遠乗り・2


 翌日、レサはいつもにまして早起きした。

 養護院の子どもたちを見回る。一人でも熱を出したりしていたら、レサの休みはふいになってしまう。ドキドキする。大丈夫なようだ。

 いつもは差し入れにするパンを、今日は多めに持つ。中に野菜や玉子、ハムなどを挟む。エーデム王族はハムなどを食べないだろうから、セルディ用に特別にハム抜きの物も用意する。

 学校が休みでも、掃除の仕事は休みがない。レサは、王族の者が朝食を取っている間にすばやく掃除をしてしまう。

 その間に、シリアからの呼び出しがあったら、レサの休みはなくなってしまう。シリアのことは嫌いではないが、今日だけはお願い……呼び出さないで……と切に願う。

 空気の入れ替えのため窓を開け放った時、レサはほっと息をついた。イズーの街並みの向こう、城壁の向こうに森や平原、畑が広がっている。

 レサは、イズーの外へは出たことがないのだ。期待と不安が渦巻く。

 馬にだって乗ったことがない。でも、怖いとは言えなかった。怖いといえば、セルディはレサを連れて行くことに反対するだろう。

 どういうわけか、いつもは優しいセルディが今回だけは少し冷たく感じてしまった。遠乗りの話の間中、彼はついにレサのほうを見ることはなかった。

 あまり望まれていないのだと思うと悲しいが、それでもセルディについて行きたいとレサは思う。

 セルディのことを、もっとよく知りたいし、ずっと見つづけていたかった。セルディの知っている世界に自分も身を置きたいと思った。



 初めてあった時から、レサはセルディが好きだった。

 ウーレンへ嫁いだ姫が息子を連れて帰ってくる……という噂は、噂好きのイズーの人々の中でも、本当に耳敏みみざとい人にだけ知れていた。レサは、イズーの城にいたので、わりと早くに情報を得ていた。

 真実を知る人には笑い話のようだが、ウーレン王とエーデム王の妹との婚姻は、多くの民人が悲劇として語りついでいた。

 異種族同士の政略結婚である。レサも、ウーレンに人身御供ひとみごくうのようにして嫁いだかわいそうな姫の話に涙したものだ。

 本来、姫がエーデムに帰ってくることはおめでたいことに違いないが、ウーレン王の死もあって、大々的には祝えない。人知れず、姫は忍んで帰ってくる。

 だから、レサはウーレン寡婦かふとなった姫のために花を摘み、馬車が通ったら渡そうと構えていた。早朝から石畳の道、曲がり角で馬車がスピードを落とすのを狙っていた。

 しかし、レサからみえた窓に王妃の姿はなく、王妃にそっくりな少年がいたというわけである。驚いて渡しそびれたが、レサは一生懸命走って追いかけ、やっとの思いで王子に花を差し出した。

 馬車から身を乗り出した王子は、美しい銀髪だった。そして、エーデムをあらわす緑の瞳は、こぼれそうなくらいに大きく見開かれていた。王子はまったくの無防備な様子で、形よい唇をかすかに開いたまま、何気に花を受け取った。

 その時の驚きに満ちた王子・セルディの顔が、レサは忘れられなかった。

 

 レサは飛ぶような足取りで厩舎に向かった。石の回廊はいつもと同じだが、レサは緊張していた。今にも後ろから声がかかり、仕事を言いつけられるのでは? と心配だった。今日だけは許してほしかった。

 回廊の果て、地下に下りる階段の横にさらに石畳の道が続き、半地下になったところに厩舎がある。近寄るとかすかに馬の匂いがする。

 いくつかの馬房が並び、その中央あたりが馬丁たちの休憩所となっている。時々馬が顔を出し、ぶるると鼻を鳴らしている。そのような馬房の前を通るのは、初めのうちは怖かったが、今はかなり慣れた。ただし、馬に乗るのはやはり怖いかもしれない。

