Case.3

お釣りは要らないよ事件

1

 四軒寺の街は、昼間よりも朝夕のほうが素敵だと思っている。

 昼下がりの四軒寺はとても賑やかだ。でも、少し物足りないとすれば、そこにいる人たちのほとんどは、他所から買い物に訪れているということだ。地元の人たちの活気を感じられるのは、開店準備に忙しい朝か、四軒寺に住む人々を迎え入れる夕方の時間帯なのだ。

 ビルに隠れて狭苦しい濃紺の空。色気のない乳白色の街灯。通りの左右の飲食店からの笑い声。少し安っぽいのかもしれないけれど、これも案外懐かしい趣がある。

「今年も山菜ありがとね、兄さん」

『いいえ。毎年の楽しみだから』

 遠く離れた地の兄と話しつつ、自転車を押して歩く。図らずも、お気に入りの景色をじっくりと楽しむことができる。

「たまにはこっちから贈れるものがあればいいんだけどね……おっと」

 通話に気を取られて背後から追い越そうとする自動車に気づくのが遅れた。自転車ごと体を傾けて、迫ってきたサイドミラーを躱す。四軒寺のど真ん中のこの道は、地元のドライバーが幹線道路へのバイパスとして用いるので、道幅の割には車がよく通る。

『要らないよ、わざわざ。東京そっちのものなんてだいたい知ってるから』

「でも、わたしたちはもらってばかりだもん」

『俺に言わせれば、お裾分けまでひとくくりなんだよ』

 兄さんが頬に泥をつけ、首にタオルを巻いた姿を想像する。それで野山に分け入ってぜんまいやふきを狩ったり、山ほど採れた山菜を干したり、近所で分け合ったり――うまく思い描けないけれど、ちょっとおもしろいかも。

 田舎が肌に合っているようで何よりだ。

『何だよ、変なこと言ったか?』

「何でもないよ……あ、ごめん。切らなきゃいけないから、またね」

 急いで通話を終えて携帯電話を籠に置いた鞄に突っ込む。

 先ほどわたしの横を通り過ぎた車が数メートル先で停まっていた。左ハンドルの運転席から顔をのぞかせ、ドライバーがわたしに向けて手を振る。わたしはその外国車と、その持ち主を知っている。

 知らんぷりをするわけにもいかず、駆け寄った。

「ええと、征吾さん……で、お名前間違っていませんか?」

「おや、奴から名前を聞いていたか」

 そういえばこのあいだはお互い名乗っていなかったな、と彼は茶目っ気のある笑顔を浮かべた。赤石さん、ひいては赤石家との奇妙で面倒な縁はすでに清算済みと思っていたのに、わたしは征吾さんに名乗らざるをえなかった。

 それにしても車を停めてまでわたしに声をかける用立てとは何か? まさか名前を訊くためではあるまい。

 などと思っていると、赤石の血なのだろう、ひとりで話しだした。

「ついさっき奴の家を訪ねたのだがね、居留守を決めこまれたよ。もちろん今度は事前の連絡をせずに行った。まさか、その程度の手を使ってでもわたしに会いたくないとはね」

 わたしに愚痴を漏らすためだったらしい。

「奴の探偵業を私は評価しないが、自分のできる仕事をしている意味では高く買っていた。頭が切れることは認めざるを得ないしな。ところがいまはどうだ、無職に加えて、探偵のころから遥かに劣る、私から逃げるだけの、くだらない悪知恵をはたらかせてばかり」

 堕ちたものだ、彼は肩を竦める。

 深く重い嘆息が嘲りを含んだ苦笑とともにこぼれる。清潔で若々しい彼が年を重ねて見える瞬間だ。

「それで、だ」彼はさらにぐぐっと身を乗りだした。大きな両の肩が運転席の窓を越えてこちらに迫る。「通りがかりに君を見つけて思い出したよ。過去の仕事の知り合いを除けば、現在奴とまともに話せる人間を、私は君しか知らないんだ」

 確かに、彼の自宅の様子からは、コミュニケーションが億劫な彼の傾向が見て取れた。

 ただ、征吾さんの言い回しには、わたしが赤石さんととても親しいようなニュアンスが含まれている気がする。それではいくら何でも評価が高すぎる。わたしは彼の多くを知っているわけではなく、まだ数度顔を合わせたことがあるだけ。

