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「遙、お疲れ」
数時間の労働を終え、エプロンを外しながら攸子がわたしに声をかけた。
短髪が似合う彼女の爽やかな「お疲れ」のひとことで以てその日のお仕事はあがり、というのが大衆食堂「きよたけ」でのアルバイトの定番である。この日は午後に授業がないので、お昼の営業時間の最後まで働かせてもらった。店は夜の営業に向けていったん店仕舞いである。
「きょうは考え事でもしてたのか? なんか、時々上の空だったみたいだけど」
「あ、バレてた?」
実のところ、オーダーを取っているときも、注文の料理を届けているときも、きのうの一万円札のことで頭がいっぱいだった。
「何を考えていたんだ?」
まさかお金のことだなんて言えない。赤石さんのことだなんて言えない。
「まあ……ちょっとね」
「なんだよ、気になるじゃないか」
適当に誤魔化せる言い訳を考えていると、ちょうど攸子が店長から暖簾を下すよう頼まれ、わたしへの追及を止めて店の外に出ていった。
それにしても、と店のテーブルを拭きながら考える。あれほど強い姿勢で以てお金を受け取ることに拒否感を示している彼に、どうやってお金を渡せばいいだろう? 現金を軒先に置いていくわけにはいかないから、会って渡したいところ。でも、どう言って渡したって断られるに違いない。
……もらっちゃう?
いやいや、それだけはダメだ。
「あれ? 攸子はどこに行ったの?」
ふと、レジでお金の整理をしていた店長の奥さん――要するに攸子のお母さん――が店の外の異変に気が付く。そういえば、攸子は外に出たきり姿が見えない。暖簾もそのままだ。
見てきます、と断って扉を開くと、すぐそこで店の看板娘が学ラン姿の男の子と向かい合っていた。
「あ、遙! 遙も聞いてよ、なんだかよくわからないんだ」
彼女はわたしを男の子と向き合わせた。彼は攸子にわかってもらえなかったのが悔しかったのか、必死に訴えかけてきた。
「きのう、ここで偽札を使ったかもしれないから、調べてほしいんです!」
困ったな、なんだかよくわからない。
謎の自白をした少年の着る制服は、文政大学附属高校のものだった。
つまり、わたしや攸子の後輩にあたる高校生ということだ。
文政の高校と大学は隣接しているから、その学ランは毎日のように目にする。しかし、キャンパスではなく日常過ごす景色の中でそれを見ると、なぜか「子ども」という印象が抱かれる。自分だって数年前まで同じ高校のセーラー服を着ていたというのに、どうしてか彼の顔立ちから幼さを見出してしまう。
制服を着崩しているところはなく、見た目には真面目そうだ。しっかりした体格というほどでもないから、文化部所属だろうか。整髪料を使ったと思しき髪形は、年相応の背伸びしたい気持ちの表れとみえる。
後輩男子がなかなか引き下がらないので、とりあえず店に入れて座らせた。ひとり高校生が出入り口を背に座り、向かってわたしと攸子、店長夫妻という四人の大人が厨房を背に立っている恰好。尋問でもしているみたいだ。
「だから、とりあえずこの店のお金に偽札がないか調べてみてくれればいいんです」
彼は努めて丁寧な言葉を選びながら、一方で早口になるのを堪えられず、自分の罪を裏付けてほしいと訴えている。
店長夫妻は「イタズラかな?」とひそひそ話。わたしも正直、どれくらい真剣に取り合うべきなのか測りかねている。偽札とは随分突飛だが、それが事実なら大事だ。しかし、それだけの大事だからこそ、嘘っぽい。ましてこの男子高校生は、罪を自白しようというのだからおかしな話である。
膠着状態を破ったのは店の看板娘。攸子が一歩前に出た。
