8.姉妹の招き
「わあ、ここが坂口君の部屋かあ」
光は、ぼくの散らかって薄暗い部屋の入口に立ち、物珍しげに中を見渡した。ものが散乱し、箪笥の引き出しすらきちんと閉められていない部屋のどこが面白いのか、彼女はゆっくりと中に入り、一つ一つのものを見ていった。ぼくは部屋に戻る前に片づければよかったと後悔しながら、漫画雑誌を本棚にしまうところだった。でも、光の一言でそれは止まった。
「あ、それ読みたかったんだ。読ませて」
ぼくは呆気にとられ、手にしていた二週前の少年漫画雑誌を見た。女の子にも人気があるのは知っているが、光がこれを好きだとは知らなかった。手渡すと、彼女は満足げな顔で腰を下ろし、胡坐をかいて座った。姿勢とスタイルがいいのでヨガのポーズかと一瞬思った。女の子が胡坐をかくのを見るのは初めてで、じろじろ見ていたら光が微笑んだ。
「胡坐、楽なんだ。仏様と同じポーズだよ。ジーンズなら全然問題ない」
ぼくはそれで納得し、ベッドに背中をもたせかけて彼女と向かい合わせに座った。ぼくも胡坐だ。こんなに楽な姿勢を女の子に禁ずるのは酷だ。スカートなら目のやり場に困るけれど。ぼくは光が読んでいる漫画雑誌から単行本化された漫画を読み始めた。実は、この数ヶ月はまともに新刊漫画を読めていなかった。鬱々した気分が続き、小学校のころ面白かった漫画を繰り返し読んでいただけなのだ。でも、今こうして光と向かい合わせに読んでいると、積んだまま読んでいなかった漫画の続きはとても面白い。
しばらくそのままで時間は過ぎていった。三毛はぼくの横で丸くなり、お腹の黒いハート模様を見せていた。気持ちよさそうに眠っていた。首筋を撫でるとごろごろと喉を鳴らす。光が漫画雑誌を置いた。それから先週号を手に取る。
「坂口君さあ」
光の言葉に、ぼくは顔を上げた。目を開けていたのに、まどろみから覚めたような気分だった。光は漫画雑誌に目を落とし、それほど特別なことを言っていないような口ぶりで、こう言った。
「現実世界って、楽しいものだと思う?」
ぼくはぎゅっと心臓を掴まれたような気がした。いじめられた日々が、部分的に壊れてしまった脳みその中で繰り返し上映される。
「あんまり」
短く答える。光はちらりと顔を上げ、また目を落とす。
「なら壊れちゃってもいいと思わない?」
「え」
「現実世界は壊れていいよ。船の中でゆっくりと暮らせればいい」
「何だよ、それ」
ぼくは全く納得がいかなかったけれど、それ以上は何も言えなかった。ぼくの世界は狭い。家と、住んでいる地区と、学校。ぼくの中では家はとうに壊れていた。でも、壊れた家の中で、ぼくは息苦しさしか感じなかった。世界が壊れてももっと苦しくなるだけではないか?
光はつぶやいた。
「壊れて崩れて、ぐっちゃぐちゃになればいい。砂糖細工の船の中で、わたしは笑って見ていてやる」
ぼくは黙った。ぼくとは別種の苦しさが、光の中に潜んでいた。
「山田さん、砂糖細工の船っていうのはこの船のことだよね」
「うん」
ぼくの質問に、光は漫画雑誌を読みながら答えた。
「砂糖なの? この船は……」
「舐めてみれば?」
光は突然ぼくの漫画雑誌を破いた。何するんだよ、と言おうとした瞬間、光はぼくにそれを手渡した。
「舐めてみて」
ぼくはじっとそれを見た。どうみてもピンク色に染められた再生紙だ。漫画のコマが粗い紙に細かく印刷されている。これを舐めるだって?
