9.壊れた姉妹

 姉妹はぼくにまで花びらの砂糖漬けを勧め、一応食べたけれどそれは上白糖の味がする香りのいい漬け物にしか過ぎず、すぐにうんざりしてしまった。絹子も繭子も少量食べると壜に蓋をし、棚に戻してしまった。きっと飽きたのだ。松子の言葉を信じると、食事は一日摂らなくても大丈夫そうだが、それでもきっと花びらの砂糖漬けだけではお腹が空く。そんな毎日が、続くものだろうか。

「あの、双子なんですか」

 沈黙が落ちたテーブルで、ぼくは恐る恐る質問をした。顔立ちは似ていないけれど、二人は確かに姉妹だった。

 絹子が微笑んで、答える。

「違うわ」

 繭子は口元についた砂糖の粒を舐め取りながら、

「一歳違いなの。わたしが妹。そんなによく似ていて?」

 と笑った。

 いや、あの、と口ごもっていると、絹子は艶やかに笑い、

「あなたは、きょうだいはいるの?」

 と訊いた。

「ぼく、一人っ子です」

 まあ、と繭子が言う。

「寂しくはないの?」

「うーん。今時一人っ子って多いから。皆趣味とかあるし、娯楽もあるし、寂しくないんじゃないかな。ぼくは友達と遊ぶほうが好きなタイプだから、ずっと一人でゲームしてると飽きてくるけど」

 そうだ。ぼくは友達と遊ぶのが好きだった。校区が違うから、大親友と一緒に中学に通えなかったのは本当に残念だった。でも、疎遠になってしまったのはきっと、ぼくがいじめられていたからだ。いじめられてる奴と仲良くすると、そいつもいじめられてしまう。そのくらいで疎遠になるくらいだから大親友ではなかったかもしれないけれど、ぼくは彼がいじめられずに済んでよかったと思う。ヒロッチは弘也という名前で、ぼくと二人でサッカーをしたり、漫画を読み合ったり、同じゲームで冒険したりした、本当の友達だった。

 あいつ、山田さんのことが好きなんじゃなかったかな?

 絹子がいつの間にかティーカップを持っていて、強烈な薔薇の香りのハーブティーを飲んでいた。

「あら、今の時代は子供って少ないのね」

「ええ。少子化とか言って、子供がどんどん減ってるみたいですよ。逆にお年寄りは多くて、高齢化してるみたいです。日本の話ですけど」

「嫌ねえ」繭子が同じように青紫のハーブティーを飲んでいた。おそらくこれも花だ。「わたし、年寄りって嫌いだわ」

 何とも答えようがなくて、黙る。姉妹はにこにこと笑う。

「あなたはいくつ?」

 絹子が訊く。どうも、繭子よりも絹子のほうがぼくに興味を抱いているような気がする。繭子はもっと気まぐれにぼくへの興味に近づいたり離れたりする。今だって繭子はどこからか出した銀色の細かい細工が施された手鏡を見て、自分の美貌を確かめている。

「十三歳です」

 年齢にしては幼いと言われるかと思いながら言うと、絹子は「あらそう」と驚く様子もない。百年かそこらの昔の人は、同い年でもぼくより小さかったりするのかもしれない。

「わたし、二十歳なの」

 と絹子。そうは見えない。もっと大人びて見える。

「わたしは十九よ」

 と繭子。こちらは何とも表現しがたい。子供っぽくも見え、大人びた顔にも見える彼女は、不思議に年齢がわからない。

「結婚する前に逃げてきたのよ」

 と、繭子。そういえば彼女たちの時代の唱歌に、お手伝いさんが十五歳で嫁入りしたという歌詞があった。昔の結婚適齢期は、ぼくの時代とは全く異なっているのだろう。

「あなた正解よ」

 絹子が微笑む。こちらはお腹をさすっている。どうしたのかと思ったら、こう続ける。

「わたしなんて嫁いだあとにやっとここに来られたんだから。孕まされて、お腹に子がいるのよ」

 ぎょっとする。絹子はそんなぼくを見てにっと笑った。深夜のテレビで見た伝統芸能の役者のようにすっと立ち上がり、ぼくのほうにやって来る。立ち止まり、お腹に置いていた手をどかす。そこは光っていた。光の中に、丸いものが見える。どう見てもそれは胎児だった。たとえぼくらが光の言う通り全身砂糖で、この現象も絹子が砂糖をうまく操った結果だったとしても、そこには真実味を帯びた胎児の存在感があった。