 休憩所が近づくと、少年たちの声が聞こえてきた。

 レサの休みがふいになるように、彼らもまた急な呼びたてがあると休みがふいになってしまう。レサは不安になって聞き耳を立てた。


 リューマの少年たちは、口々に自分がレサを乗せると主張して口喧嘩していた。

「だからさぁ! 俺がレサを乗せてやるんだってば! 最初に言ったの、俺だろ?」

「いいや、タカ。いいか? おまえはチビだ。チビってことはわかるか? レサを前に乗せたらおまえ、前が見えなくなるだろ? 前が見えないってことは危険だ。それはそんな危険な目にレサをあわせるわけにはいかねぇ! だから、レサは俺が乗せる」

「何言ってんだ! 俺はそこまでチビじゃねぇ! だいたいトビの乗馬技術なら、レサが危ないだろ? 俺に任せろ!」

「何言ってるのはおまえのほうだ! この前の競争で勝ったのは俺じゃないか!」

「だがよ、俺はトビより落馬の回数が3回少ないぜ!」

「でも、タカ。俺はおまえより怪我の回数は2回少ない」

「でも、そのうちの1回は骨折の大怪我だったじゃないか!」

 レサの足は震えた。

 なんだか、馬に乗ることはとても怖いことに思えてきた。

 セルディはすでにその場にいた。ただ椅子に座ったまま、みんなの話を聞きながら、鞭をもてあそんでいた。しかし、話がまとまらないと知って口を挟んだ。

「僕が乗せるよ。ここで落馬したこともなければ、怪我をしたこともないから」

 誰しもが納得してしまった。


 レサは少年たちの歓声で迎え入れられた。

 馬装しながらも、少年たちはレサをかまって黙ってはいない。レサは何もできずに、タカから馬の名前を教えてもらったり、トビから簡単な乗馬指導を受けたりしていた。が、実際はよくわからずにうなずくだけだった。

 レサは、馬房の片隅で光を浴びながら黙々と準備をしているセルディを見ていた。彼だけが何も話しかけてこない。やはり、お邪魔だったのだわ……と、レサは憂鬱になった。

「おいで、レサ」

 レサがうつむいた時、セルディが初めて声をかけた。

 身近で見る馬は、いつもよりも大きく見えた。セルディの馬はウーレン産の黒馬で、黒光りした馬体に筋肉が浮き上がっている。

 その首筋や鼻面を、セルディは両手で抱きしめるようにして愛撫していた。レサのことなど、目に入らないかのよう。いや、避けているのではないかとすら思われる。

「撫でてごらん。大丈夫? 怖くはない?」

 それでも声は優しかった。レサが鼻を撫でようすると、馬はぶるると鼻をならした。あわてて手を引っ込めてしまった瞬間、レサはすぐにセルディの顔色を見てしまった。

「本当に……大丈夫?」

「大丈夫、怖くなんてないわ」

 レサは強がった。ここで怖いななどと言ったら、楽しみにしていた遠乗りに置いてきぼりを食らってしまう。

 せっかくセルディの馬に乗せてもらえるのに……。


 厩舎の外に馬が引き出された。

 セルディは馬の鬣を撫でたかと思うと、ぽんと馬に飛び乗り、レサに手を差し出した。それだけで馬に乗れるだろうか? レサが不安になっていたところ、トビがやってきて、膝をつくと手を組んで足台をつくってくれた。

「レサ、俺の手に足を乗せて」

「え? でも……」

「大丈夫、持ち上げてあげるから」

 人の手を足台にするなんて、そのようなことはとてもできない。レサが躊躇しているのを見て、再びトビが微笑みながら言った。

「特別じゃないよ。これは馬丁の仕事だ。誰もがこうして馬に乗るのさ」

 トビの顔は嫌そうどころか、うれしそうにすら見える。

 レサは恐る恐る足を乗せた。そのとたん身体が軽くなり、すうっと引き上げられて馬上の人となっていた。

「怖くはない?」

 再びセルディが聞く。レサはあまりの高さにクラクラしながら再び強がった。

「大丈夫、平気みたいよ」

 身体はかすかに震えていた。

 その後、リューマの少年は各々馬に飛び乗った。誰も人の手を煩わして馬に乗る者はいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る