 だから相槌は適当に、「はあ……」

 戸惑うわたしにも、征吾さんは気後れしない。

「頼みごとを聞いてはくれないか? そう、アルバイト感覚で構わない」

「アルバイト?」

 彼は大きく頷く仕草をしてみせた。

「弟は私と会う気がない。でも、君のことはどうやら気に入っているらしい――肉親とも世間とも疎遠の奴とそれなりに交流を持っているということは、そういうことだ。そこで、私が弟の面倒を見きれない代わりに、君が弟と会う機会を持つことで、それで以て奴にまっとうな生活を選択させてほしい。

 要するに、知人として自然な範囲で構わないから、奴が野垂れ死にしていないかときどき様子を見て、必要に応じて手助けをしてやってほしい。そしてそれを時々私に報告してくれればいい。その度に私から礼をさせてもらおう。当然のことだが、君さえ抵抗がなければの話だ。無理にとは言わない」

 すると、取り出した紙切れに何やら走り書きして渡してきた。

 筆記体で記された、メールアドレスだ。

「そんな!」わたしは声を大にしていた。「できません! だって、わたし、当分会っていませんよ? ましてこの先いつ会うかわかりません。それで近況報告となると……正直、難しいかと」

 彼の弟への想いに応えたい気持ちも確かにある。赤石さんには恩があるから、彼の生活がまっとうになるならそれも嬉しい。

 でも、それは気持ちまでの問題だ。

 険悪な兄弟仲を繋ぎとめる使命など、わたしには責任が重すぎる。

 だって、ここで征吾さんと出会っていなければ、わたしは赤石家の事情を垣間見ただけで終わっていたはずだったのだから。征吾さんと再会するまで、わたしと兄弟は赤の他人に戻っていたのだから。

 貧乏な元探偵の弟と、社会で成功を収めた華やかな兄――どうしてその間に、わたしのようなごくありふれた女子大学生が割って入ることができようか。最初から余分なアクターであって、わたしを含めた展開はありえないし、望まれていない。

 余計な人間が余計なことをちょっと知ってしまったので、余計な同情や共感を寄せていただけ。たとえ向こうから頼まれたのだとしても、出しゃばりすぎだ。

 そういうわけで、丁重に、神妙に断ったつもりだ。

 しかし征吾さんはからからと笑った。

「言ったようにこれはただの頼みごとだ。報告するようなことがなければわざわざ私に連絡しないで、捨て置いても構わない。まあ、そのアドレスは気が変わったときのために持っておけばいい。別のことで、いつか役に立つ場面があるかもわからない」

 アドレスを返そうとしたわたしの手を押し返すと、征吾さんは窓を閉めた。

 遠く離れていくテールランプと、達筆な英字の文字列とを交互に呆然と眺めながら、わたしはまた求められてもいないことを考えはじめていた。

 わたしに頼まなければ近況を知ることもできないほど、兄弟仲が冷え切ってしまったのはなぜか? どうして兄の心配を――自分の生活が楽ではないにもかかわらず――拒絶し続けているのか? 反目し敵対しているのか、それとも気持ちがすれ違っているだけなのか?

 知らないことが多すぎる。

 知るべくもないことが多すぎる。



「はい、生姜焼きふたつ。ラーメン、魚もすぐ!」

 テレビから流れるニュースは夏日を伝えている。それに違わず店内はサラリーマンたちの熱気も相俟った蒸し暑さがあり、時折客の出入りとともに流れ込む風だけは辛うじて春のそれと感じられる。狭い通路で身を翻すステップを踏むと汗が噴き出す。ホールでこれほどだ、いわんや厨房をや。

 暑さは苦手だ。特に蒸し暑いのは大嫌いだ。目の前のことを考えるのも面倒になり、頭が回らなくなる。いや、より実態に近くいうならば、集中力が続かなくなって、余計なことをぼんやりと考えてしまう。

 たとえば赤石さんのこととか。

 あの兄弟の仲を取り持つ義理はない、そう思っているにもかかわらず、頭の中からふたりを捨て去ってしまうことができない。余所者であるわたしが関係修復に役立てないことはわかっているけれど、一方では、余所者だからこそ踏み込むべきではない、彼らの不仲の理由を知りたいと思っている。

 困窮しているくせに援助を拒む赤石さんが矛盾しているならば、わたしもいま、自家撞着に陥っているというべきだろう。関わってはいけないし、関われる立場ではない。でも、そういう立場でないとわからないことを知りたいと思ってしまっている。