光はぼくをじっと見ていた。仕方なく、ぼくはそれを手に取り、舌の先を少しだけ出して舐めた。驚いた。強烈な甘みだ。何となく、黒糖のような苦みのある甘さだった。
ぼくの表情を見て、光はにっこり笑った。
「甘いでしょ?」
「うん。……これ、全部砂糖?」
「砂糖」
ぼくの漫画雑誌は、砂糖でできている? じゃあ、本棚は? ベッドは? ゲーム機は?
「この部屋にあるものは全部砂糖だよ。ついでに言うと、わたしも坂口君も砂糖」
「えっ」
ぎょっとして体に触れる。柔らかいし、人間らしい湿気や脂気がちゃんとある。光はころころと笑う。
「わたしたちは魂だけの存在なの。砂糖の体に宿ってる。あの話はそういうことだと思う。砂糖には現実世界の憂鬱がたくさん詰まってる。体の砂糖を捨てられるっていうのは、とってもいいこと。わたしはそれって理想的だと思う」
「どうして、そういうことを知ってるの?」
だってこの船では誰もが口を利かないし、皆互いに無関心じゃないか。そう訊くと、光は、ああ、と何でもなさそうにうなずいた。
「夢で見るの」
「夢?」
「夢に外国のお年寄りが出てきてね、それこそ漫画か何かみたいな白いローブみたいなのを着てて、説明してくれるの。船のことを。船は砂糖でできてるってことや、砂糖は現実世界の憂鬱が混ざってるってことをね」
混乱する。さっきの声のことだろうか。老人はぼくの夢には出たことがないが、今後出てくる可能性があるってことだろうか。何者だろう。気味が悪い。
光は微笑みながらぼくを見ている。彼女が砂糖でできた人間だって? 到底信じられない。その手元の漫画を見る。――ページが元に戻ろうとしていた。ゆっくり、ゆっくりと、植物の開花の早回しみたいに。光はぼくの視線に気づき、漫画雑誌を持ち上げて、
「同じ材料でできてるから、何だって再生する。シンプルでしょ?」
と笑った。ぼくは隣の三毛を見た。気持ちよさそうに眠っていて、とても砂糖の塊には見えなかった。
*
部屋を出て、光と一緒に歩いていると、あの着物の姉妹に会った。「あら」とつぶやいた繭子は朱色、無言でぼくと光を見ている絹子は紺色の着物を着ている。
「この間はよくも逃げてくれたわね」
繭子が不満の見える皮肉な表情で言った。ぼくは、ごめんなさい、と謝る。
「猫を見つけたから、つい」
「その猫はどこなの?」
繭子に訊かれ、ぼくは光と目を見合わせる。三毛は眠っていたので部屋に置いてきたのだ。
「嘘なの?」
「嘘じゃありません」
三毛の存在を疑われているらしい。とんだ濡れ衣だ。
「じゃあ、今度こそわたしたちの部屋にいらっしゃい」
絹子が艶のある独特の声を出し、ぼくを手招いた。
「はあ、行きます。山田さんも行く?」
光に振り向くと、光は気まずそうにしていた。絹子はぴしゃりと「その子は呼んでないわ」と言う。きつい人だ。ぼくは光に目顔で謝ると、二人に「また今度行きます」と言った。
途端に繭子と絹子の表情が変わった。奇妙に歪み、よじれ、変形し……。目を見開いて動けないまま見ていると、気づけば二人の顔は狐のお面になっていた。よく見ればお面ではない。顔そのものだ。だって、顔とお面の継ぎ目がないのだ。
「坂口君」
光が怯えているのはよくわかった。いきなり普通の顔が木彫りの昔のお面のように変わったのだ。怖いのは当たり前だろう。
「全く失礼ね」
気の立った声で、朱色の着物の女が言った。声はくぐもっていた。
「本当にね」
いつも通りの声で紺色の着物の女が言った。
「わたしたちが招待しているのよ」
「そうよ。喜んで来てくれてもいいんじゃないかしら」
「猫だって本当にいるんだか」
「わたしたちに話しかけたいからでっち上げたに違いないと思ったのに」
「ああ、悔しい」
「悔しいわねえ」
