戻らない時間-2
父の大きな背中を身体一つ分離れた距離で追いかけて行く。道中に会話はない。
傍から見たら怖いおじさんに脅されて付いて来ている軟弱な男に僕は見えるかもしれない。
父が何を考えているかなんて分からない。
怖い顔をしている父はいつでも怒っているように見える。
不愛想で感情表現の乏しい人だけど、父なりに色々考えているんだということはアルフィード学園に進学をすると決めた頃から少し理解した。
それでも表情から考えが窺えないのはやっぱり緊張する。
辺りはすっかり橙に染まり、遠くに見える地平線に太陽が沈み始めているのが見えた。
とうとう防波堤まで辿り着くと父はようやく歩みを止めた。
海の向こうを見つめる父に倣って僕もそちらを眺める。
「…母さんがお前の進学を反対した理由を知っているか?」
ようやく口を開いた父は僕の傷を抉り返したいのだろうか。
不向きだから家に戻って来いとでも言われるのか。
たった一言で嫌な想像が頭を張り巡る。
「僕が大して頭も良くないし、運動もできないからでしょ?」
厳しい母親のお陰で勉強は随分義務付けられていたし、昔から学校においての成績は常に上位だった。
しかしそれは隣町での話だ。国全体で見れば半分よりは少しいい位のレベルだ。
要領の悪い僕は勉強に必死で運動は全く駄目だった。
そんな僕が軍人養成学校への進学。
それも飛行士になりたいなんて言い始めたら反対されるのはもっともな話だ。
母の小言にうんざりすることはあっても、憎んだり怒ったりしたことはない。
それが当然だし、厳しい母なりの心配の仕方なのだと思っていたから。
すっかり母に恐縮してしまう癖がついてしまったのは僕の悪い所で、何を言われても言葉を返せなかったし、苦し紛れに態度で反抗もした。
それでも結局母は進学を許してくれたし、応援もしてくれた。
有難く思っているのに面と向かって感謝を出来たことはない。
ところが父からの返答は思いもよらないものだった。
「それは違う。お前の身体が弱かったからだ」
「僕の?」
「ああ。お前は早産で産まれた時から生死を彷徨い、危うい状況がしばらく続いたんだ。それでも医師やお前自身の頑張りで一命は取り留めた。しかし身体が弱くて3歳までずっと病院通いが続いたんだ。母さんは三人の子育てと店で疲れが溜まっていたんだ…勇太を丈夫に産んでやれなかったことをずっと悔やんでいる。……俺がもっと早くに香澄の体調不良に気づいてやれればよかったんだがな」
初耳だった。僕は自分の身体が弱いなんて自覚したことはない。
たしかに大柄な父と平均よりも身長の高い母の間に生まれたにしては僕は小柄で、姉さん達と比べても誰よりも身長が低い。
それでも運動は人並みにしていたし、大きな病気も掛かっていない。
運動が上手く行かないのは単純に自分の運動能力がないからだと思っていた。
けれど一度だけ、母が酷く怒った時がある。
幼い頃に美波姉さんと凛子姉さんに連れられて沖まで泳ぎ、僕だけが戻って来られなかったことがあった。
姉さん達は沖まで一人で泳げるのだから当然海岸までも自力で戻れるだろうと思い、誰が早く戻れるかの競争を始め、僕は置いて行かれてしまった挙句、体力が尽きて溺れたのだ。
運良く船で通り掛かった同村の人に助けられたが、僕は命に関わるくらい危なかったらしい。
もう泳いでいた時の記憶は曖昧だが、冷静な母さんが取り乱し、涙を流しながら姉さん二人を怒鳴りつけていたことは鮮明に覚えている。
『勇太はあなた達と違うの!もうこんな危険な遊びは絶対にしないでちょうだい!』
溺れたのは自分が悪いのに姉さん達を責めないで欲しいと思い、僕は母の腕を掴んで、怒るなら自分を怒れと初めて抗議した。
母はそんな僕を何故か怒鳴らずに強く抱きしめてきた。
あの時は深く気にもしていなかったがようやく理解できた。
今思えば母のその言葉が全て物語っていたのか。
遠出を制限されていたのも、周囲より僕は劣っているから無理をするなと言い聞かされたのも、母なりに僕が無茶をして身体を壊さないように気遣っていたからなのだろう。
