ハイキック・スラスター

馬頭

 アメリカンコミックって知ってるかい?

 そう、あの祖国が大好きな盾男とか、何回殺そうとしても死んでも死ねない狼っぽい男とか、それと似たようなお下劣仮面とか、コウモリコスのいかれたオッサンとか緑の筋肉達磨が出てくるああいうやつ。

 僕が言ったんじゃないぞ。僕はそれらが大好きだ。

 弱者が痛めつけられていると、必ず彼らはやってきて、テロリストや犯罪者、悪の怪人と戦って最後には勝利を掴む。最高だ。だから僕は新しく発行された雑誌も単行本も全て買っている。最近は無料で見れる脱法サイトなんてあるけどそんなものクソ食らえだ。

 でも、世の中には当然、そんなヒーローなんていやしないんだ。力を持っている人間は、いつだって自分のことで手一杯だ。だから他人に手を差し伸べている暇はない。その癖、

「ウォラッ!」

「うっぐ……!」

 漫画みたいな馬鹿はどの世界にもいる。

 尻を蹴られた。振り返ると、僕と同学年の生徒が三人いた。名前は知らない。ただ不良というか、いじめっ子で、僕をよくおもちゃにしているのは知っている。先生の前でなく、こういう生徒しかいないところで嫌がらせをしてくる奴らだ。

 学校の中で、生徒というのは妙な空気を持つ。この空気の中では、純粋なパワーにしろ、社交力にしろ、見た目にしろ、そいう力を持っている人間が絶対だ。そしてそこには、大人という存在の力は全く効力を発揮しない。

 だからこそ、さっきから僕のことをちらちら見ている生徒は誰も口出ししようとしない。見て見ぬふりばかりだ。クソッ、僕はただパン買ってアメコミの新刊読みながら昼飯にしたいだけなのに。

「……!」

 じっと見た後、僕は手にした雑誌を強く握りつつ、踵を返してまた歩き始めた。再び尻が蹴られる。痛い。どうせいつの間にか、僕の背中に『蹴ってください』『蹴られると喜ぶマゾ豚君です』とか書かれた紙が貼り付けてあるんだろう。いいんだ。こんなガキみたいなこと、高校生にもなってやっている人間なんて相手にする必要ない。僕は平気だ。

 再び、蹴られる。もうすぐ購買部だ。生徒以外の人が見ている前で、こいつらは何もできない。階段を下りて、角を曲がれば。

 でも、こう考えていたのは僕の甘い期待だったことを思い知らされる。階段を降り切ろうとした時に、思い切り蹴飛ばされた。踊り場に倒れる。やられた。残り数段っていう時に。怪我はできない一方で、僕は床に手をつき、その拍子に手にしていたアメコミ雑誌が離れてしまった。急いで起き上がるも、その雑誌はさっきの奴らの手に渡っている。これ見よがしに、中を見てにやにやしながら僕を見ていた。

「……返して、くれないかな?」

「ん? おおいいぜ、ほらよ」

 僕は恐る恐る、彼らの下へ近づいた。差し出された本を両手で受け取ろうとした時だ。

 不意に腕をはたかれた。横から。良そうだにしない動きで、僕の手からはアメコミ雑誌が離れていく。何をしたいんだか。僕は呆れながらアメコミ雑誌の方を目で追った。アメコミ雑誌が床に落ちると、中が開き、そこから薄い冊子が滑り出てきた。今月号に別冊付録なんてついてたっけ? そう思い目を凝らすと。

「ふぇ……!?」

 頭が冷え、背筋と額に汗が浮かぶのがわかる。同人誌だ、エロい奴。しかも制服モノ。女子高生とかがメインで犯されるタイプのやつだ。まずタイトルからしてアウト。こんなもの見られたらまずい、急いでしまおうとした。これがまたダメだった。

「うわ」

 ちょうどそこへ差し掛かっていた女子のグループに、僕がその二冊を拾おうとしている場面が見られてしまう。周囲に小さなひそひそとした声が聞こえる。

 頭の中がぐるぐるとして、僕はまともに判断ができないでいた。弁明をするか? 何を言っても聴き受けられないだろう。後ろの奴らは? 素知らぬ顔で僕に冷たい視線を向けているはずだ。

 「キモイ」「信じらんない」「マジかよ」「うわ」そういう言葉が聞こえてくる。どう見たって、根暗なアメコミオタクが隠れてJKモノエロ同人を持ってきたのがバレた、そういうシチュエーションにしか結びつかない。さっさとしまえばいいものを、それをすればこの状況を認めたことになりそうで、僕は微動だにできなかった。逃げることもできず、立ち向かうこともできず、地に足のつかない感覚に襲われ、僕の意識はこの場で漂うばかり。二冊を両手で持ったまま、ただ冷や汗だけが、だらだらと流れていく。もう、涙すら出そうだった。

 肩が叩かれる。僕はびくりと体を跳ねさせた。恐る恐る、振り返ると、一人の女子がそこにいた。

 長いポニーテールを高く結び、切りそろえた前髪は両端だけが長く頬骨にかかっている。活発そうなやや釣り上がった目に、緑色の瞳。ハーフなのか? というか、誰だろう。僕の学校とは違う制服だった。