「この子、は……」

「ああ、いらない子なの。なのにずっとわたしのお腹の中にいるのよ」

 胸がざわめいた。いらない。子供がいらない。ぼくとしては充分ショックで、こう言わずにはいられなかった。

「可哀想です。子供だって、生まれようと思ってあなたのお腹に宿ったわけじゃない。生まれたら大変なことが何十年もかけてたくさんやってくるのに……。あなたは、それを踏みにじってるんだ」

 繭子がティーカップからハーブティーをすすった。絹子は微笑んでいる。微笑んでいるのに、右目から涙がこぼれ始めた。一直線の線になって。続いて、左目。ぼくは狼狽した。慌てふためいていると、絹子の顔にひびが入り出した。まるで砂糖の彫像のように、割れ目から粉となって崩れていく。肌が、髪が、着物が、白く変化していく。それから、――どさりと、崩れて砂糖の山になった。

「やってくれたわね」

 繭子が隣に立っていた。無表情に絹子だったものを見ている。

「絹子さん、魂だけになってしまったわ。砂糖の体を全部捨てて。半分そうなっていたとはいえ、早すぎるわ」

「あの、あの、ぼく、そんなつもりはなくて」

 人として正しいと思ったことを言っただけで――。でも、きっと正しくなどなかったのだろう。

「絹子さんは婚家でそれはそれは大切にされていたの。子供を授かって、嬉しかったの。加藤家は由緒ある呉服屋で、美しい絹子さんはお店の顔として一生懸命働いたの。……その結果、子供はお腹の中で死んでしまったの。絹子さんはおかしくなって……離縁されてしまったのよ。絹子さん、死ぬわと言った。わたし死ぬわ。死ぬわ。死ななかった。絹子さんはただ消えた」

 そうよ。わたし砂糖細工の船にいたの。

 声が聞こえる。見渡しても、彼女の姿はないのに。

 一人で砂糖細工の船にいたの。ずっと憂鬱を抱えて、一人きりで畳の部屋にいたのよ。そこは実家のわたしと繭子さんの部屋で、でも繭子さんはいなかった。お腹の赤ちゃんはわたしのお腹にずっといたの。船でも消えなかった。ずっと感じてた。赤ちゃんがいるわ。わたし嬉しかった。

 世界に恨みなんてないの「声」が言う復讐も、どうだっていいの。ただ、弱々しい自分の体が嫌いだった。赤ちゃんを宿し続けられない体が。砂糖になっても赤ちゃんがお腹にいるなんて、素敵じゃない。でも、わたしが砂糖の体を捨てたら、この子はどうなるのかしら……?

 ああ! わかる。赤ちゃんはここにいるわ。わたしの横に魂として寄り添っているの。隣にいるわ。隣でこんなによく笑っているわ。

 さっきはいらない子なんて言ってごめんなさい。わたしはあまのじゃくね。あなたがいるから、わたしは魂を維持できるの。ああ、わたしこの子を抱けるわ。温かい、この子を。

 わたし、シャンデリアの灯りになるわ。この子と一緒に。シャンデリアの灯りに、なるわ。

 気配が消えた。絹子は消えてしまったのだ。ぼくは呆然としていた。でも、隣で繭子が形を保てなくなっているのに気づき、慌ててその形を元に戻そうとした。繭子の肩は、さくりと砂糖として崩れた。