 会いに行ってみようか。

 とはいえ理由がない。

「おい、遙! 次、次!」

 厨房の攸子からの鋭い声で、はっと我に返った。

「ごめん、すぐに!」

 この日の「きよたけ」は、店長が商店会の外せない用事で出かけていて主力を欠いている。大半の店が営業時間内であろう平日の昼間に会合とはよほどのイレギュラーに違いない、商店会もいろいろと忙しいのだろう。大きくはないがそれなりの地位を占める大衆食堂は、店主不在につき臨時休業することも検討されたが、攸子も厨房に入れるし、わたしも働けるということから、通常営業と判断を下していた。

 それにしても欠員は痛かった。不可能ではないにせよ、きつい。わたしもここでアルバイトを始めてから一年が経つが、ランチタイムのホールをひとりで捌くのは骨が折れる。攸子だって、厨房に慣れているわけではない。言葉尻など、きょうの攸子の言行には苛立ちが見え隠れする。

「頼むよ、集中して」

 彼女はそういう喋り方をするのだ、そうわかっていても胸にちくりとくるものがある。一年も働いていれば叱られることもあったけれど、きょうはいつもより堪える。わたしが悪いことが明らかであるだけに、一層。

「ごめん……」

「ああ、いいから! ほら、お勘定」

 レジでは二組の客を待たせてしまっていた。来客のピークは越そうかという時間帯だが、それだけに会計での混雑が始まっている。

 サラリーマンの二人組が支払いを済ませると、次に待っていたのは厚化粧の中年女性。ふくよかな体格で、黒地に花柄がけばけばしい洋服を身にまとい、アクセサリが手指や胸元に輝くいでたちは、四軒寺で何度か目にしたことがある。彼女を見かけるたびに、小さいころ家にあったクリスマス飾りの人形を思い出す。幼いわたしの目には西洋風の服装や無機質な表情が異質で、気味悪く映っていたものだ。

 確か名前は門倉かどくらさんといったか。物理的にもそうでない意味でも顔の広い人で、中学校のPTA会長やら云々の役員やらを務め、いわば街の重鎮といえる。そういった会合に出かけることの多い彼女は、ときどき「きよたけ」で食事をして帰る。そういえば、攸子の弟と仲が良いという話も聞いたことがある。

 店にいるときの彼女は、いつもひとり。店長夫婦とは仕事の邪魔にならない程度に世間話を交わすこともあるが、わたしに対してはむっつりとしている。店での様子を見るだけで、彼女が街でどのように見られているのかが何となく想像できる。

 きょうは店が忙しいことを察したのか、注文のときを除けば黙って過ごしていた。そして、わたしに伝票を差し出すときも、できれば言葉を発することなくやり過ごそうという無言の意図が感じられた。

 門倉さんは当店一番人気の唐揚げ定食六五〇円がお気に入りらしく、よく注文している。いや、きょうは違った。焼肉定食か。

「七五〇円です」

 すると、福沢諭吉が顔を見せた。

 勘弁してほしい。いまレジには列ができてしまいそうなのに、一〇〇〇円足らずの清算に高額紙幣だなんて。

 きゅうせん……にひゃく、ごじゅうえん。

「お札からお渡ししますね」

「あ、いいの。お釣りは要らないわ」

 は?

 いま何て言った?

 まだ頭がぼうっとしているのかもしれない。

「ええと、お釣りは……」

「要らないの」

 要らないの?

 嘘でしょう?

 こんなのドラマでしか見たことがない。恰好つけるような場面ではない、何せ千円足らずのランチに万札を叩きつけるなんて、滑稽話か何かではあるまいに。冗談でやっているとしたらあまりにもくだらない。

 冗談のセンスか、金銭感覚がおかしいとしか思えない。

 特に後者は、お金持ちの門倉さんだからそういうこともなきにしもあらず。

 はっきりと言っておいたほうがいいだろう。

「ええと、困ります」

「レジに入れておけばいいから」

 いやいや。レジに入れたら困ると言っているのだ。

「採算が合わなくなってしまいますので……」

 お金を渡そうとしても、彼女はもう財布をポーチに仕舞っている。このままでは店を出てしまう。どうにか引き留めなくてはならない。

 ああ、でも厨房は忙しそうだし、あまり時間をかけるとレジに列ができてしまう。

「大丈夫、店長に言えばわかるから。混乱させちゃってごめんなさいね。店長のいないときだから」

 わたしの手を押し返して、ついに彼女は踵を返した。良いことをしたと自慢する子どものような、屈託のない笑顔で。

 ええと、こういうのを押しに弱いっていうのかな?

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