「あ、あの……ちが……」

 ともかく違うと伝えようとしたところ、後ろからペリリと音がした。貼り紙がやっぱりあった。書かれてあるのは、『大角天馬、蹴られて喜ぶど変態』って、僕の名前晒すなよ……。名前も知らないポニーテールの女子は、それを持って僕を蹴っ飛ばした男子三人の方に向かって歩いて行くと、真ん中の男子に貼り付けた。

「あ……は? あの、なッ……!」

 言い終わる前に彼の体がくの字に折れた。何が起こったのか、僕も理解できないでいた。ただ遅れて、彼女のスカートから、黒いサイハイソックスを履いた左脚一本しか見えていないところを見て、彼の脇腹に蹴りが入ったのだと初めて理解できた。

「お、おい……!」

 反撃をする間も与えられず、蹴りの入った右足が床に戻ってくると、今度はその足を軸にして彼女の体が回り、向かって右隣の男子の鳩尾に右踵が深く突き刺さった。廊下の壁に背中を打って、悶えている。

「なッ……」

 ようやく自分達が攻撃されているとわかったかのように、最後の一人が遅れて彼女に掴みかかろうとした。しかしそれも、謎の女子の右足が床に着けば最後。

「シッ」

 空気を切るかのような音と共に、繰り出されたハイキックが、彼の顎を襲った。避けられることもできず、もろに食らった男子は仰向けになって倒れていった。三人とも動けていない。最後の一人は完全にノックアウトだろう。彼女は再び僕の下へ歩いてくると、片方の手に持っていたエロ同人をひったくり、倒れた三人の下へ投げ捨てた。

「あんたらのでしょ、それじゃ」

 彼女はそれだけ言って、階段を上がっていく。

 誰も彼女を止めようとはしなかったし、出来なかった。かといって蹴り飛ばされた男子達にも、僕にも声をかける生徒はいなかった。静まり返った階段の踊り場で、皆が彼女を見上げる中、彼女は誰も意に介さず、その場を去っていった。

 いや、一瞬。

 一瞬だけ、去り際に僕と目が遭った……気がする。



 あれは、いったい、何だったんだろうか。

 屋上前の用具置き場で、僕はジャムパンをもさもさと頬張りながら、ぼんやりと考えていた。高校生の昼食と言えば屋上という風にテンプレがあるけれど、実際のところ屋上なんて解放されているところはまずない。飛び降り自殺だとか暴行だとか煙草の温床になるからだ。屋上なんてところは爽やかな青春の風が吹き抜ける場所ではなく、その一歩手前の埃っぽい用具置き場が、冴えないオタクのたまり場になっていた。

「はぁー、やっぱキックバスターおもしれーなぁー!」

 僕の斜め向かいに座った太った生徒が声を漏らす。でっぷりと太ってシャツがはち切れそうで、短く刈ったソフトモヒカンの髪はオレンジ色に染めてピアスも開けている。こんな見た目だがれっきとしたオタク。というか、流行りの趣味から粋がって離れている僕と同じタイプの陰気なオタクだ。

「いいよなぁー、キックバスター! ほら、最近ここらで女の子襲うって奴らいるらしいじゃん? あいつらもキックバスターみてーなヒーローがぶちのめしてくんねーかなー!」

 シュッシュッと、速そうな効果音だけ付けて、肉をブルンブルン揺らしてキックを繰り出している。彼の名前は早瀬隼人。名は体を表すという言葉に真っ向から喧嘩を売っている。