「わたし、絹子さんにつき合ってもらってたの。花しか食べないなんて、絹子さんは馬鹿馬鹿しいと思っていたに違いないのに」

「繭子さん、ごめんなさい。ぼくのせいで絹子さんが死んでしまったから……」

「死んでないわよ」

 繭子はかろうじて笑った。

「わたしと違う世界に行ってしまっただけ。でも、絹子さんがいない世界は、わたしにとって価値がないわ。わたし、絹子さんが生きるよすがだったから」

「繭子さん」

「シャンデリアの灯りになるだけよ。気にしないでちょうだい」

 繭子は微笑んだ。それからざらりと崩れ、砂糖の山になってしまった。ぼくは、叫んだ。

 わたし、小さなころから生きるのが辛かったの。美しいもの、優しいものだけに囲まれて生きたかったのに、世間はそうでもなくて。父は内気でわがままなわたしを可愛がろうとはしなかった。絹子さんは可愛がられたわ。あの人は生きづらさなんて感じていなかったもの。

 わたしは人を愛せなかった。友情だろうが男女の情だろうが、わからなかった。わたしが愛したのは物語だけ。フランスの情熱的な愛の小説に、わたしは憧れたわ。何もフランスでなら人を愛せると思ったわけではないの。ただ、ここではないどこかに行きたかった。

 学校はフランス語を学べる女学校を。それからフランス留学を。そう求めたら、女学校には行けたわ。でも、留学は、できなかった。お金がかかるのはわかっていたから、仕方がないとは思ったわ。でも、忘れたころに父は言うの。フランス留学する男を見つけた。その男とは結婚の約束を取りつけた。お前の写真をいたく気に入っていたよ。美しいと。

 この体が男に抱かれるのは死んでも嫌だった。写真であっても好意を抱かれるだけでも怖気がした。わたしは、――男と愛し合うことなんてできそうになかった。

 絹子さんはわたしをかばってくれたの。繭子さんにはまだ結婚は早い。しばらく学問をさせてやってくれと言ってくれた。でも父は、繭子は嫁き遅れだ、早く嫁がせないと世間体が悪いと言うの。

 絹子さんが狂ってしまったことで、父は余計に焦った。絹子さんのことが許婚に知られる前に、わたしを嫁がせなければと。わたし、絹子さんが消えてしまった日は心が真っ暗になったの。もう誰も守ってはくれないのだわって。

 ――結納の日が来て、わたしは顔を白く塗り、紅を差していた。わたしを待ちかねている男は、眼鏡をかけたどうしようもないくらい醜い小男だった。男が笑った。わたしは、泣き出した。笑い顔を見ただけで嫌いだとわかった。

 泣き出したわたしを周りは取りなし、それでも泣き止まないので一人にされた。絹子さんのものでもあった、八畳の畳の部屋。縁側が目の前に続き、その向こうにはコの字に囲まれた庭――。錦鯉が泳ぐ、小さな庭。わたし、歩き出したの。真っ直ぐに。

 気づけばわたしは同じ部屋にいた。ああ、逃げようとしたのに。そう思ったら、絹子さんがいたの。驚いた顔をしていたわ。絹子さんがわたしの名前を呼んだ。わたしは絹子さんを呼んだ。とっても幸せだった。わたし、砂糖細工の船にいるのだわって。

 食べなくても生きていけるから、理想的に生きられたわ。花びらの砂糖漬けを食べ、美しい着物を着、人と関わらずに生きるの。絹子さんは仕方なしにつき合ってくれていたけれど、わたし、幸せだった。絹子さんがいるだけで、幸せは守られていたの。

 部屋を模様替えして、花びらの砂糖漬けをたくさん作って、部屋では本を読み、絹子さんとは二人で出歩くの。ここでは視線を感じないの。誰もわたしたちに関心を持たないの。そんな中の日光浴は気持ちがよかった。

