12.脳腫瘍
行ったことのない場所、と考えて、二階に向かった。急いで戻らなければならない。水島に見つかったら大変だし、千代たちに知られたら叱られる。急ぎ足で船の舳先に向かうイメージで歩いていく。廊下は曲がりくねり、時折夜型の外国人とすれ違う。ぼくに興味を示すような目をする者がいる。老人が言っていた「他人に関心を抱いて仕方がないという試練」というものが、船に作用しているとしたら……。いや、そんなことができるのだろうか? いくら夢の中と言っても。
夢の中、本当に?
ふと思ったことに、ぞっとする。これは夢だ。夢じゃなきゃいけない。ぼくは、頭を振り振り歩いて行った。
一番奥の部屋は、映画室や音楽室と同じような作りで、壁がガラス張りだった。床は板張りで、ごつごつしたスパイクシューズで歩いていいのかと思うくらい光っていた。つかまるためのバーがあるので、ここはきっと、踊りを練習するための部屋だ。ぼくには関係がないし、三毛もいないのでそこを出ようとした。すると、女が入ってきた。ぼくを見て怯える顔をする。
白い肌と赤銅色の髪をした、美しい外国人の女だった。バレエの衣装を着ている。練習着ではない。ふんわりとした透けるロングスカートを着、姿勢よく立っている。でも、ぼくをまじまじと見なおすと、ふと歩き出した。ととと、とバレエの仕草で歩き、ピルエットを回る。二度、三度、四度、何十回も回り出す。終わった瞬間、彼女は得意げに笑った。ぼくも、拍手をする。
「すごい!」
と言うと、まだ十代後半くらいに見える女は、首を傾げた。言葉がわからないのだろう。出身はどこかわからないが、日本語と縁のない人だというのはわかる。
女はぼくの前でジャンプをした。右から左へ。それからピルエット。小首を傾げ、ぼくの評価を待つ。
「グレイト、ブラボー!」
とりあえず褒める言葉を続けたら、女は気分がよさそうに笑った。本当に美しかった。船に似合いの、気弱で感じやすいところのありそうな美しさだったが。この女も、何か苦悩を抱えてここにいるのだろう。
「じゃあ、ぼくは行くね。三毛を探さなきゃ」
手を振ってドアを出る素振りをすると、女が悲痛な表情になった。ぼくに駆け寄り、腕をつかむ。思ったより強い力で。
「いや、ぼくは本当に行かなきゃいけなくて。帰らないと友達が怒るし」
それでもなおぼくが行く素振りをしていたら、女が泣き出した。ひっく、ひっくとしゃくりあげて。茫然と見ていて、やっと気づく。女は声が出ない。言葉が通じないだけでなく、声そのものを出せないのだ。
こんなに弱い人を、置いていくことはできない。でも、ぼくはここから早く出て三毛を探さなければならない。頭の中を整理して、ぼくは女に話しかけた。
「アイ・カム・ヒア、トゥモロー。絶対に!」
これが中学一年のぼくの精一杯の英語だった。女はしばらく考えて理解が及んだらしく、微笑んだ。ぼくの手を離す。ぼくはうなずき、「必ず来るよ」と笑って、部屋を出た。
急いで廊下を歩く。混沌とした廊下はいつもより人が多い。すれ違う人がぼくに声をかけようとためらっているのを無視する。老人の「試練」とやらを何となく信じてしまう。道行く外国人がぼくなんかに興味を持つことなんて、滅多にないことだろうから。
あのブルーグレーの鉄のドアを見つけた。松子の部屋のドアだ。松子はもう寝ているころだろうか。ノックしようかと立ち止まったが、すぐにやめた。松子は、面倒だ。弱くて気分屋で、姉妹とは別の意味でつき合いづらい。そのまま進む。急ぎ足で。三毛のことを知っているかもしれないが、そこは気づかないふりをする。
と思っていたら、廊下で会った。にっこりと笑う松子は「あら」と口の中でつぶやく。
「数日ぶりね。どうしてた?」
「いえ、三毛を探してて」
ぼくはぎょっとしながら松子の前で立ち止まる。避けようとしていた人にばったり会うと、気まずい。松子はにこにこ機嫌よく笑う。
「わたしはあれ以来見てないけれど、一緒に探す? わたしのほうがここに詳しいわよ」
一瞬、ためらう。でも、仕方がない。松子の申し出を断るのもまた面倒くさそうなのだ。
「お願いします。急いでるんです」
あの猫用のドア、早く塞がなくっちゃ――。そんなことまで考える。松子はぼくをリードするように歩き出した。
「夜は人が多いですね」
ぼくが言うと、松子は当然のように、
「弱い人間というのは夜を好むのよ」
と言う。ぼくはわかるようなわからないような気になる。ぼくも、引きこもりになってからは夜遅くまでゲームをしていたし、昼は遅くまで寝ていた。でも、夜出歩く気分はわからなかった。
「図書室に行きましょ。三毛の本が見つかるわ」
三毛の本? 疑問に思いながらついて行く。図書室はぼくの部屋がある五階にあるらしく、松子はエスカレータを呼んだ。ここでは初めて見る。エスカレータは船を突っ切る筒の中でらせん状になり、ぐるぐると上に向かって渦巻いている。
「あなたって、絶望を知っているようには見えないのね」
松子は言った。ぼくに言っているようで、独り言のようにも聞こえた。ぼくは心外に思った。ここに来る前のぼくの生活を、彼女は知らないからこんなことを言うのだ。
「あなたは船の他の人よりも健康的に見える」
松子は疲れたような笑顔になった。何かを思い出したのか。
「船の人間の心の重さは、見ているだけで押しつぶされそうになるくらいなのに」
それは、少しわかる。ここの人たちは皆辛そうで、放心しているように見える。先程のバレリーナも、光も、松子も。
ぼくはここに来てから心が軽くなったような気がしている。自殺に失敗して気が済んだからだと思っていたけれど、それにしては気楽すぎる気がする。――どうしてだろう?