「力也、お前。なんか、今俺に失礼なこと思い浮かべてねーか?」

 エスパーなのかこいつは。

「そんなわけないだろ」

「じゃあなんだよ。あ、またあのゲス共にいじめられてたなぁ? 俺みたいに不良ぶってればいいんだよ、目ぇつけられねーぞ」

 本当にエスパーなのかお前は。僕は面倒くさそうに手を振って違う違うと嘘をつく。友達にだって同情はされたくない。

「お前は手を出すとやばいって思われてるだけで、いろいろ言われてんぞ」

「え、マジで!?」

「ハヤブタ君とか、ぽっちゃり系ヤクザとか」

「んぶひいいいい! ゆるざん!」

「ったく……」

 食べ終えたジャムパンの袋をくしゃくしゃと丸め、ビニール袋の中へ入れた。甘ったるい口内を一緒に買った無糖の紅茶で中和させる。

「ほら、読んだなら返せよ。僕も読み返すから」

「おお、あんがと。そういえば、今日俺んとこのクラスに転校生きたんだよ」

「ほぉー」

「結構可愛い子でさ、長いポニテが良くって」

 ポニーテール? ぼんやりとそのワードが脳裏に引っかかる。

「スタイルも良くって脚も長いんだ」

「黒いサイハイ履いてる?」

「お、そうだけど」

「ウチの学校の制服じゃない?」

「そうそう、なんか用意が間に合わなかったらしくて」

「ちょっとツリ目で、健康そうな感じの」

「そうそうそうそ……!」

 僕は気づけば隼人の両肩を掴んで壁に押し当てていた。きっとひどい顔をしていたんだろう。いつも笑っている駿が怯えたように引きつっている。

「教えろ! 名前は、家は? 何か情報を」

「怖ッ、何お前怖ッ! いきなり家かよ、何する気だお前!」

「あ、いや……悪い」

 柔らかい二の腕を離すと、隼人はぼやきながら服をはたいて、雑誌を返してきた。僕はそれをうけとりながら鞄にしまう。

「まぁ、別に名前くらい教えてやるよ。メロンパン奢ってくれたらな」

「メロンパンくらい安いもんだ」

「じゃあコーラも」

「調子に乗んな」

「ごめんって、名前は確か、アカツキミト。アカツキは赤い月で、ミトは美しいに兎で美兎。うん」

「赤月さんか。そうか……」

「……じゃあ、放課後な」

「へ……?」

 隼人の唐突な物言いに、思わず間抜けな声が漏れてしまう。しかし一方で、隼人の方が目を丸くしていた。

「いや、名前聞いてそれだけってわけじゃねえんだろ? 放課後声かけるぞ、いいな? 迎えに行くからな、逃げんなよ」

「え、あ、おい待て、誰もそんな事は言ってないだろ!」

「そんじゃな、次移動教室だから、先行くわ」

「おい!」

 結局隼人は僕のいうことなど少しも聞かず、さっさと教室へ戻ってしまった。僕はといえば、残されたところで仕方なく雑誌を読み返す。思えば、自分でもなぜ彼女がそこまで気になるのかわからない。ただ何か、彼女には引っかかるところがある。単純に一目惚れというやつだろうか? どうなんだろう、恋愛経験のない僕には、あまりに難しい判断だ。

「赤月、美兎さんか……」

 ぼんやり彼女の名前を呟くと、示し合わせたように鳴ったチャイムで、僕は現実へと引き戻された。



 時刻は夕方になった。夕方と言うには、少し早いかもしれない午後三時を少し回ったところ。部活に向かう生徒は体育棟へ向かったり、陸上部は靴を履き替えたりしている。

「ほら、見えるか、おい」

 そんな中僕はと言えば、他人のクラスのロッカーで身を隠しながら、その先を覗いている。黒くて長いポニーテール、同じく黒いサイハイ、皆と違う制服、ツリ目、間違いない、赤月美兎さんだ。

「おいって、聞いてるか天馬」

 で、僕の頭の上からは隼人が覗いている。

「聞いてるし見えてるって」

「よし、じゃあレッツゴーだ」

「いやいやいやいや、無理無理無理無理!」

 人の気も知らないで、無茶をいう不良豚だ。僕は手の前で右手を、同時に首を左右にブンブンと振る。

「だ、だってあれだぞ!? 高校入ってまともに女子と口すら聞いたことない僕だぞ!? お前が同じクラスなんだろ? 先導してくれよ!」

「俺には無理だ」

「なんで!?」

「なぜなら俺の対女子免疫力はお前と同等だし、ほとんどエロゲーでしか女の子と交流したことはない!」

 威張っていうんじゃねえこの豚! 眼の前で丸い腹を突き出すようにしてふんぞり返っている隼人の腹を無言で引っ叩き、もう一度赤月さんの方に目を向ける。

「なっ!?」

 前方にはちょうど靴を履き替えて帰ろうとしていた赤月さんに、男子生徒が数人声をかけていた。茶髪でピアスも空けていて、部活には入らないけどバイトをしているタイプだ。休日には渋谷とかそういうところへでかけていっているオシャレでモテる奴ら。

「お、イケメン軍団来てるなぁ、さっそく転校生に唾つけとこうってやつか」

「唾ッ!? つ、唾をってことはつまり!?」

「馬鹿落ち着け、ただの言い回しだろ。お、でもあれは」

 もう一度振り返る。赤月さんはイケメン達に無表情で軽く手を上げて避けていった。イケメンは唖然とした表情で彼女の背中を目で追うと、肩をすくませて離れていった。

「おー、断られてやんの、いい気味」

「あ、あんな……」

「ん?」

「あんなイケメンですら断られてるのに、僕はどうすれば……」

「面倒臭いなお前は。ほれ、とにかく行くぞ。靴取ってこい」

「え、だ、だって」

「追いかけるんだよ! エロゲだってフラグ立てないことにはしょうがねえだろうが!」

「いちいちエロゲに例えるのをやめなさい! わかったよ畜生!」

 僕と隼人は別れて自分のロッカーから靴を取り、急いで赤月さんの後を追った。さして距離があるわけではない。彼女の後ろにはすぐに追いつく。とはいえ、話しかけられるわけではない。学校から通学路、通学路から公園、公園から河川敷の通りを、一定の距離を保ちながら、少しずつ少しずつ、尾行していく僕らがいる。