「あたしたちは文政高校の卒業生なんだ。後輩に免じて、イタズラではないと信じるよ。とりあえず、話を聞こうじゃないか。順を追って説明してくれ」
攸子は妙にかっこいいときがある。
彼女のことだから言葉選びはやや不器用だけれど、高校生に譲歩した良心的な提案である。大人は高校生をイタズラするものだと思っているし、高校生は大人が自分の話を信じないと思っている。お互いを理解するところからだ。
しかし、少年は唇を尖らせ、言葉も尖らせる。
「まずは偽札があるかないか、調べてからです。調べてくれたら話します。店に偽札があったら大変ですよね? 調べるのを急いだほうが店としてもいいと思いますけど」
攸子は深くため息をつく。でも、器の小さい彼女ではない。
「偽札って、いくら?」
「千円札」
「わかった、千円札に変なのがないか調べればいいんだな。売り上げを他所の人に見せるわけにはいかないから、お前からは見えないところでやるぞ。いいな?」
男子生徒は首を縦に振った。とにかく調べてほしい、と。
店長夫妻が娘に頼まれて、きのうの売上金を調べはじめる。
後輩だからかわいく見えているだけかもしれないけれど、やはり彼は、なかなか真面目な性格なのではないか? 彼の主張は、自分の話よりも、店に偽札がないかを心配しているともいえる。それにこの時間というと、高校生は授業が終わったばかりだ。放課後すぐに店へ、しかも閉店を見計らって来たと思われる。
攸子がちょっとぶっきらぼうな言葉遣いをしているのと、彼自身の照れ隠しとでツンツンしているだけで、本当は素直でいい子なのかもしれない。
「名前、教えてくれる? あとで話しやすいように」
「……
「わたしは青山遙。わたしも文政の卒業生なんだ」
へえ、と気の抜けた返事をして、彼は目を逸らした。
もう少し話そうとしたが、調べたぞ、と言って攸子が戻ってきた。
「偽札なんてなかった。お前はもう安心して大丈夫だぞ」
わたしはほっと息をついたが、航大くんはそうではなかった。
「いや、もっとちゃんと調べてくださいよ。近頃の偽札は本当に精巧に作られるらしいので。きっと見逃しているんです」
「あのなぁ、うちは商売やってんだから偽物があったらすぐにわかるぞ」
杞憂だと思うな、と店長も首を傾げる。
そう、店長夫妻が検めて偽札が見つからなかったのなら、これ以上は不要な心配であろう。航大くんは偽札を使ったかもしれないと自分を疑っているのだから、その証拠が見つからないのであれば何も不安に思うことはない。
「航大くん、いい加減説明してくれない?」
このままではキリがない。自分から先に説明したがらない理由も含めて、航大くん自身の言葉で伝えてもらう必要がある。
男子高校生はなおも躊躇う様子を見せたが、やがて言葉を選びながら話しはじめた。
「実は、これはおれだけの問題じゃなくて、友達の健一のことでもあるんです。しかも、偽札なんて犯罪でしょ? だから、話さずに済むのが一番だったんですけど……」
偽札はなかったんだから、ここだけの話だ、と攸子が宥める。
それで幾分話しやすくなったか、航大くんはきのうの出来事を順番に語りだした。
「きのう、高校が十時ごろ終わって――ほら、まだ始業式から何日も経ってないし――健一と一緒にバッティングセンターに寄り道したんです。ほら、商店街の先の古いビルにある、あそこ。普通に遊んでいたんですけど、おれの小銭が足りなくなって両替機を使おうとしたんです。でも、その両替機は千円札か五百円玉しか使えなくて。そのとき、ちょうど小遣いでもらった五千円札しか財布になかったから、困っちゃって」
お小遣いが五千円! 高校生のころのわたしよりたくさんもらっている!
