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全身をリラックスさせるような、深く豊かに香るコーヒー。安物しか知らないわたしにはその芳香があまりにも高尚で少しきつくも感じられたけれど、苦みに刺々しさはなく、ほのかな酸味が爽やかで、心も体も温まる幸せな味わいを楽しめる。
はあ、おいしい。
「おいしいでしょ? ほんのカップ一杯でも高い効用を得られるコーヒーだけは、良いものを選ぶことにしているんだ」
「はい、おいしいです……あ、それで本題ですけどね」
航大くんが「きよたけ」に押しかけてきてからまた数日、わたしは赤石さんの家を訪ねていた。偽札が存在していなかったことを証明してくれたことへ、感謝を伝えるために。
「旧札がないか確かめてみろ、とは驚きました。一応、見つかったんですよ」
「へえ、本当にあったんだ。あれは可能性の話で、別にそうなる必然性はまったくなかったんだけれどね。まあ、少なくともその航大くんは納得してくれたわけだ」
あのとき、店の外に出て赤石さんに電話をかけた。航大くんの悩みを晴らすために必要な論証は悪魔的であったけれど、お金の探偵であれば、少なくとも納得できる説明を提供してくれるものと期待してのことだ。
ついでに、赤石さんのお兄さん――確か征吾さんといったか――から受け取った一万円を、これを口実に依頼料とでもこじつけて渡してしまう算段だ。これなら赤石さんも断れまい。解決を赤石さんに託すというのは、航大くんとわたしのふたつの悩みを同時に解決する、一石二鳥の妙案だったのだ!
赤石さんの推理は、偽札が「きよたけ」になかったという事実を踏まえて、航大くんが偽札を持っていた、もしくは使ったと心配しだす理由、原因となる決定的な何かを探り出すところから始まった。「ないものをあるとする」「ないものを確かにないとする」証明が極めて困難であるから、赤石さんは視点を変えた。
客観的に推理することは難しい。ならば、航大くんの主観の側から騒動を理解してみてはどうか、と。
「赤石さんの推理は結局、航大くんを納得させるためのものだったんですよね。健一くんから『怒られたわけではなかった』と連絡があってはじめて、裏付けが与えられたんですから」
「まあね。現物を探しに行けるならそうしてもよかったんだけど、贋札があるとすれば状況が不合理なのは明らかだった。だから、それを示せば時間が解決すると思ったんだ」
赤石さんは、航大くんの疑念を無用の心配と切って落とした。
というのも、小さな状況の積み重ねしか根拠がなかったから。
たとえば、両替機の警報が鳴る場合というのは、何も偽札に限ったことではない。機械を叩いたり、偽造紙幣でなくとも異物を入れたりすれば、機械は異常を訴えて当然だから。本体の不具合ということも充分に考えられる。
生徒指導部の呼び出しだって、その理由が「健一くんが偽札を使ったことを問い詰める」ことに限られていたわけではない。実際、健一くんはバッティングセンターの店主から謝られただけだったというのだから。何でも、機械が故障していたのに気づかず、イタズラと決めつけて怒鳴ってしまったのだという。店主はわざわざ学校に連絡して、当事者に頭を下げに来た――航大くんが呼び出されなかったのはただの偶然で、前日に遊びに来た生徒を絞り込めなかっただけなのだとか。
何より赤石さんが奇妙に感じたのは、健一くんがもし紛い物のお札を持っていたとして、その行動が不可解だということだ。ふたりの目の前には、両替機がある。その機械を通せば、たちどころに真贋鑑定されてしまう。それに、面と向かって両替してしまうと、航大くんが偽札と気づいたり、不正に利用したことが発覚したりした場合、明らかに健一くん自身が不利だ。第一、バッティングセンターに行ったからといって、両替が必要になるかなんて事前に知ることはできない。
これほどリスキーな要因があるのに、航大くんに偽札をけしかけるだろうか? 健一くんがtopSALEで偽札を購入していようがいまいが、今回の件にそれが登場することはなかったのだ。
赤石さん曰く、「偽札で儲けようとする主な方法は、釣り銭なんだ。一銭の価値もない札から現金を生み出す――犯罪に向かってこう言うのもアレだが――最も合理的な錬金術だね。その場面は『きよたけ』にあったはずで、店内に怪しい札がないのなら、今回のエピソードに最初からそのアイテムがなかったとみたほうがいい」とのこと。
それから赤石さんは、そのうちに健一くんから真相が伝えられるだろうと踏んで、航大くんを納得するためのもっともらしい可能性を提案した。
それが「旧札を使ったのではないか」というものだった。
「それで、古いお札があるとどうしてわかったんですか? それだけはまだ教えてもらっていませんよ?」
「いやいや、可能性までの話だってば。実際にあったとすれば偶然であって、僕が言い当てたのではないよ。……航大くんは『きっと見逃している』と言ったんだったよね? そこからちょっと見る角度を変えて、こじつけてみたんだ」