「お前を産んだ時に身体を壊した母さんは元のような健康状態を維持できにくくなった。今までは横になってゆっくり休めばある程度回復していたんだがな。ここ最近は入退院を繰り返している。ずっと子供達に厳しく接しているのは、心配をかけさせない為に自分を強く見せようとしていたんだろう。特に勇太に厳しくしたのはお前が強く生きて行けるようにしたかったからだ。身体が弱くても周りに引けをとらないよう、勉強に執着したのもそれが原因だ。不器用な奴でな、それでも母さんはずっと勇太を心配していたよ。アルフィードに進学してからも、いつお前が倒れたりしないか、周りについていけなくて辛い思いをしているんじゃないかと。そんなことばかり口にしていた」
昔から母さんが通院していることを知らなかった訳じゃない。
去年あたりから通院の間隔が狭くなった印象もあった。
でもそれは村の診療所に整体をしに行っていると教えられていたし、何より僕の前で母は苦しんでいる姿を見せたことなど一度としてない。
佳香姉さんは最初から母さんのことを分かっていたんだ。
だから高校にも通わずお店や家事を手伝っていたし、僕らの面倒を進んで見てくれていた。
美波姉さんも中学を卒業したらすぐに働き始め、家を離れずに村に残っている。
結婚して家を離れた凛子姉さんが働き続けているのは家に仕送りをする為だ。
タイミングは違えど姉さん達は母さんの容態を知り、家を支えていた。
それはきっと母さんの医療費や心配だけじゃない。僕の学費のせいだ。
アルフィード学園は最新の技術を学べる代わりに学費は決して安くない。
奨学生に僕がなれればある程度学費が浮くのに、悔しいが僕は奨学生として認められる実力はない。
――― 知らないのは僕だけだったんだ。違う、自分に精一杯で気づけなかったんだ。
何で気がつかなかったんだ。
こんな田舎の和菓子屋の収入なんてたかが知れてるじゃないか。
進学を許してもらえたことに浮かれて家計状態など気にも留めなかった。
仮に母さんが元気だろうが、僕の進学は相当な負担な筈だ。
それなのに何も気づかずにのうのうと夢なんか追いかけて。
僕は馬鹿みたいじゃないか。
「…どうして話してくれなかったんだよ」
「お前はもう家の誰よりも賢い、理由なんてわかるだろ」
「何だよそれ…みんな優しすぎるよ…一人くらい僕を責めてよ…」
母さんの容態を正確に理解していたなら僕は進学を諦めた。
その選択をすることを家族皆が予想していたからこそ誰も教えてくれなかった。
僕はそこまで優しくされる価値があるだろうか。
夢が叶う保障なんてないし、僕みたいな不器用な奴は叶う可能性すら低い。
僕が凡人であることを誰よりも家族である皆が知ってるじゃないか。
それでも自分達の時間や自由を犠牲にしてまで僕を信じて応援してくれるっていうのか。
「学園を辞めるなんて言い始めるなよ。俺達は誰もそんなことを望んじゃいない」
「…どうして…」
今からでも退学すれば学費は浮くし、僕も職に就いて働けば給料が入る。
何より母の傍に居てあげられる。
これまで散々出来なかった親孝行をしてあげられるではないか。
「家族だからに決まってるだろ」
父さんの力強く温かい言葉に涙が零れそうになるのを必死に堪えた。
夕焼けがこんなにも目に染みたのなんて初めてだ。
僕は自分で思っている以上に家族に支えられてここまで来たんだ。
家族がこんな僕の夢を応援してくれるならば、僕が今為すべきことは夢を叶える為に一生懸命勉強することだ。
「……母さんはあとどのくらい生きられるの?」
怖くて知るのを躊躇いたくなった。
それでも僕は知らなくてはならない。
僕の夢は、一人だけの夢ではないと知ったから。
「早くて三か月。長くても一年だそうだ」
今まで隠し通してきた嘘を告白してきたんだ。
それは嘘が隠しきれない時が来てしまったからなのだろう。
覚悟はしていたもののあまりの短さに絶句した。
長くても一年…僕はまだ学生を卒業すらできない。
できるならば母さんに飛行士になった姿を見てもらいたい。
それが僕に出来る最大の恩返しだと思ったのに。どうしてなんだ。
母は人にも厳しいが自分にも厳しい人だ。
どんなことも真面目で丁寧に素早くこなしていく。
弱味なんてないとすら思っていたし、弱っているなど夢にも思わなかった。
これが母の容態に気づくことのできなかった僕に対する罰なのだろうか。
自分の愚かさに腹が立った。
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