二人の女はぼくと光を挟んでゆっくりと囲むように回っていた。外に張り出した廊下を塞ぐように、ぼくと光を挟む。
「この女、縊り殺したい」
紺色の女が光をつつく。恐ろしいことに、その爪は鋭く伸びている。光が小さく悲鳴を上げる。
「縊り殺したっていいんじゃないかしら」
朱色の女が嗤う。
「ただ招待してあげただけなのにねえ」
「本当」
「すいません。ぼく、お部屋に行きます」
叫ぶような声を上げ、思わずそう言っていた。途端に二人は人間の顔に戻っていて、相も変わらず美しく、繭子は満足げに微笑み、絹子はひっそりと笑っていた。
「そう?」
繭子が微笑む。
「無理はしないでちょうだいね」
絹子は冷然とぼくを見る。だが嬉しそうだ。
「行かせてください。ぼく、お二人に興味があります」
途端に二人の空気は柔らかいものになった。
「じゃあ、行きましょう」
その子を置いて。尖っていない丸い爪のついた指で、絹子が光を指さした。光は怯えきっていて、それでもぼくを心配そうに見ていた。ぼくはうなずき、笑いかける。
行くしかないだろう。
繭子と絹子が歩き出す。ぼくはそれに従う。光がじっとぼくを見ていた。手を振って、別れた。
*
姉妹は階段を一段一段降りるのが億劫になったらしい。「エレベータアで行くわ」と繭子が言った。疑問に思う暇もなく、ドアを開けるといつもは階段になっている部分が古風な豪華な木とガラスのエレベータの内部に早変わりしていた。それに三人で乗り込む。
目を白黒させているぼくに、姉妹はにこにこと笑いかける。ぼくが可愛くてならないらしい。ぼくは確かに小学生にしか見えないが、そう見られることは何だか悔しい、と思う。
「ここでは何でも砂糖だから、それを便利に使わない手はないわ」
と、絹子。
「例えば、願えば階段はエレベータアに変化する。人を怖がらせようと思ったら体だって変化させられる」
と、繭子。
ぼくはさっきの出来事にやっと納得しながら、この二人の女のつき合いづらさについて考えさせられた。思い通りにするために、人を脅すなんて。この船の住人は皆何かしら辛そうに見えるけれど、この二人は二人でいるからか、そうは見えない。ただのわがままで気位の高い女たち。そうとしか見えない。
チン、とエレベータは上品に鳴り、ぼくらは一階に着いた――と思いきや、そこは姉妹の部屋だったらしい。花の香りがむせ返るように香るその部屋は、円形だ。ドーム状の天井、壁には蔓薔薇の模様が彫り込まれ、あれ、ここは見覚えがある、と思った。それが何なのか、わからなかった。それよりここは花の香りが濃すぎる。鼻をつまみたくなるくらいだ。壁には幅の狭い棚が線のように掘られ、そこに大量のガラス壜が並ぶ。赤いものがところどころにある壜を見ていると、繭子がそれをかっさらった。朱色のクッションが置かれた白い椅子に座り、コルクの栓を開け、円形のテーブルにあった銀色のフォークでぱくりとそれを食べた。仰天していると、絹子も紫色のものがちらつく壜を手に取り、青いクッションのある椅子に座った。ぼくを手招きする。仕方なく、白い、何も置かれていない椅子に座る。
「何を食べてるんですか?」
ようやくコルクを開けた絹子に訊くと、彼女は微笑んだ。
「花よ」
「花?」
「わたしたち、花を食べるの。花しか食べないの。素敵でしょ?」
繭子が続けた。その顔はうっとりとして、夢の中にいるような表情を浮かべている。
彼女がフォークに突き刺したものを見る。それはぐったりとした大きな赤い花弁だった。絹子も食べ始める。それはパンジーのような大きな花弁。
二人は花びらの砂糖漬けを食べ、喜んでいるのだった。気味が悪く、ぼくの頬は引きつった。
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