「なぁ、俺らってやばい感じに見えてないか?」

 河川敷の人の少ない通りで、陸橋の陰に身を隠した隼人が、小さく呟く。

「……どう見てもストーカーだよな」

 僕はその下でぼそりと返事をした。何しろ場所が悪い。公園や通学路ならともかく、この河川敷は橋を渡る広い道路が上に設置されていて、日中いつでも薄暗い。いろいろと悪い噂も絶えない場所だ。そんな中で一人の女子を男子が二人がかりで尾行。怪しくない点が少しも見当たらない。

「だから勘違いされる前に声ぐらいかけてこいって! お前はヒーロー物好きな癖にこういう時に意気地がねえなあ」

 ヒソヒソと囁くようにぼやいてくる隼人に、僕も声のトーンは抑えながら反論する。

「無理っつったら無理なんだよ!」

「何が無理だ、もじもじしてんな行け!」

「だからお前が先にだなぁ」

「俺にできるのはここまでだ。後はお前の問題だろ」

「それはそうだが、そういう言い方はないだろ!?」

「あ、おい!」

「だいたいなぁ、お前がちょっと後押ししてくれてれば僕だってなぁ!」

「なぁ、おいって」

「ああくそ、僕ってやつは確かに意気地がないけどそんな言い方しなくったって」

「おい馬鹿、あっち見ろあっち!」

 隼人に両頬を掴まされ、前へと無理矢理首を動かされる。急に動いたものだから首が痛い。後で殴ってやると頭の中で思いつつ、首を擦って眼の前を見れば僕は息を呑んだ。

「うわ……」

 赤月さんが囲まれていた。昼間、僕をからかっていた奴らが二人いる。

 先にこっちに回り込んでいたのだろうか。何かを話しているようだが、ここからでは聞き取れない。どうなってしまうのかと見守っていると。

「あ……!」

 僕は慌てて口を抑える。赤月さんの後ろ、一つ手前の陸橋の陰から、残りの一人がやってきていた。手にはその辺にあった余った建材なのか、鉄パイプが握られている。あれで後ろから襲う気なのか? 隼人はどうしているのか。少し上を見るも、彼も目を丸くしている。恐怖心からか、顎の肉がぷるぷると揺れていた。なんでこういう時に動けないんだ、僕もだけど。

 後ろの男が足音を潜めて近づいていく。鉄パイプを振りかぶった。

 このままじゃまずい。今だ、行くんだ、行け。行けよ、天馬。震えてる場合か? お前を助けてくれた人が危ない目に会おうとしているんだぞ?

 行けよ、行け! 行け、頼む。

 行ってくれ、飛び出してくれ!

 行け!

 鈍く重い、音がする。

 赤月さんがコンクリートに膝を付き、その場で倒れる。僕と隼人は咄嗟に身を隠し、恐る恐る奥を覗く。三人が赤月さんを抱えて、河川敷の下の方へと走っていった。

「連れてかれちまった……」

 隼人が呟いた。ああ、そうだよ、わかってる。

「な、なあ、どうする? こういうの、警察に通報したほうがいいよな?」

「隼人……」

「なぁ、おい、天馬」

「隼人……!」

 僕は絞り出すように言いながら、隼人を壁に押し当てた。僕は隼人の顔を見れないでいる。もう友達の顔どころか周りの景色すらまともに見えていない。全てが歪んで滲んでいた。

「僕は……僕は、あいつらに、昼間、いじめられていたんだ……」

 コンクリートに落ちていく涙と同じように、唇から情けなく、ぽろぽろと声が漏れていく。

「赤月さんが、助けてくれた……なのに、なのに僕は、今、何もできなかった……僕は、お礼をいうどころか、今……あの人を見捨てて……」

 情けない。自分で自分が情けなくて仕方ない。昼間はありがとうって、言えば言いだけだったじゃないか。なのに、今、足が震えて仕方ない。

 自分の歪んだ足を眺めていると、強く後ろへ押される。震えた足では立っていることもままならず、そのまま僕は尻もちをついた。歪んだ視界で、オレンジ色と、丸い薄ピンクが見える。それは赤い何かを近づけると、僕の目を軽く拭った。涙が拭かれ、隼人の顔が見える。引き締まった表情の彼は、僕の肩を両側から軽く叩いて握った。

「しっかりしろよ! 天馬!」

「でも」

「でもも何もねーよ。俺らはなんでアメコミ好きなんだ? 弱い人を、虐げられている人を、助ける姿が好きだからだろ? かっこいいってだけの理由じゃねえだろ!? そーゆー、正しいことを信じている俺らがいるだろ!? 俺、警察行ってくる! お前はアイツらの事を写真に撮っておけ」

「か、カメラなんて」

「スマホがあるだろ、それでいいんだ! いいか、お前は喧嘩弱いかも知んないけど、シャッター押してロックして、スマホをどっかに投げればいい。見つかってもロックコード解除してる間には、俺が警察連れて戻ってくる! 殴られっかもしれないけど、それは耐えろ!」

