった、その時。
きゅるり、と。腹の虫が、待ちくたびれた様に鳴った。
「……ええい、往生せよ!」
我に返り、アーシェは頭を千切れんばかりに振りまくる。並々ならぬ気迫に、主人をはじめとした、その場の全員がぽかんと呆気に取られていたが構わない。
つぶらな瞳。このたいやきも、感謝をしながら血肉とする。
「――いただきますっ!」
たいやきを持ったまま両手を合わせ、がぶりと
途端。
「――、ん」
ふわりと、柔らかな感触が舌の上に広がった。甘い香りと食感が小さくハーモニーを奏で、嬉しそうに溶けていく。
もくもくと
初めて出会う味わいに、つぶらな瞳はどこへやら。アーシェは、とびっきりの笑顔を輝かせた。
「うむ、美味い! たいやき屋、見事な腕前だ!」
「おうおう! そうかいそうかい、嬉しいねえ。ほれ、もっと食え食え!」
どこから取り出したのか、山の様に袋に詰められたたいやきの群れに、飢えていた獣の如く手を伸ばす。
もう一個、もう一個だけと言い訳をしながら食べ進め、あっという間に袋の中は空になった。
「おー、兄ちゃん、いい食べっぷりだったな!」
「にーちゃん、おいしいだろ! おれたちも、ここのたいやき大好きなんだぜ!」
「なんだぜ!」
「おお、そうかそうか。我も気に入ったぞ! 実に美味な饅頭だった」
成り行きを見守っていた子供達も親しみが湧いたのか、気さくに声をかけてきた。ベンチの老夫婦もにこやかに「よかったですねえ」と微笑み合い、娘達も休憩していたらしい青年も、頷いて同意していた。
主人だけではなく、周りにいる街の者達と言葉を交わせたことが嬉しい。アーシェは天に舞い上がるほど浮かれた。
腹も満たされ、しばし至福を堪能し――。
「……はあっ⁉」
幸せな笑顔のまま、絶望の叫びを上げた。天から地へと叩き落とされる様に、周りの風景が引っ繰り返る。
「た、たいやきー!」
「へ?」
がばっと食い入る様に袋の中身を覗く。
当然だが、そこには凄まじい食べっぷりによって空になった紙袋の底が見えるだけだ。ひゅるるる、と風に吹かれたら抵抗もなく吹き飛ばされるだろう軽さしか無い。
恐らく、今日の売り出しに貢献するはずだった一部だろう。
それが、全て、空。
自分のとんでもない悪行に気付き、盛大に飛び上がった。
「た、たいやき屋!」
「お、おう?」
「す、すまぬ! 我のせいで、売り上げが!」
「は?」
「お、お金、は。……駄目だ、お金は、城に」
懐を大慌てで探ってみるも、お金があるはずもない。城から出たことのない自分には不要の長物だったし、すぐに脱出に直行したので、金銭を持ち出す頭など無かった。
このままでは、食い逃げ。
腹の虫第一声ばかりではなく、不名誉過ぎる悪事に、アーシェは崖から叩き落とされる衝撃を味わった。
「す、すまぬ。今お金を持ってくる! しかし、人質、いや、
「坊主、別にこれくらい大丈夫ってもんさ。オレはただ、腹を空かせた坊主に食べさせてやりたかっただけなんだしよ」
「いや、それでは駄目だ! 魔王の名が
「いや、これはオレからのちょっとしたサービスだから……って、は? 魔王?」
言いながら、主人が豪快な笑顔のまま首を傾げた。他の者達も、ぱちりと大きく瞬く。
瞬いた後は、みんな揃ってアーシェを凝視してきた。
――勢いで口走ってしまった。
しかし、別に隠すことではない。エルミスが協力してくれているし、じいの耳に入ることもないだろう。
それに、知られたらその時はその時だ。このまま民に不誠実を働く方が、アーシェには心苦しい。
珍獣を見る様な視線には動じず、アーシェはぱんぱんと砂を叩いて服を整え、咳払いをした。
そして。
「うむ、改めて自己紹介しよう。我は、アーシェル・ラング・フェルシアーノ。この国の次期魔王となる後継者だ」
厳かに、堂々とアーシェは民に宣言した。
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