第5話 女王の帰還
一夜明け――。
女王は、あの場所に居ました。予想どおり、新たな城の建設に着手していました。
すでに房はひとつ完成しているでしょうか。
やはり仕事が早い。敵ながら、あっぱれです。
あれから、ちょっと調べてみました。敵を倒すには、まず敵を知ること! ですものね。
アシナガバチは、スズメバチ科アシナガバチ亜種。日本で生息を確認されているのは、このうち三属十一種。そして彼女はセグロアシナガバチの女王蜂かと思われます。
人家の軒下や木の枝など開放空間に営巣して、最大で十五センチほどの大きさになるそうです。ひとつの巣に五十匹ほどの働き蜂が生息するようになるとか……。
五十匹の戦うスーパーメイドさんたちがウジャウジャ状態。あ、思考が停止しました。
怖気が――。
それでも、今日も洗濯物を干さねばなりません。
わたしは視線の端に彼女の姿を捉えつつ、平然を装いながら、素早く、静かに黙々と洗濯物を干すのです。こういう非常事態なのですから、洗濯物の量を減らすとか、後日に回すとかしてくれればよいのに、主人も子供たちもお構いなしに洗濯機の中に放り込むですから減ることはありません。わたしは半分泣きたい気分です。
これで刺されて大事になろうものなら、困るのはあなたたちなのに。ええん。
そそっとベランダに出ると、なるべく彼女とは距離を取ることにしました。
一メートル以上間隔があれば、そしてむやみに刺激を与えなければ、アシナガバチは攻撃を仕掛けてこないといいますから。
そうはいっても、わたしにその気が無くたって、
その理不尽は、誰が解消してくれるのでしょう――とか考えながら、一刻も早く安全圏に逃げ込むためにそそくさと手を動かします。
女王は動きません。
ハンガーを取っても、守るようにスリムな身体で巣を隠すのですが、昨日のように飛び回り威嚇するということはありませんでした。かといって、警戒していない訳では無いのでしょう。
ただ、わたしが昨日巣を落とした犯人だとバレていないこと(推測!)と、接近してもすぐさま妨害行動に出る人間ではないと踏んでいる(これも推測!)のでしょうか。
それとなく互いを牽制しながら、緊張の時間は過ぎていきました。
わたしの姿が無くなると、彼女は巣作りを再開した模様です。さすがにずっと観察していることはできませんでしたが、サッシ窓のこちら側から覗くたびに、巣は大きくなっていました。
六角形の育房が三室ほど出来上がったでしょうか。営巣の第一段階です。女王蜂は最初に三部屋作り、産卵するとありました。卵はすぐに幼虫になることでしょう。
その幼虫が羽化するまで、二十日。働き蜂の誕生です。そこからは巣の造営もスピードアップ。忠実で勤労意欲の高い働き蜂と共に、どんどん巣を大きくしていくそうです。
けれども、わたしにはひとつ疑問がありました。女王蜂が越冬から目覚めるのは春先。でも今は六月です。
今から巣を作るのは時期的に少し遅いのでは?
この二か月間、彼女はなにをしていたのでしょう?
種の存続が彼女の両肩に掛っているのです。何もしてこなかったとは思えません。もしかしたら、これまでも何らかの理由で、営巣と失敗を繰り返してきたのかもしれません。
その彼女がようやく見つけたのが我が家の軒下で、今度こそはと闘志を燃やしている――としたら……。
同じ母としてはエールを送りたいのですが、実害がおまけに付いてきそう……いや、このままではニアミスの大惨事が絶対アリだろう(だって頭上三十センチ!)と思うと、口から出かけたエールも引っ込んでしまいます。
余分な感情移入をしては、いけません!
やっぱり、あなたの城は別の場所で建ててくださいませ。ベランダでの共存は、無理無理!
わたしは、もう一度、心を鬼にしなければならないようです。
さて。いかに偉大な女王でも、無から有を作り出すことはできません。営巣には材料も要ります。そのためなのでしょうか、ある時間になると、彼女はどうしても巣から離れねばならない様でした。
働き蜂が要れば彼女が動くこともないのかもしれませんが、今は何事もひとりで熟さねばならない「我慢」の時。
そして今日も、午後になると、女王は巣を離れたのです。
その隙に破壊者はこっそりと巣に忍び寄ります。そして、ごみばさみの一撃で彼女の城を――――!!
四時前に、彼女は戻ってきました。
そこには巣はありません。すでに排除された後です。
もしかしたら嫌なデジャ・ヴに襲われたかもしれません。
どうして!!――と嘆きの涙を流したかもしれません。
それでも軒下を二~三度旋回したのち、彼女は立ち去りました。
ここは安全な場所ではないと、巣を作るべき場所ではないと、悟ってくれたのでしょうか。
わたしは、やれやれと息を吐きました。
可哀想なことをしましたが、より良い共存のためには、別の場所で巣を作るべきなのです。人の目につかない、もっと静かな場所で。
お互いの安全のために。
さようなら、女王様。
これで、襲われるかもの恐怖と闘いながら洗濯物を干すストレスともお別れです。
ベランダの安全を確保したわたしは、少し油断していたかもしれません。
その後帰宅した夫に報告し、殺虫スプレーの散布をお願いしました。わたしは夕食の準備に取り掛かってしまったので、手が離せなかったのです。
これが、失敗でした。
翌日。
よく晴れて洗濯日和。恐怖もなくなったので、ご機嫌で洗濯を片づけ、ばらの手入れをしていました。
するとそこに、黒い影がふわりとやって来たのです。
黒い影は、まっすぐ軒下へ入って行きます。まさかまさかと思い、影を追うと、あの場所に女王がいるではありませんか!
I'll be back!
後で確認したことですが、どうやら夫は別の場所に殺虫スプレーを散布していたようです。これでは意味がありません。
女王は帰って来ました。
かくして、おんな同志の戦いは「ふりだし」に戻ったのです。
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