第8話 無意識

「空手バカには正直対処法は無いと思ってくれ。そのための対処法が携帯電話とGPSなんだ。これは、かじった程度で帯持ちをなんとかできる訳がない、というよりは油断せずに来られるとなにが来るか予想が出来ないんだ。おじさんは、攻撃方や型を熟知してるから対処は出来る、けど教えたからすぐ出来るなんて簡単な事じゃない。今までの稽古とは少し世界が違うんだ」

 いつの間にか天井を見上げていた。違う、左頬が焼けるように熱く痛い、口のなかに広がる鉄の味、舌に触れる小さく固い異物。殴られ倒れた。そう、理解し立ち上がる。

 口の中の異物が折れた奥歯だと理解するのに時間は掛からなかった。立ち上がる、というよりはなんとか膝を手に体を持ち上げる。

 ふらつく体を押さえながらなんとか前を見る。空手バカが、既に目の前にいる。腰を落として、蹴りが来るのがなんとか見える。ローキック、見えても動けず、左脚に重く固い打音と激痛が腰まで走る。

 体を支える片足が潰されまたも床に倒れる。まだ、頭がふらつき、視界は揺れ、動けない。

「とにかく、動けなくなったら転がれ」

 脳内におじさんの声が再生される。体に鞭を打ち左へと転がる。その瞬間、頭のあった辺りに蹴りが通りすぎる。

 机に当たるまで転がり、机にすがるように、起き上がる。振り返ると空手バカが無言のまま眉間にシワを寄せ憤怒の表情で、歩いてくる、動かなければ。そう思うも左脚は、痛み以外の感覚を失うほど痺れ、足をついているのに、力が入らず支え無しでは立つことすら出来ない。

 空手バカの前蹴りをなんとか左前回りで避ける。反動で起き上がり、そのまま今度は右前回り、壁際まで繰り返し壁に寄りかかりながら起き上がる。

 距離は3歩分以上は稼いだ。でも、次の手は無い。耐えるしかない。反撃しようにも、避けようにも左脚が言うことを聞かない。

 空手バカがゆっくりと近づいてくる。その後ろの時計は始まってから12分が経過していることを告げていた。

 僕は正直焦っていた。ガラスが割れたことで職員会議中であっても教師が気づかない訳がない。あれからまだ1分位だろうか、あとどのくらいで教師が来る?

 例え時間を稼ごうとも、左脚が本来の動きに戻るには1時間は必要だろうか。むしろ、目の前に迫りつつある空手バカ相手にあと数分立っていられるだろうか。本当に最後の手段は生きているのだろうか……

 言うことを聞かない左脚の代わりに壁に左肩と、腰を当て腰を落として防御姿勢をなんとか取るのと同時に顔の前に構えていた右腕に鈍い衝撃が走る。壁に当てている左肩の裂傷が再度悲鳴をあげるが、容赦なく左右から叩きつけられる拳と、それに伴う防ぎきれない拳が腹、胸、頬などに新たな痛みを産み思考が遠退く。

 右側頭部へ衝撃が襲い、遠退く意識と共に机が倒れる音を聞いた。


「有段者というのは、その道のプロとも言えなくはない。素人が勝てる道理がない、ように見える。というよりは、事実相手の土俵の上では勝てない」

 おじさんは店で買ってきた弁当を頬張りながら続ける。

「相手の土俵なら勝てない。ならどうする?素人の君が勝つには?答えは土俵から出るんだ。予想をされてない攻撃を仕掛ける、何も物理的に勝たなくて良いんだ。そのための携帯電話とGPSの使い方を学ぶべきなんだ」

「携帯電話なら使いこなしてると思ってますけど……GPSは位置情報サービスですし」

 僕は唐揚げを飲み込み思ったことを口にする。

「うん、だけど本質としてGPSは誰かにここにいると教える物でもあるんだよ。で、携帯電話の特殊性として緊急通報機能がある。GPSを有効にしてるとどうなるか知ってるかい?」

 僕は首を横に振る。なにしろ通報なんてこのかたしたことがない。

「答えは場所を伝えられずとも緊急性が認められれば来てくれる。つまり、やるべきは相手に緊急性があると伝えること。勿論、声に出さずにね」

 僕は梅干しの周りの赤くなったご飯を頬張りながら首を傾げる。

「盛大な音と共に机や椅子を倒す、この時怒声なんかはいってるとなおいい。さらにどさくさに紛れて携帯電話をどこか安全なとこに置くことだね。音が拾えてかつ、GPS信号が受信しやすいとこに。ただ、欠点はある。来てくれるまでに管轄次第だけど時間が掛かること。およそ15~30分位。運が良ければもっと早い、学校とわかれば対処は早くなる傾向はあるよ。過去の事件があるからね」

 ここまで聞いてようやく把握する。

「つまり、警察を使う……と?」

 僕の半信半疑の質問におじさんは首を振る。

「警察だけじゃない。使えるものを使うんだ。全部ね。出血した血を目潰しにしたように、とにかくその場の状況下での予想外を使うんだ」

 

 気づくとゆっくりと床が迫って来ている。違う、僕は倒れようとしているんだ。右腕は動いているかもわからない。予想外の使えるものなんて思い当たらない。

 あと少しで、僕は自由になれたのに。


 床が迫る。


 また、元に戻るのか。嫌だ。


 床が迫る。


 嫌だ‼

 歯を食いしばり右足を床と顔の前に踏みしめる。

 せめて、一撃は。一矢報いるくらいは。一矢?

 気づくと同時に僕は顔を上げ、目の前で右拳を打ち下ろそうとしている空手バカを見上げた。明らかに大振りだ。思うが早いか、息を吸い込み、口の中の血と、砕けた無数の歯を顔目掛けて一気に吹き出した。


 吐いた血が霧状に舞い、唇を叩きながら歯が空手バカの顔を目掛けて飛んでいく。

 既に反撃は無いと油断していたのか、既に降り下ろす直前だったからか、吐いた血と、歯が見事に顔を捉え、空手バカは、降り下ろし目標を外した腕に振り回されるように前へ体勢を崩す。


 膝を曲げ踏みしめていた右足を、渾身の力で一気に伸ばし、泳いでいる空手バカの顎目掛けて全体重をのせて頭突きを見舞う。

 そのまま、空手バカと共に前のめりに倒れた。


 倒れたあとノロノロと緩慢な動きに歯噛みしながらも壁に背中をつけ立ち上がる。

 足元の空手バカは微動だにしない。顎への頭突きで脳震盪を起こしているのか、それとも倒れたときに頭を打ったか。


 いずれにせよ、運が良かった。周りを見渡すと、野次馬の様子がおかしかった。

 慌てたように教室から出て行く者。廊下には多数の走る音。そして、怒声。

 先に来たのは生活指導の体育教師だったが、わずかに遅れて、見慣れない紺の制服を纏った数人と、白ヘルメットに水色の制服の二人組が体育教師を押し退け入ってきた。


 水色制服の一人が僕にかけより何かを言っている。間違いなく日本語なのに、理解が出来ない。まだやるべきことがある。伝えなければ。

「僕の携帯と、後ろの黒板にボイスレコーダーがあるので警察に渡してください」

 そう言えたかどうかはわからないが、僕はそのまま意識を失った。

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