「隼人……」

「いいな、行くんだ! 頑張れ、天馬!」

 隼人はほとんど押し付けるようにして僕の目元を拭った布を手渡した。ハンカチだ。雑誌の付録で、隼人が好きだったヒーローの柄がたまたま出て、気まぐれに渡したハンカチだった。こんな時まで持ってきているのかよ。ドスドスと音がする方に目を向けると、脂肪を揺らして走っていく隼人の背中があった。

 僕はハンカチを眺めた後、握りしめて溢れた涙をごしごし拭った。

「上等だ……」

 まだそう時間は経っていないが、ここから離れた場所へ連れて行かれるかもしれない。僕は隼人から受け取ったハンカチをポケットに突っ込み、スマホを手にあいつらの後を追って河川敷を下っていった。

 河川敷の下の方は、更に薄暗くなっている。ホームレスや落書きを禁止している張り紙や立て看板が目立つが、それを意に介さないとばかりに、上からスプレーの落書きがされている。川まではまだ少し高さがある。放置されて草木が生い茂っているこの場所は人がほとんど来ないらしい。上を通る陸橋は六車線ほどあったはずだから、それほど距離はないはずだが、赤月さんとあいつらの姿は見当たらなかった。

「どこに行った……?」

 よく注意をこらすと、草の中で一部折れているものがある。近づいて見ると、踏まれたような跡があり、それを追っていくと、人が二人通れるような空間へと繋がっていた。

「そうか、中洲か」

 この河川敷と陸橋は複数に分かれた川の上に立てられている。川と川とを隔てる中洲に柱を建設するときと、その後の点検のために通路が作られていると聞いたことがある。僕はスマホで隼人に、『橋の下、中洲の方』と短くメッセージを打って、光の届かない、真っ暗な通路へと足を踏み入れていった。ぴちゃり、ぴちゃりと、水滴の落ちる音がする。わずかに入ってくる光から、ところどころ水たまりがあるようだった。奥の方からは、人の話す声が聞こえる。僕は彼らに気付かれないように、水たまりを踏んだり、音を立てないように気を払いながら進んでいった。

 向こう側まで辿り着いた。いかにもというか、品の悪そうな男の声が聞こえてきていた。気づかれないようにそっと顔を覗かせる。中洲の陸橋の手前側、ちょうど河川敷とは反対側にある岸の部分だ。そこは対岸からは遠いし、こちらの岸からはちょうど死角になっている。そこには十数人の、おそらく大学生と思われる男たちがたむろしていた。彼らが持ち寄ったのか、折りたたみのできるソファや机があり、机の上には酒と思われる瓶が置かれており、もうもうと煙草の煙が上がっている。赤月さんは彼らに囲まれるように、ソファに寝かされていた。もう目は覚めているのか、起き上がって俯いていた。手前にいる男でよく見えないが、腕が縛られているらしい。その両隣にはリーダー格らしい男と、向かいには赤月さんを攫った三人がいた。

 大学生らしい男が酒をあおって話す。

「うぁー、しっかしお前らぁ、結構可愛い子連れてきてんじゃぁん」

 向かいの三人はそれぞれ手にビールやらチューハイやら、煙草やらを手にしていた。

「いやぁ、やっぱ先輩には日頃お世話になってますから!」

「そうそう、こないだの合コンにも参加させてもらってるし」

「超可愛い女子大生と遊ばせてもらってますし、ね!」

 ね、じゃねえよ! ていうかお前ら、思いっきり制服でビール飲んで煙草吸って、裏でどんな事してんだ! 口から漏れそうになる言葉を飲み込みつつ、僕は思わず笑いそうになる。意外と冷静を保てている。そんなツッコミをするくらいには。どっちにしたって、これであいつらは未成年飲酒喫煙、目の前の大学生が成人かどうかは知らないが、少なくとも未成年に対して酒や煙草の注意もしないんだからなんかしら警察も動いてくれる。そして何より、赤月さんだ。こんなの、立派な婦女暴行ってやつだ。なんの罪に当たるのかはわからないけど、僕には正当性が十分にある!

「よし……」

 スマホのカメラをそっと差し出して、シャッターボタンをタップする。

 そこで、僕は激しく二つほど後悔する。

 一つ、スマホのカメラは盗撮予防にシャッター音が鳴るということ。

 二つ、そして周囲の明るさに応じて、フラッシュが自動的に焚かれるということ。

 カシャーッと、眩い光と共に、僕のスマホは音を立てた。

「あ」

 そして、あいつらが僕の方を見る。

「あ?」

「て、天馬君!?」

 顔を上げた赤月さんが、僕のことを呼ぶ。え、なんで僕の名前を?

