戻らない時間-3
「勇太」
「…母さん」
こんなに優しい声色で母に名前を呼ばれたのはどんなに久しぶりだろうか。
離れた場所から僕を呼ぶ母は夕闇に溶けてしまいそうなほど儚く見えた。
玄関で会った時は少し痩せた程度にしか感じなかったのに、それは母の虚勢だった。
どうして僕は今まで気づかなかったんだ。本当に馬鹿な息子だ。
「なんて情けない顔しているの。あなたはアルフィード学園の生徒なのでしょう?しっかりなさい」
口調はいつもの母なのに語気に力がない。
それだけ僕は酷い顔をしているんだろう。
「母さん、あの…僕…」
謝らなければ。
気づいてあげられなくてごめんなさい。
心配ばかりかけさせてごめんなさい。
それから最大級の感謝を伝えなければ。ありがとうって。
心ではそう思うのに、いざ母親を前にすると言葉が何一つ出てこなかった。
申し訳なさで母を直視できない。僕の涙が地面をぽつぽつと濡らしていく。
泣きたいのは母さんだ。それなのに僕が泣いてどうする。
するとそっと抱き締められ、子供を慰めるように頭を撫でられる。
母の身体はこんなにも細かっただろうか。撫でる手も華奢だ。
あんなに力強く高圧的に見えた母なのに、今目の前に居る人は一人の優しい女性だ。
いつの間にか僕と母の身長の差は縮まり、自分の体格だって母さんを包めるくらいある。
ここまでの変化が生まれていながら何でずっと母を恐れていたんだ。
言葉にならない感情の代わりか涙が止まらない。
「まったく…仕方のない子ね。他人の気持ちに寄り添ってあげられるのは勇太の良い所だけど、感情移入しすぎるのも問題ね」
勘の良い母だ。僕が父から話を聞かせれたことを即座に見抜いたんだ。
「勇太にだけは絶対話すなって言ったのに…優しいあなたは知ってしまったら家に戻ってきてしまう。それなら嫌われているくらいがちょうどいい、そう思ったのに」
「…ごめんなさい…僕…母さんのこと何も気づかないで…」
「いいのよ。私のほうこそごめんなさい。こんなことならもっとあなたに優しく接してあげるべきだったわね」
もっと正面から母と対話をすればよかった。
そうすればこんなすれ違いも生まれずに、もっと早くに母の容態に気づいてあげられたかもしれない。
母の余命を宣告されてようやく向き合うなんて遅い話だ。
それでもこの夏季休暇の間は出来る限り母の傍に居ようと決心した。
だけど、神様は僕にチャンスを与えてはくれなかった。
苦しく辛い夏季休暇は今晩が始まりだった。
海辺から家に帰ると姉さん達はご馳走をこしらえていた。
何のお祝い事かと驚くと、久々の家族勢揃いの喜びと僕の体育祭での活躍を労って盛大にやるんだとかで、我が家にしては珍しく食べきれない量の料理が並んだ。
毎日の食事を母さんが作ってくれていた頃には決して目にしない、テーブルから溢れそうな品数に母さんは「食べきれない量を作ってどうするの、勿体無い」と姉さん達を叱っていた。
母さんが普段からいかに無駄が無いよう計算して作ってくれていたかが分かる。
それでも食事が始まれば、母さんはよく笑っていた。
本当の母さんはこんなにも笑うのかと嬉しい反面、それだけ苦労を掛けていたのかと申し訳なくなった。
体育祭の中継を家族揃って観ていたんだと言われた上に見違えたと褒められてしまい、今までにないむず痒いような感覚になってしまう。僕は褒められ慣れていないのだ。
姉さん達はこっそり現地まで応援に行こうかとも考えたらしいが、母の体調を気遣って断念した話にはそうしてくれてよかったなど心で思ってしまった。
きっと現地での僕を見たら褒められてはいなかっただろう。
結局締めくくりには、もっと堂々としろと叱咤されたので身が引き締まった。これでこそ僕の知る両親だ。
楽しい食事の時間もあっという間に過ぎてしまい、就寝時間の早い両親はもう寝てしまった。
美波姉さんが居間で酔い潰れているせいで姉さん二人が片づけをしてくれる。
僕も手伝うと申し出たのだけど、今日くらいゆっくりしろと追い出された。
両親の次にお風呂に入り、上がれば片づけが済んだ家はすっかり静まり返っていた。
つい四ヵ月前までは使っていた二階の自分の部屋はやけに懐かしかった。
外の空気を入れようと窓を開け放つとさすがは田舎。
夜9時も過ぎれば村は静かで出歩いている者など誰も居ない。
店なんてどこも閉まっているから当たり前かもしれないけど。
シーツールの住人は誰もがもう寝静まったのだろう。
窓から眺める村の景色を随分昔に見ていたものに感じる。
村に戻って来た時も思ったが、学園での生活が濃すぎて四ヶ月の出来事が年単位に思える。
難しい授業や真新しい機械の数々。個性的な同級生や先輩達。
今までに体感したことないような事件まであった。
全てが刺激的で新鮮で。付いて行くのに必死で毎日が駆け足みたいに過ぎていく。
目まぐるしく進む日々に置いていかれないように、仲間達という頼もしくも強い流れに揉まれながら、大変だけど充実した時間を送れていた。
こうしてのんびりとしていることが落ち着かないくらいだ。
村で家族と過ごす時間は穏やかな気持ちになれるけど、僕の夢は学園での慌ただしさの先にある。
また明日からも頑張ろう、そう思えた。
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