 生きていられたのは砂糖細工の船でだけなの。それ以外のわたしは死んでいた。だからもういいわ。復讐や恨みなんてわたしもないの。シャンデリアの灯りになるだけで、いいの。

 繭子の声は途絶えた。部屋はがらんどうになった。と、さらさらと粉が舞い落ちてきた。天井の砂糖だった。天井には穴が開き、細かなひびが入っていた。主がいなくなった部屋は、その形を保てないようだった。

 慌てて部屋から出ようと走り、ドアノブを掴んだ。でもドアが歪んで一向に開かない。

 ――おやおや。

 声がした。姉妹ではない。男の声だ。あの、言葉を使わない奇妙な声。

 ――早速絹子と繭子が体の砂糖を捨てたようだねえ。君はすごいな。二人とも元々君に興味を持っていたようだけれど、君のちょっとした一言で二人とも粉々だ。

「ここから出して!」

 ぼくは悲鳴を上げた。このままでは埋まってしまう。そしたら、ぼくまで死んでしまう。

 ――出すとも! ところで君はどう思う? わたしが考えた方法は効を奏すると思うかい? より多くの憂鬱をたたえた砂糖を回収して、赤ん坊にあげたいんだよ。

 わけのわからないことを言う。ぼくは、ただただドアを引いたり押したりする。天井の破片ががらがらと落ち始めた。

 ――赤ん坊は、わたしたちの希望だ。復讐。甘美な響きだ。君には山田光のことも破壊してもらいたいな。他にも壊してほしい住人は大勢いる。中野千代は水島孝夫が破壊するだろう。ああ、高野松子。彼女はそうだなあ。脳腫瘍にでも壊してもらおうか。

 壊す? 破壊? ぼくが? 千代のことも壊すと言っている? 水島という男が? 何で?

 クエスチョンマークが頭の中でいっぱいになり、同時に「声」に対する不信感も膨れていく。ドアは開かない。ぼくは視界を白く塞がれ、砂糖を舐めながらドアにすがりつく。

 ――ドアは開けてあげるさ。ほら。

 きい、と何でもないような音でドアは開いた。背後で轟音を立てながら部屋が崩れた。

 ぼくは廊下にいた。曲がりくねった、船の廊下。振り向き、どれが姉妹の部屋だったのかを確認する。赤いドア、緑のドア、木製のドア、金属製のドア。姉妹の部屋らしいドアはなかった。多分、もうないのだ。

 肩で息をしながら、歩き出す。ぼくは人を壊してしまった。不注意な一言で。砂糖でやっと形を作っていた人間を、二人も。二人はどうなるのだろう。魂だけとなって、そのあとは? 二人はシャンデリアの灯りになると言っていたけれど……。

 気づけば廊下の端の仰々しい観音開きの白いドアの前にいた。押し開けると――。

 一階のホールが明るかった。昨日は薄暗かったのに。

「何だか明るいじゃないか」

 思いもよらず千代が近づいてきて、不穏な目でシャンデリアを見上げる。

「また魂だけになった人がいるんだね。それも、一人じゃない」

 ぼくは、千代の着物の袂を掴んだ。千代がぎょっとしてぼくを見る。ぼくは泣いていた。

「壊しちゃったんだ」

 千代がその一言で理解した顔をした。

「魂だけになった人はね、ここで灯りになるんだ。きっとシャンデリアの中に、その人の小さな顔があるよ。砂糖でできた、シャンデリアの顔。辛いものを剥ぎ取った、澄んだ顔をしていると思うよ。砂糖にあるのは辛い記憶や思いばかりだから」

「じゃあ、二人は幸せなのかな」

「そうだと思うよ」

「じゃあ、いいのかな」

「そんなわけがない。二人はこの船に縛りつけられたまんまだからね。それに、辛いことが一切ない魂は――偽物だよ」

 千代はシャンデリアをじっと見ていた。ぼくは、その横顔を見て、その意志の強さに押し潰されそうになった。

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