「おい、あれ……お前んとこの制服じゃね?」

「あいつ……俺らんとこのキモオタっすよ」

「昼間この女子に助けられた情けねーやつ」

「つーか今、カメラ、撮ってましたよね」

 ええい、こうなればヤケだ! さっき動かなかった僕とは違う、僕はハンカチの入ったポケットを軽く握ってからその場に飛び出した。

「そうだ、僕はそいつらと同じ学校の生徒だ! お、お前らのやってること、このスマホで撮ってやったぞ! みみみみ、みっ、未成年飲酒と喫煙と、お、女の子をさらっちぇ、さら、さらっ……と、とにかく、これをバラされたくなかったら、赤月さんを」

「はーい、没収ー」

 後ろから声がした。僕の手からスマホが奪い取られる。振り返ると、背が高く、胸元から胸筋を覗かせた男がいた。見張りがいたのか。デカイ、強そう。勝てる要素がない。

「か、返せ!」

 僕はその手からスマホを奪い取ろうとした。数度ジャンプして、ぎりぎり指が触れるだけ。奪い返す事は叶わない。だけど、きっと隙を突いてなんとかできるはずだ、僕にだってきっと……。

「残念でーしたっ!」

「……コハァッ……!」

 がら空きだった僕の鳩尾に拳が突き刺さる。胃の中が圧迫される。吐きそうだし、目玉が飛び出そうだ。遅れて痛みにくの字になると、ふっと体が軽くなる。足が地面とつかないから、宙に浮いてるんだな、そう判断した頃には、

「いッよぃしょぉー♪」

 男の楽しげな蹴りが、僕の脇腹にめり込んでいた。

「グゥっ……!」

 体の右側面だ。肋の下の方。目がぐるぐると回っているような感覚だ。確か、レバーだっけ? 肝臓の位置だ。こんなに苦しいのか。息ができない、吐きそう。

「お前さぁ、何、王子様気取りならもうちょっと強くないとだめでしょー?」

 動けない僕の頭や肩、胸を踏みつけたり、蹴っ飛ばしたり、男の追撃が襲ってくる。痛みで頭がチカチカしてきた。蹴り飛ばされて頭と砂利がぶつかる音で、周りの音がよく聞こえない。涙も出てきた。痛い。

「天馬君! あんたら――ちょっと――!」

「ほぉ――いつの――いいこと――ねーの?」

「てめぇには――――なぁ?」

 よくわからない、何を言ってるのか。ただ聞こえるのは、赤月さんと、男達が話していて、男たちの方の声が大きく聞こえていた。ふと、蹴り飛ばされるのが終わる。顔が全体的に熱い。顔だけじゃない、蹴られたところが全部だ。右側の耳が粒の多きい砂利や石にあたっている。上から踏み潰されると、更にその痛みが増し、僕は目を固く瞑った。

「おい、キモ雑魚王子ぃ、見てみろよ」

 僕を踏んでいる男が声を掛ける腫れぼったい目をうっすら開くと、男たちに囲まれ、赤月さんが立っていた。手のロープはほどかれている。きつく結かれていたのか、ロープの痕が痛々しい。でも、僕は赤月さんの強さを知っている。ほぼ無防備だったとはいえ、男子生徒三人を一瞬の内にノックアウトしたくらいだ。今だってこれからそうするはずだ。

 赤月さんは両手を胸のあたりに上げると、そのまま僕の方をちらりと見た。なんだか、少し寂しそうな笑みを見せて。首元にその白い指が行く。ワイシャツのボタンが、一つ、また一つと外されていき、彼女の谷間と、その下の下着が顕になっていく。

 どういうことだ? 僕は事態を飲み込めないでいると、頭を押さえつけている男が語る。

「あーあー、可哀想に。お前が来ちまうもんだから、あの子俺らとヤるってことになっちまってんぞ?」

 嘘だ、そんなはずない。だって、赤月さん、あんなに強くて。

 赤月さんのシャツが脱ぎ捨てられた。彼女の肢体に、男達が歓声を上げる。そのまま、スカートも。やめろ、お前らが、そういうふうに触れていい体じゃないだろ、そんなふうに見ていい体じゃないだろ!

「へっへへ、しっかしわざわざ助けてやったり、これ以上ボコされてるとこ見たくないからってヤるっつーのは、お前愛されてんなぁ?」

 僕は……僕は……僕はもう……!

「まぁ、俺らとしてはそーゆー子を無理矢理すんの、最ッ高にたまんないんだけどさぁ?」

「う……う……」

「お、泣くの? 泣け泣けバーカ、そのまま泣いてろ、ただし、うるさくしてっとその口ぶっ潰すぞ? 言っとくけど、歯ぁ数本折るだの抜くだのは簡単に」

「うああああああああああああああ!」

 僕は無理矢理に頭を捻って、その辺りで手にした石で、男の足を思い切り打った。対して力は入っていないかもしれない。けれど向う脛に入った。一瞬力が緩む。顔の右側が砂利と石で切れるのも構わず、僕は起き上がり、男に向かっていった。掴んだ石で男の顔を叩く。情けないほどにダメージが入っていない。男が数回顔を歪めた後、