そう思っていたら、図書室のドアの前に着いた。観音開きの白いドアだ。松子は先にエスカレータから降り、ドアを押し開ける。ぼくもそうする。振り向くと、エスカレータは消え、あの廊下が続いていた。
中は、外国の古い図書館のような雰囲気で、木製の、ところどころ掘りのある本棚がびっしり並び、壁も本棚になっていて、天井からはチューリップ型の小さな電灯が光をほどほどに落としている。床はグレーの絨毯だ。
本を探す。三毛の本? わけがわからないけれど、外国語の本がたくさん並んだ棚を、延々眺めて歩く。
「ないわね」
しばらくして松子が困った顔で現れた。
「あなたの本ならあったわ」
意味が分からないまま、ページを開く。最初のページから、こう書いてある。
「変な夢を見て目が覚めて、ぼくはああまた一日が始まるのだと思った。とは言ってももう昼だ。今はベッドに横向きに寝ていて、枕に頭を載せて寝ているのは猫の三毛だった。足が布団から出ていたので随分冷えている。急に寒気を感じて、ぼくは大きな動きで起き上がり、三毛を追い払った。
『しっしっ。ここはぼくのベッドだぞ。何でここにいるんだよ』
三毛はベッドからフローリングの床に落とされ、恨めしそうにぼくを見る。それから身づくろいを始める。前足を舐め、後ろ足を跳ね上げて舐め、人間なら十分ストレッチになりそうな動きで体をきれいにしていく。ぼくはたまたま昨日入ったが、風呂には三日に一度しか入れていなかった。三毛のほうがよっぽど清潔だろうな、と思うと情けなくて笑えて来る。
部屋は昨日のまま、乱雑に散らかっている。漫画の山は崩れ、テレビの前のゲーム機は押しやられたままだ。箪笥も引き出しが開けっ放し。母さんも父さんも、ぼくの部屋を整理する気がないし、部屋の主のぼくもそうなんだから当然だろう。
『優、起きたの?』
ヒステリーを含んだ母さんの声が聞こえた。ぞっとする。ぼくは寝ていることにしようと抜き足差し足でベッドに戻った。でも階段を上がる音がどんどん近づいてきて、ぼくがベッドに飛び込むころには問答無用でベニヤのドアが開けられた。
『起きてるんでしょう? なら返事をしてよ!』
母さんは泣きそうだ。ぼくは無言で三毛を見ている。三毛は隅っこに隠れてぼくらを見ている。猫だもんな。この事態をどうにかするなんてできないよな。嵐が去るのを待つしかないんだから。そう思いながら、ぼくはぼくでパニックの発作に襲われそうになっていた。
『わ、悪いとは思ってるよ』
『ならすぐに返事をして! 下にご飯を用意してるから降りなさい』
母さんは震えながら部屋を出ていった。ぼくも、呼吸が荒くなっている。
『優、起きたか』
リビングに着くと、父さんが紺の背広姿で立っていた。ぼくはパニックが強くなる気配を感じた。父さんは、仕事じゃないのか? だって平日の昼間じゃないか。――」
体が震えだし、ぼくは本を取り落とした。慌てて松子がそれを拾う。表紙を見ると、児童文学の本のような表紙で、ぼくに似た少年をイラストとして描いてある。タイトルはぼくの名前。作者名は、ぼくだ。でも、ぼくはこんな文章を書いた覚えはない。こういう出来事があったと、覚えてはいるけれど。
松子からそれを奪い取り、カバーの折り返しを見る。裏表紙側に、それはあった。
「坂口優(さかぐち・ゆう)2005年、埼玉県生まれ。幼少期から友人は多かったが、中学に入ったことを機にいじめに遭う。趣味はゲームと漫画。2018年夏から引きこもりとなり、秋に両親とのやり取りで傷つき首吊り自殺をした。2018年没。」
体中が震える。現実じゃない。そうだ。夢だ。夢でぼくの本を見てるんだ。
ぼくの様子を、松子がおろおろと見ている。ぼくは、松子に訊く。
「ぼく、死んでるんですか? ここはあの世で、あの世の図書館で自分の本を見ているとか……」
「わたしもそう思ったわ。自分の本を見つけたとき。でも、わからないの。わからない。四十八年もここで暮らしていると、何もかも不確かになる」
松子は、首を振る。不安げな顔になる。ふと、本が目に入った。「山田光」と書かれた背表紙の本。震えたままの手で、それを手に取る。女の子らしい、水色に白い水玉模様の表紙。イラストのようなものはない。大人っぽい、ハイティーン向けみたいな本。開こうとした。
