第23話「たった一人の大切な君へ」

ひたひた……と、どこかで水が滴るような音が聞こえる。


気付けばれむは湿り気を帯びた冷たい床にうつ伏せに横たわっていた。


「う……ううん…頭、痛ぁ……。ここどこなんだろう」


ゆっくりと上体を起こす。

鈍く頭の芯が痛みを訴える。

辺りを見渡すと、そこは何もない真っ白な空間が広がっていて、見た事もない場所だった。ここまで何もないとここが外なのか建物の中なのかもわからない。

風も感じられないし、匂いも感じられない。

しかし何故かどこか懐かしい感じがした。

痛む頭を何とか堪えて立ち上がってみた。


一緒にいたはずの理宇の姿もない。

ただ真っ白で果てのない空間がどこまでも広がっていた。


歩き出すと少し肌寒さを感じた。

今まで熱帯の地にいたせいだろうか、余計に寒さを感じた。


腕の辺りを摩りながら、れむは行く当てもなく歩き出す。

すると辺りは次第に色を取り戻し、真っ白だった空間に色彩が灯った。

それはやがて一つの景色を形作った。


「あれは……あたしがずっと前に住んでいたお家?まだパパもママもいた…あのお家」


気が付くとれむはあ赤い屋根の家の前に立っていた。

何もかもが懐かしい。

先ほど感じた懐かしい感じはここだったのだろうか。


当時、向かいの家の犬がよく吠えていて、その前を通るたびに小さなれむはいつも怯えて泣き出しそうになつた事……。


隣に住んでいたピアノが上手なれむより三つ年上のお姉さん。


全てが昔の記憶のままだった。

一つだけ違うのは、そこに人の気配が一つもない事。

街は無人だった。

閑散とした街。

まるで街全体が呼吸を止めたようだった。



…………「これね、ママが買ってくれたの。可愛いでしょ?」



そこに突然懐かしい記憶が目の前で再生される。

思わずれむは顔を蒼白にして立ち尽くした。


「う……そ。あれは…あたし?」


気付く先ほどまで目の前にあった自分の家は消えて、代わりに大きな屋敷が現れた。

れむには覚えがあった。

高い高い塀の向こうにある大きな日本家屋のお屋敷の更に向こう。

あの頃、その離れにあたる小屋に幼いれむはよく遊びに行っていた。


初めて出来た年上の「お友達」に会うために。


れむは逸る気持ちで声のした方へ駆け寄った。

ずっと通い続けた離れまでのあの道順。

どれ程時間が過ぎようとも決して忘れる事はない。


やがてれむは「そこ」に辿り着いた。


そこにはやはりあの日のれむがいた。

誇らしげにアニメキャラクターのプリントされたTシャツを「彼」に見せている。


「本当だ。可愛いね。レムちゃんにとてもよく似合っているよ」


幾重にも張られた札と金網、そして鉄格子。

そこに添えられた白くて細い手首、儚い指先。

そこから思い出すたびに胸を締め付けられるように懐かしい声が聞こえた。


(お兄ちゃん…………)


大好きだった。

大切な、大事な秘密のお友達。

本当に大好きだった「お兄ちゃん」が大きくなったれむの前にいる。


「ホント?お兄ちゃん、レム、お兄ちゃんとお外で一緒に遊びたいよ。お兄ちゃんに見せたいものいっぱいあるんだよ?」


無邪気な笑顔でれむは両手を使って「いっぱい」を表現している。

とても微笑ましい光景だ。


だけどその瞬間、悲し気な表情で彼は押し黙る。


「どうしたの?お兄ちゃん」


「ごめんね。レムちゃん。僕はここから出る事は出来ないんだ」


「どうして?ねぇ、ここよりお外の方が気持ちがいいよ」


大きなお屋敷の奥、小さな離れの鉄格子の向こうには花のように美しい少年が、ただ一人捕らわれている。

まるで蜘蛛に捕食された可憐な蝶のように。


その細い手首には不似合いな鉄枷が嵌っている。

白い額にかかる柔らかそうな栗色の髪。

甘やかな飴色の瞳。

仄かに桜色に染められた頬と唇。


彼はれむにとって絵本の世界から飛び出した「王子様」だった。


「ねぇ、レムがここからお兄ちゃんを出してあげるよ」


れむの曇りを知らない大きな瞳が彼を惑わす。

しかし彼はすぐに力なく首を振る。


「それは出来ないんだ。ごめんね。でも僕はレムちゃんの外のお話を聞くだけで楽しいんだよ」


彼の唇が僅かに開かれ、微かな笑みを形作る。

それはとても儚い笑みだった。






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