「調子こくなッラァ!」

 怒号と共に繰り出した膝蹴りに簡単に僕はよろけて倒れた。男が追撃とばかりに蹴り込んでくる。それに必死にしがみつく。

「天馬君!」

「逃げっ、て、赤月さん!」

「こんの、離せ! キモいんだよボゲェ!」

 逆の足で男が踏みつけてくる。石を左手に持ち替え、右手でポケットのハンカチを握りしめながら、必死に足に石を打ち付ける。

「僕はッ、僕はもう、情けなくなんかないんだ! 助けてくれた人に、おれっ、いっ、っぐ……お礼の一つも言えないで、逃げる僕じゃないんだ! ヒーローになれなくったって、僕は、僕は……!」

「おーいおい、何手こずってんの。しょーがねぇ、おいお前、こいつ見張ってろ。俺らもボコしに行くぞ」

「うす」

 他の奴らもこっちに来る。よし、こっちに来る奴らが多ければ、赤月さんの逃げる好きも増える。

「誰が誰をボコしに行くって?」

 男達の動きが止まる。下着姿だった赤月さんが、スカートとシャツを再び身にまとい、ローファーで軽く砂利を鳴らす。

「黙っていればよかったのに、ここまでアタシをキレさせて、ただじゃおかないよ」

「……おい、予定変更だ。オメーら武器持て」

「え、でも」

「いいからやんだよ! こーゆー舐めてる女が一番嫌いなんだ、今までやってきた女もそうだ、追い詰められると喚きやがって。だがオメーらも覚えておけよ、そーゆー糞女をぶちのめしてヤるのは、本当に最高だかんな」

「……」

 周りの奴らも引いている。けれどそれでも逆らえないのか、それぞれ壁に立てかけておいた鉄パイプを握りしめた。赤月さんが両手を胸の前で構え、半身になって呟く。

「クソ野郎が……」

 その言葉を皮切りに、リーダーの男が声を上げた。

「行――!」

「君達、何をしている!」

 ふと、野太い声が走った。入口の方だ。見ると、紺色のベストと同色のスラックス、白いシャツで身を包んだ男が十数人駆けつけてきている。遠くからは、サイレンの音と、車を避ける拡声器の音が聞こえてきていた。

「やべぇ! ポリだ、逃げろ!」

「待てコラァ!」

 逃げていく男達を、警察官が追っていく。ざばざばと水をかき分けてずぶ濡れになりながら逃走劇が繰り広げられる。あの三人組は鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして警察官にすがりついていた。僕はそれを、ただ呆然と、体を少し起こして眺めていた。

「よ、天馬」

 肩を叩かれる。隼人が歯を覗かせて笑っていた。

「よくやったな、俺が行っても警察のオッサン動いてくれなかったんだけど、お前の送ってくれた写真で一発だったよ」

「え、俺、写真なんて送れて……」

 確かに、スマホは撮った瞬間に後ろの男に奪われたはずだった。しかし、隼人が見せてくれた画面には、確かに僕が撮ったらしき写真が映っている。ふと、思い出す。そう言えば、見張り男から取り返そうとして、何度か画面に触れた時があった。幸いにも、それが送信のところに触れていたのかもしれない。

「は、はは……ラッキー……」

「いやぁ、何よりも天……」

 何かを言おうとした隼人だったが、口を閉じてニヤリと笑った後、何かを叫びながら警察官に混じって逃走劇へと加わっていった。何なんだと眉を潜めていると、後ろから声がする。

「天馬君」

 赤月さんだ。振り向くまでもなく、彼女の方から僕の向いてる方にやってきてくれた。僕の手を取り、肩を支えながら起こしてくれる。

「ごめん、ごめんね……私のために」

「い、いいんだよ、別に……僕はただ、今日の」

「私が、お礼をするつもりだったのに、また助けられたね」

「…………へ?」

 彼女の物言いに、ポカンと頭がショートする。赤月さんはそっと警察官に目配せすると、僕の手を両手で優しく握った。ふんわりしていて、温かい。脈拍が上がっているのがわかる。青タンでもできたのか、目の上がズキズキした。

「天馬君が、変わっていなくてよかった」

「あ、あか……」

「ありがとう、それじゃあね」

 僕が言葉を返すよりも早く、赤月さんはその場を走り去っていってしまった。後ろの方では、男達と、警察官と、隼人の叫び声が聞こえている。彼女は何を言っていたのだろうか。僕はただ、あの手の感触を思い出していると、また脈が上がり、ドッと鼻から血が流れ落ちた。きっと、鼻を蹴られたせいだ。鼻を、蹴られたから。


 昼間の時間が長くなってきた。去年の、というより今年の二月か三月頃は、もう少し太陽が傾いていた気がする。五月も終わりを迎えに来た頃、二時四十数分頃はまだまだこれから日が昇るとばかりに、部屋の中が暑くなっていた。

「ったく、まだ五月だってのに夏みたいだな。おーし、授業ココまで。このままホームルーム入んぞ~」

 担任の先生が授業を勝手に終わらせて次へと進んだ。不思議なものだ。外で車が走る音も、風がそよいでいるのも、先生の連絡事項も、隣のクラスメートが落書きにいそしんでいる音すらまともに聞こえて意味もわかっているのに、全てが他人事のようだった。妙に冴えた意識の中で、カメラのシャッターが切られるように、頭のどこかで昨日のシーンが思い浮かぶ。河川敷の下、大学生の不良グループが警官に追い回されている中、僕の手を握った赤月さんの表情、少し吊り上がった目と、長いまつ毛に、柔らかそうな唇が、今でも鮮明に思い出される。そして台詞が思い起こされる。

