11.千代の過去

「あたしは、大正十年の師走にここへやってきた。わけがわからなかった。どうしてあたしがこんなところにいるのか、どうしてここにいなければいけないのか。船は静かで、仕事なんて一つもない。見かける外国人は、どいつもこいつも血の気の引いた、憂鬱そうな顔をしてる。皆つまらなそうに、海を眺めたり酒を飲んだりしてる。あたしはいらいらした。言葉が通じるんなら、『あんたたち、しゃんとしな』って言ってやりたいくらいだった」

 千代は、ぼくのベッドに腰かけ、隣の光と学習机の椅子に座るぼくの視線を浴びながら、床を見つめていた。誰かにずっと話したかったのだろう。なのに言えなかったのだろう。千代は、力強く話した。

「部屋はあたしが爺さんと暮らした長屋の家そのものだった。入り口は引き戸になっていて、つっかい棒で開かないようにするしかない、粗末な部屋だった。爺さんは旦那様から暮らしを支えていただいていた。他人に世話になるのは情けないと言っていたけれど、爺さんはもう充分働いていた。働けなくなって、銭が入らなくなったんだから、そんなの全然情けなくなんかない。旦那様が恩を感じてくださるくらい、爺さんは働いたんだ。――その部屋がそのままある。爺さんはいない。……いるわけないんだけどね。その理由はあとで話すよ。――あたしは日がな一日部屋をきれいにして過ごした。一日経つと、部屋にはほこりとゴミがそっくりそのまま戻っていた。爺さんの箪笥の上に、あたしの字で『還暦』と書かれた紙が米粒で貼りつけてあってね、それが辛くて剥がしたんだけど、それも元通りなんだ。何なんだろう、この夢は。そう思った。変な夢を見続けるもんだ。いつ目が覚めるんだろう」

 ぼくと同じだ。千代は、小さくため息をついた。ぼくと光は真剣に聞いている。

「ある日、あいつを見つけてしまった。――水島をね」

 千代の目が見開かれた。恐怖がそこにあった。

「あいつはあのときと変わらない格好をしていた。立派な仕立てのジャケツに、派手なネクタイ、丸い気取った眼鏡。ただ、様子がおかしかった。あいつは、おかしくなっていた。裁判のときは、まるっきり平然として、学のある紳士然として、憎らしいくらいだったのに。あいつは、視線を泳がせていた。誰かにぶつかると金切り声を上げた。誰か見えない相手に話しかけていた。絶対に近づいちゃいけない、と思った。あたしがあいつをどんなに憎んでいても」

「憎んでるって、あなたが?」光が不思議そうに訊く。「あなたが水島に狙われてるんだと思ってた」

 ぼくもそう思っていた。千代の様子は、水島を憎んでいるというよりは怖がっている感じだった。千代は、ぽつりとつぶやく。

「あたしが臆病なだけだよ。本当はあいつを殺してやりたいくらい憎いけど、大人の男相手に勝てるわけがないもの。諦めて、逃げ回り続けただけだよ。現にあいつは船の人間も五人は壊した。あいつは、危険なんだ」

「ねえ、千代さん。千代さんはどういう経緯で船に来たの? 君がここに来るような人間には思えないんだ」

 ああ、それはね、と千代は答える。

「全ては船の老人の采配だよ。あたしは絶望していたけれど、生きる気力を失ったわけじゃなかった。けど、老人はあたしと水島が一緒の船にいるのが面白いと思ったみたいだね。

 あたしが船に来た経緯を話そう。あたしは、爺さんが勤めていた裕福な家に、女中奉公することになった。小学校を出て、中学校を中退してすぐだった。うちには銭がなかったんだ。旦那様は子供のころに爺さんに育てられたようなもので、爺さんが推薦したあたしをすぐに迎え入れてくれた。いい家だったよ。子供は多かったけれど、旦那様は学者さんで、奥様はしっかり者で、あたしより年下の四人のお子さんが『ねえや』とあたしを慕ってくれる。お給金も多かったほうだと思うし、休みが一日もない女中だっているのに、あたしは月に二回休みをいただき、奥様や年上の女中から仕事というものを教えていただいた。

 ただ、雑用があたしの仕事だったから、大変だったね。洗濯、アイロンがけ、掃除、雑巾がけ、坊ちゃまたちの食事の世話。家はしょっちゅう汚れるし、少しでも汚れると着物や足袋が白くなるんだ。旦那様は学校に教えに行くのにシャツをお召しになるから、毎日石鹸とたらいでもみ洗いしてね。お陰で手があかぎれだらけになったよ。

 でも、平和な毎日だった。楽しかったよ。自分の時間はほとんどないけれど、あたしにはいない弟や妹のような感覚を、坊ちゃまたちからいただいたし、両親のいないあたしは旦那様や奥様に親しくしていただいて、嬉しかった。――もちろん主従の枠からははみ出しちゃいないけれど。

 あたしは月に二日ある休みの日は、活動写真を観て、爺さんの顔を見に行くと決めていた。旦那様のお宅では住み込みで働いていたけどね――そうでなきゃ仕事が終わらないよ――爺さんは浅草に住んでいて、千駄木の旦那様のお宅からは一時間歩けばよかった。市電で行くこともできたけどね。それは無駄遣いだ。