「それで健一に両替を頼んだんです。あいつ、遊び好きっていうか、小金持ちだから。よくアプリに課金したり、ゲームをネットで安く買い漁ったりする奴なんですよ」
それはともかく、と続ける。
「五千円を崩してもらって、千円札を五枚もらいました。で以て、そのうち一枚を使おうとしたんですけど、両替機がなぜかそれを吐き出すんです。何度か試したら、突然警報が鳴りはじめて! 店の親父がイタズラと思って怒鳴ってきたから、ふたりで慌てて逃げ出しました。すんごい剣幕で、ビビっちゃって」
なんとも高校生らしいエピソードである。
まだ贋札が登場していないが、両替してもらった千円札のうちの一枚だろうか? 機械が受け付けず、警報を鳴らしたそれが。
とりあえず、話し終えるのを待った。
「バッティングセンターで遊ぶのは諦めて、腹が減ってたんでこの店で食べたんです。唐揚げ定食、確か六五〇円でしたよね――四軒寺の店にしては安いから、たまに来てますよ。で、その日は帰ったわけです。
ここからがきょうの話。ついさっき終礼後、健一が呼び出されたんです――生徒指導部に。でも、健一は決して真面目ではないにしても、先生に怒られるようなことをする奴ではなくて、心当たりと言えばバッティングセンターのことくらいなんですよ。たぶん、あの親父が学校に連絡して、生徒指導部が確認できたのが健一だけだったんでしょうね。たまたまおれは呼ばれなかった。
おれも行こうかと言ったら、あいつは別に大丈夫って言うから帰ることにしたんですけど……歩きながら心配になってきて。もしかして、警報が鳴ったのはおれが偽物の札を健一から受け取って使おうとしてたからじゃないかって」
なるほど、これで航大くんの一貫した主張につながるわけだ。
「その偽物をこの店で使ってないか、心配になったのね?」
「はい、おれの財布に偽物はなかったので。その、友達に悪いですけど、健一は偽札を手に入れてもおかしくないと思ってて。やっぱり遊び好きっていうのもありますけど、ほら、最近やばいって噂のtopSALEも使ってるんですよ。あのサイトなら偽札も出回っているらしいじゃないですか。あいつ遊びすぎで時々お金が足りなくなって同級生と貸し借りするような奴だから、軽い気持ちで買っちゃったのかもって」
topSALE――またこの名前! 最近良い意味でも悪い意味でも話題のフリマサイトだ。
そのサイトの利用者で、ややお金にだらしないところのある健一くんは、ふとした出来心で贋札を購入。そして、航大くんが両替を頼んできたときに、偽物と一緒にお金を交換した。航大くんはその偽札を使ってしまったがために両替機を鳴らしてしまい、そのときはそれが偽物と思わなかったものだから、「きよたけ」での支払いに用いてしまった――これが航大くんの描いている最悪のシナリオだ。
「でも、うちでおかしな札は見つからなかったんだ。お前の心配は、その時点で万事解決じゃないのか?」
攸子の発言が航大くんを俯かせる。そう、彼女の言う通りであって、偽札が見つからないのであれば、健一くんに疑わしいところがあるという最初の疑念が根拠を失うのだ。結果として何も起こっていないことだけは明らかだ。
「でも、偽札がないってはっきりわからないと心配で……」
航大くんの気持ちも理解できる。友達が先生に呼び出され、無実の罪を咎められているとしたら大変だ。まして偽造紙幣絡みとあらば、場合によっては退学ものだ。一方で友達の奔放な為人を思うと、火のないところに煙は立たないとも思えてくる。
彼の言動――放課後すぐ店を訪れる、自分の話よりも偽札の有無を気にする――は、友への想いから導かれたものだったのだ。
何をすべきかはわかった。航大くんの気分を晴らすには、要するに、贋札がそもそも存在しないか、健一くんが間違いなく偽札を用いていたか、どちらかを証明することになる。白か黒かはっきりすれば、彼は満足してくれるはずだ。
とはいえ、ないものをないと証明するのは容易ではない。店に偽札がない以上、航大くんの疑念を杞憂だとはっきり示すことが一番の近道だというのに。
どうやってそれを明らかにすることができるだろう?
証拠がなくても、理屈で以て確認できればいいのに。
……いや、できるかも。
できる人がいるかも。
「あ、ごめんなさい。ちょっと電話がかかってきて」
我ながら下手な嘘を吐き、携帯電話を両手で持って店の外に出た。
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