「――変わっていなくてよかった」

「あ、え!?」

 思わず声を漏らしてしまう。クラス中の視線がこっちに向いた。先生もこっちを向いていた。

「どうした、大角。来週の芸術鑑賞、演劇から変わっていなくてよかったって話だったが……どうかしたか?」

「い、いえ、何でもありません」

「喧嘩すんのも、教室でぼーっとすんのも、中学生までにしとけよぉー」

 先生のジョークに、クラス中から静かに笑い声が漏れる。頬が赤くなって、また目蓋の上がずきりと傷んだ。照れ隠しに小さく謝って机に視線を戻し、後はクラスの空気と化す。

 結局、あの大学生達は捕まった。名前までは憶えていないけど、成人はしていたはずだからきっと新聞にも名前が出るんだろう。警察に保護された僕は、一応被害者っていうことになるらしく、いろいろと事情を聞かれた。一緒にいたあの三人はよく知らない。今日は学校で見ていないけれど、学校では見ていないからきっと先生がそれぞれ対応でも考えているんだろう。だが、それよりも僕が気になるのはやはりその後のこと。赤月さんが言っていた、「変わっていなくてよかった」という言葉だ。

「はい、んじゃぁホームルーム終わり。また明日なー」

 先生が連絡を終えた頃には授業終了の本鈴が鳴った。部活へバイトへ遊びへと、足を急ぐ生徒達に混ざって僕も帰り支度を整える。

 恥ずかしながら、僕には全く心当たりがない。彼女とこれまで出会ったことはない。後にも先にも、あんな子と知り合ったのはあの階段の踊り場が初めてのはずだった。けれど彼女の口ぶりは僕を知っている。いや、勘違い、という方が正しいのかもしれない。天馬という名前、僕には名前負けだと思うけど、そうある名前じゃない。どこかで彼女が昔に会った、天馬君と勘違いしているんじゃないだろうか。だとしたらかなり気まずい。僕と、彼女の昔馴染みと違うとわかった時、赤月さんはどう思うんだろうか。昔のまま彼女を助けに来てくれた幼馴染から、全く面識はないけれどなんだかやってきて一方的にぼこぼこにされた男になるわけだから、落差というかなんというか。意味不明な同じ学校の人間にしかならない気がする。

「おーい、天馬ぁー」

 横から声をかけられる。机の横には、隼人が立っていた。少しぼーっとしていただけのつもりだったが、いつの間にか考え込んでいたらしい。教室には誰も残っていない。隼人が覗き込んで僕の眉間を触ってくる。

「んな、なんだよ」

「大丈夫かぁ? すんげー、シワ寄ってる。昨日のでどっか頭打ってるとかないよな?」

「平気だって、考え事だよ」

「赤月さんのことか?」

「……そーだよ、悪いか?」

「いや、悪くない。そーそー、その赤月さんだけどな」

「は、話したのか!?」

「がっつくなよ。ちょっと待てって」

 思わず掴みかかるようにして、というより実際に隼人の胸倉を掴んでいた。どうにもダメだ、やっぱり冷静さを欠いている。僕は隼人の肩に手を当てて「悪い」と漏らして椅子に腰を戻した。

「そんなお前にイイものを持ってきた」

 隣の机に鞄を置くと、隼人はその中から何かを漁り始める。教科書なんかが出てきたのは最初だけで、後はお菓子やらゲーム機やら漫画やらが出てきている。学校に何しに来てるんだこいつは。振り返った隼人はさながら、お気に入りのおもちゃを取り出した子供のようだった。彼は何か折りたたまれた赤い紙を手にしている。他の物に押しつぶされたのかしわくちゃで、それを自分の腹で伸ばしてから見せてくる。

「じゃーん」

「なんだよこれ、パンフレット? AKATSUKIキックボクシングジム……アカツキ!?」

 パンフレットの左上の文字にデザインされた、ローマ字表記の文字に目を奪われ、慌てて三つ折りの冊子を広げて目を通す。

「駅からはちょっと遠いんだけどな」

「こ、ここに赤月さんが通ってるのか!? ていうか赤月って、もしかして」

 隼人はにやりと笑って、僕の手からパンフレットを取ると、机の上に置いてあるページを指さした。コーチの紹介という項目だ。浅黒い肌で引き締まった体のおじさんが立っている。名前は彼方望(35)。年齢より見た目が若い。

「コーチかぁ。雇われなのかな、名前が赤月じゃない」

「違う馬鹿、オッサンもいいけど!」

「え?」

「オッサンもいいけどこっち! 後ろ!」

 隼人の指が示す場所に目を凝らす。ほとんど指で隠れてはいるが、誰かがサンドバッグの前に立っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハイキック・スラスター 馬頭 @ba-to

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る