「高田松子。1930年生まれ。第二次世界大戦中の日本で思春期を過ごす。二人の兄が出征し、戦死して以降精神が不安定となり、結婚後娘を授かるも夫の不倫によって家庭が崩壊したことを機に完全に心を病んでしまった。――ええと、没年は1970年? 割と最近だね」
別の声が割り込み、ぼくは本を棚に戻して聞き入った。松子は青ざめた顔で声の主を探している。
「夫が不倫したのはあんたのせいじゃない? だって娘を一人で見られないんだもんね。遊びたい盛りの三十男に、家にいて娘を見てろなんて、昔の価値観ではありえないでしょう。娘が十五歳のとき、不倫が発覚。これは関係が長かったに違いないね。十年は見ていい。ええと? 娘が十五歳のときに不倫が発覚して? 娘は自殺未遂? それであんたは病んじゃったのかー。いやー、大変大変」
そこに、女はいた。見た目は浮浪者に見えるが、船の住人の一人だろう。ヨーロッパ系に見えたが、確証はない。肌は汚いし、白っぽい髪も油じみて何色かわからない。顔立ちははっきりしている。手元で本を一冊広げていた。
「やめてよ、脳腫瘍」
「その呼び名もやめてくれる? 高田松子」
脳腫瘍と呼ばれた女は、一脚だけある一人掛けのソファーに深く座り、足を組んでいた。汚いドレスは擦り切れている。
「あんたの人生に意味はない。生きていたことにも、死んだことにも意味はない」
「やめてよ」
「それなのにしつこくここで生き続けているのはどういうこと?」
「やめて」
「早く死んじゃいなよ。楽になって一人で消えてしまいな」
「どうしてそういうことを言うの? あなたに何の関係があるのよ」
「あんたみたいな弱々しい船の住人が嫌いなんだ。蚤を潰すように魂を一つ一つ潰していきたいのさ。さあ、消えな」
「この間まで大人しくしていたくせに」
「そりゃあ、老人の『試練』ってやつが功を奏したのさ。あたしは船の住人と同じ言葉が話せる。日本語だろうが、スワヒリ語だろうが。それを使って人を潰したくなったのさ。それが何か問題でも?」
松子は肩で息をし、今にも壊れてしまいそうだった。ぼくは二人の前に出て、松子を連れ出そうとする。脳腫瘍はぼくをじろじろと見て、こう言う。
「子供かい。子供に親切にすれば、自分の娘への贖罪ができるとでも思った? 人生舐めちゃいけないよ。娘は何とか生きてるだろう。あんたみたいに砂糖細工の船でぬくぬくと暮らしてないで、地べた這いずりながら人より辛い人生を生きているだろう。でもそれとこれとは別。娘はその子じゃない。娘は生きてる。あんた恨んで、何で消えたのか、何でわたしを助けてくれなかったのかと呪詛の念を唱えてる。あんたは――」
「もうやめて!」
松子は半分砂糖になっていた。ぼくが触ったら、崩れてしまいそうになっている。松子は泣きながら、大人のプライドを忘れて涙をぼろぼろと流しながら、叫ぶ。
「あんたの人生を知ってるわ」
脳腫瘍は片方の口の端を上げた。
「……へえ」
松子は震えながらこう言う。
「本は隠してあったけれど、鍵つきの箱に入っていたけれど、あったわ。あんたの人生は……」
「松子」
脳腫瘍は言った。
「あんたの夫は、あんたのように心を病んだ娘と、愛人と共に暮らしたそうだよ。娘はどんな思いだっただろうねえ」
松子は、虚脱した顔になった。そして、段々体がさらさらと崩れ始める。
「ああ」
と松子は嘆息した。そして、どさっと落ちて、砂糖の山となった。ぼくは、茫然とそれを見ていた。
――おっと。もう松子は脳腫瘍に壊されたのか。すごいな。君はここでも大活躍だ。気が立っている脳腫瘍の元に松子を連れて行くなんて、何てタイミングがいいんだろう。
声が言った。ぼくはもう言い返す気力すらない。脳腫瘍は、いつの間にか消えている。
――次は、バレリーナかな? それとも君の友人たちかな?
「え?」
バレリーナ、とはどういうことだろう。千代や光は絶対に壊させるわけにはいかない。でも、バレリーナが壊れてしまうということがわからない。声は、それきり止んでしまった。
怖くなってきた。戻らなければ。戻らなければ、何もかも壊してしまう。千代と光も壊れてしまう。ぼくは図書室を出た。急ぎ足で、部屋に向かった。
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