第4話  準備

 とうとう、その日がやってきた。不安、憂鬱、すべてを夏休み前と変わらずに。一つ違うのは、一握りの希望、二週間という修行というよりは鍛錬の日々が、もしかすれば世界を変え得る力をともなっている。そう思い込むより他はない。

 不安を抱えながら、朝一で教室に行き教わった準備をしていく。あの日から言われた通り入れてない充電されたスマホのスイッチを入れる。立ち上がると同時に、SNSからの未読着信が三桁の数字を伴い表示される。投稿されてるコメントなど一切見ずにアプリの通知を閉じる。そして、ポケットに入れておいたおじさんから貰ったICレコーダーのスイッチを入れ、どの程度の距離までなら声を拾えるか、どの程度の大きさの声まで拾えるかを確認し、もっとも効果的だと思われる場所。自身の席から近くそして、出口から遠い場所へと隠して置く。

 HR《ホームルーム》を含めても長くて3時間ほどだ。電池は持つことは昨日自宅で確認済みだ。問題はちゃんと誘導できるか、そして狙い通りに進めれるかが問題だった。スマホの通話アプリにあらかじめあまり電話したくないところを緊急発信できるようセットし、お尻のポケットへ。

 他に出来るのは心を静めて、冷静さを保つこと。教わったのはもう一つある。


「いいかい、人間ってのは生き物の中で唯一未来を考える動物と言われてる。この後こうなるかも知れない。だからこうしようって具合に物事を考え、事象に備えようとする。だけど、それは個人差があって、どの程度の事象を想像するか、想定するかは基準がない。例えるなら、そう、進路だったり、資格の取得だったり、今後の人生設計だったりするんだけど、身に覚えがないかな?」

 僕は先ほどまで行ってた乱取りの為、息が上がり言葉が出ず結果、ヒュウという声にならない呼吸音と頷きだけで目線を送る。

「うん、では人はこうなると嫌だな。ってのを考えるのもわかるよね?その際実際にほんの少し先を読んでるんだけど、得てしてそういう嫌な事程起こりやすい。例えば、この問題当てられたらどうしよう。なんて具合に。この場合は対処のしようとしては、予習復習をして克服するって手が一番だけど、まあこう言う事考える時ってのは授業中だったりするわけだよね。つまり、遅すぎるわけだ。わかるかな?」

 まだ整わない息のまま頷く。つまり、対処に回す時間が無いって言いたいのだろう、と。

「じゃあ、そういった事を防ぐにはどうしようか?ってのがこの稽古なんだよ。君は明らかに息が上がってる、それはそうだ。有段者であり、実戦経験のあるおじさんと乱取りすれば力量差、体格、体力、技術力すべてが負けてる君には勝ち目はない。じゃあ、どうすれば勝てる?勝てなくてもどうすれば逃れれる?答えは戦わず全力で逃げることってのはきっとわかってるよね?ではそれ以外では?」

 僕は肩で息をしながらわからない、そう答えるしか無かった。現にわからないのだ、逃げる以外に方法がないのだから。

「君はいい環境で育ったんだろうね。なにしろ武術の有段者ってだけで基本的には凶器を持った人間相手なんだよ?隙を見つけたら目を潰し、鼻を潰し、もしくは急所を潰すくらいはしないとだよ。正直に言うと優しすぎる、君をいじめてる奴らはもはや人として扱う価値があるのかい?もちろん、その状況でも凶器を持ちだして殺傷しよう、なんて考えは捨てるべきだが。そんなことをすれば君も晴れて奴らの同類になる」

 いきなりの卑怯な戦法に僕は愕然とした。目潰しや急所への攻撃なんてためらいなくやれるわけがない。その痛みを考えるだけで震えるほどだ。

「そんな事したら、逆に僕は殺されるかもしれないじゃないですか」

 ようやく息を整えて反撃されることへの懸念をする。おじさんは頷いて続ける。

「そうだね、それだけなら防がれたり、周りの奴らに君はやられるだろうね。そう、中途半端な攻撃ならしない方がいい。だからやるときは全力で手加減をしないこと、そいつらの今後の人生なんて考えるな。やるなら目潰しをし、ガードが開いた隙に股間を全力で蹴り潰すのさ。どんな人間でも急所は鍛えられない、みぞおち、あごへの横からの衝撃。防ぐことができない場合、最悪は死ぬが、まぁ今回のような正当防衛なら問題はない。じゃあそこまで行くのに必要なことはなんだろうか?」

 僕は首を横に振る。見当もつかないのだ。そもそも暴力とは無縁だったがゆえなのか、道徳心というものなのか考えがまわらない。

「答えは乱取りして気づかないかい?真正面から受ければ君はなすすべなく相手の流れに飲み込まれるんだ。そして君だけが体力を奪われる。だったらそこから逃れる術、回避する術を身に着ける事さ。まぁ、身をもって体験してもらうために乱取りなんてしたんだけどね。まずは、最悪の状況を想定しよう、そして対処方法を教えていくから、ここからはすこし実戦的に稽古していこうと思う。受け身、特に前回り受け身を体に覚えて貰ったのはそこに備えてだからさ」


 ふと、チャイムの音で現実に引き戻される、いつの間にか教室には苗字くらいしかしらないクラスメイトが増えていた。まだ奴らが来るには早い時間だけど、あと数分しないうちにくることだろう。それまでは、最悪の状況のシミュレーションを脳内で繰り広げ、そのときどうするかを明確に脳内で再生していく。もちろん、理想通りに動けないだろうけど、想定していればなんとかなる。そういったおじさんの教えを元に目を閉じ再び、思考の底へ感情ごと沈んだ。

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