赤石さんは苦笑いして、二杯目のコーヒーを淹れながら続けた。
「そもそも、贋札にはふたつのパターンがある。機械を騙すものと、人の目を騙すもの。前者は見た目よりも、磁気を似せることに力点が置かれる。そして後者はその逆、見た目の精巧さが偽札としての売りだ。航大くんの発言は当然、後者を前提にしたものだよね――機械を騙すものは、赤みがかっていたり、青みがかっていたり、ひと目で変なものだとわかるから」
「じゃあ、航大くんは見た目が紛らわしいお札に心当たりがあったと?」
「そういうこと。違和感はあるけれど、明らかに異なるものではない。ついうっかり使ってしまいそうな程度」
お金の探偵はソファに戻って足を組んだ。
「そういうものがあるとすれば、旧札だと思ったんだ。千円札は現在のE券――野口英世が描かれたやつ――が二〇〇四年から発行開始、二〇〇七年にその前のD券――こっちは夏目漱石――が発行停止されている。遙や航大は切り替えられたころはまだ小学校の低学年かそれ以下だからね。でも、店主夫妻はキミたちほどには違和感を覚えないかもしれない」
わたしが赤石さんと電話で話しているあいだ、店内では航大くんの意見に従って再度売り上げを調べていた。そのとき、一度目には店主夫妻が気づかなかった、夏目漱石が印刷されている千円札を攸子が発見したのだ。
その古い千円札は、現在のものと大きさはまったく同じ、色合いも似ていた。もしそれが財布に入っていたら、違和感はあるかもしれないが、特段気にしていなければそのまま使ってしまうこともありそうだ。一部の機械は通さないかもしれないけれど、普通のお金には違いない。
そういえば、子どものころに遊んだおもちゃのお金は夏目漱石だったかも。
「とにかく、何事もなくて良かったです」
そうだね、と赤石さんは目を閉じてコーヒーを味わっている。
彼の機嫌は良好。そろそろわたしの懸案も解消しなければならない。
「あの、プロの赤石さんに今回もタダというわけにはいきませんので……気持ちだけでも」
征吾さんからの一万円を入れた封筒を、テーブルの上に滑らせる。
赤石さんは片目を開けて一瞥すると、カップを置いた。
「征吾からのカネだな? 僕は何も請求していないのに自らカネを差し出すなんて、渡すこと自体が目的だとバレバレだ。この程度の嘘を吐くものではないよ」
怒らせてしまったわけではないようだが、呆れられてしまった。
「でも、わたしが持っていたら泥棒みたいじゃないですか。使わなければいいんですから、受け取るだけ受け取ってくださいよ」
「…………」
封筒を拾い上げた。
「泥棒みたいって、別に征吾は現金を持ち歩かないんだから、捨ててしまえばいいのに。どれ、今度は一体いくらの小切手を――」
と、中身を覗き込んだところで言葉を切り、眉を顰める。
そしてお札を抜き取ると、お札の裏表をいとおしげに見つめる。
「なるほど――気が変わった。もらっておくよ」
「え?」
赤石さんはにやにやと口角を吊りあげている。急に態度を変えて、どういうことなのか? まさか、一万円がそれほど魅力的な金額だったのとか? だとしたらよほどの生活水準だ。
彼はいやらしく一万円札をひらひらと振って見せる。
「ま、わかっただろう? 札なんて所詮、ペラペラの紙切れだ。こいつにいくらの価値があると信じなければね。これは本当におかしな話でさ、偽札があってはじめて、札がモノであることを思い出せるようになるんだ」
今学期の教科書代は、辛うじて一万円以内に収まった。
重くて厚い教科書と交換に、一万円紙幣をレジで差し出す。
赤石さんが言っていたことは未だによく理解できていない。信じるも何も、一万円は一万円だ。この教科書には約一万円の価値があり、わたしはそれを一万円で支払おうとしているだけ。誰が紙切れと本を交換するだろう?
「あ、失敗した」
わたしに続いて支払いをしていた攸子が苦々しい声を上げる。
「どうしたの?」
「きのう洗剤立て替えてたのを忘れてた。足りなくなっちゃった」
どうやら財布の残金を勘違いして、千円ほどの不足が生じてしまったらしい。
「貸そうか?」
「いや、いいんだ。持ってるから」
そう言うと攸子はおもむろに、鞄の中から電子辞書を取り出した。そんなもので何をするのかと思えば、ケースから五千円札を取り出して支払いを済ませてしまった。
「保険に持ってるんだよね、こういうときのために。転ばぬ先の杖っていうのかな、持っているだけで安心するだろ?」
はっとした。
確かにわたしたちは、お金を信じている。
お札はお金だ。
本はお金ではない。
偽札もお金ではない。
でも、どれもモノとして紙であることに違いはない。
わたしたちは、ただの紙切れを持ち歩いて安心しているの?
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