 浅草はそれはもう賑わっていてね、大道芸人や見世物で大騒ぎさ。猿のように棒を登る男、押絵を売ってる店もあったりしたね。押絵は昔の端切れを使った絵でね、出来のいいものはそりゃあもう立派なものだよ。そこを通り過ぎ、活動写真を観て、――昔はサイレントでね、弁士という男の人が威勢よく内容を教えてくれていたもんだよ――爺さんのいる家に向かうんだ。賑やかな表の街の裏側にあるわが家は長屋で、玄関とかまどと寝起きする部屋が一つになっててね、二人で生活するにも狭かったね。でも、清潔に整えていたよ。爺さんはあたしを見ると相好を崩して笑ってくれる。布団で寝ているときが多かったね。爺さんは咳をしてばかりいたけれど、多分病気だったんだ。

 師走の最初の休みの日、あたしは爺さんに会いに行った。寒いからか大道芸も少なくて、歩いてる人も少ない、寂しい日だったね。手のあかぎれが痛くて、撫でさすりながら歩いた。活動写真はアメリカの喜劇で、弁士の調子も上がらずつまらなかった。とにかく何もかもうまく行っていない日だった。

 家は静かだった。いつもなら家の周りで騒いでる子供らも、今日は家の中にいるんだろう。あたしは家の玄関に入りながら、『ただいま』と言った。そこからの記憶はあまりない。ただ、部屋に爺さんがいた。――血まみれで。爺さんは殺されていた。口をハンカチーフで猿ぐつわされ、胸を刺されて死んでいた。男がいた。丸眼鏡の、裕福そうな、学のありそうな、若い男。男は爺さんから猿ぐつわを外すと、すたすたと歩いて、茫然としているあたしの横をすり抜けようとした。『待て』とあたしは叫んだ。『人殺し』と叫んだ。長屋の他の家から色んな人が出て来た。男は全力で走り出した。あたしが『人殺しだよ』と言うと、男たちが、若いのも、年取ったのも、皆で男を捕まえた。男は捕まったあとも黙っていた。お巡りさんが来ても、黙っていた。

 男は殺人鬼で、こうやって病気の年寄りを殺して回っていた。理由はわからない。男が医学博士だっていうのが余計に薄気味悪かった。法廷で、男はこう言った。『これも人助けだ』って。

 冗談じゃない。爺さんは生きてたんだ。それを勝手に摘み取るなんて、人間の仕業じゃないよ。人助けだって? 爺さんがいつ殺してくれって頼んだんだ。

 男は死刑が決まった。立派な親や財産の力をもってしてもそれは覆せなかった。あたしは、男が死刑になるのを待ちながら、旦那様のお宅で女中をするつもりだった。なのに、裁判所から帰るとき、あたしは泣きながら『死にたい』ってつぶやいちまったんだ。それを船の老人に聞かれちまったんだ。

 ――あたしは船にいた。爺さんが殺された部屋と同じ部屋に。血糊はなかった。さすがにそれは下品だと、老人も思ったんだろう。あたしは船で暮らした。そして、水島と、出会ってしまった。

 老人は、一週間ほどしてから夢に出てきた。あたしの境遇を面白がっているようだった。女中の仕事、日本での女の地位や扱いについて、楽しそうに訊いてきた。あたしみたいなのが珍しいらしいよ。わざとらしいほど老け込んだ老人はこう言った。『君は生きる気力が強いね』当たり前だろって怒ったら、『そういう人は入れないことにしてるけど、水島孝夫と一緒にしたら、いくばくかの砂糖が得られるかと思ってね、君を選んでみたんだ。だって、君だって絶望はしてるんだろう?』それからこの船での砂糖の説明をした。それを聞いて、ぞっとしたね。こいつは、あたしを水島に壊させて、あたしのちょっとしかない砂糖をもらう気なんだって。あたしは怒った。なのに、老人は何日かに一回、楽しそうに出てきた。船の説明、水島の動向を少しずつして、にやにや笑うんだ。本当に気味が悪いよ。最近、そうだね、あたしがあんたに会ってから出てこなくなった。あんたに何かあるらしい」

 ぼくはぎょっとして千代を見た。ぼくの話が出てくるとは思わなかった。ぼくは、千代の話に没入しきっていたから。

「ぼくが最後に船に乗ったとか、そういうことなんじゃない?」

 タイミングを考えると、そう思うのが自然だ。けれど、千代は首を振った。

「それ以外にも何かあるよ。あんたは、老人と夢で話したかい?」

「まだ」

「出てきたときは教えておくれよ。何を言ったか……」

 千代は思案顔になる。そこに、光が入ってくる。

「千代さん、大変だったね」

 光は、さっきから涙を目に浮かべていた。千代が淡々と話した事実は、彼女にとって辛いものだったようだ。顔を覆い、嗚咽する。千代は、光の手を取った。

「あんたが泣くんじゃないよ」

「だって。千代さん、泣いてないから」

「代わりに泣くっていうのかい? あたしは、泣くのは負けだって思うから泣かないんだ。――あたしは、負けないよ」

 千代は、微笑む。冷静で、強い。千代は本当にすごい。ぼくは、血まみれの家族を見たあとに、殺人鬼に追いすがることができるだろうか。思い出して、言葉に出して、それでも泣かずにいられるだろうか。――きっとできない。

「もう夜だね」

 千代は言った。この部屋には窓も時計もないが、体感でわかるらしい。彼女は光を連れて、自分が作った部屋に向かった。

「いつまでもここに閉じこもってたら、どうにもならない。明日起きたらあたしの考えを話すから、今日のところは寝るんだよ」

 千代はぼくに念を押すように人差し指をぼくに向けた。ぼくはうなずき、おやすみを言う。

 そして、隣の部屋が静かになると、――ぼくは部屋を抜け出した。

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