7.光

 誰かがぼくの顔に擦りついてくる。親しげに、遠慮なく。こんなことをしてくれる人なんて、この世にいたっけな。そんなことを思いながら相手の顔を見ようと目を開いた。三毛だった。三毛はぼくに対して親愛の情を大袈裟なまでに表現していた。隣に寝転び、ぼくの顔全体に頭を擦りつける。ぼくの視界がどうなるかなんてお構いなしに。三毛はぼくのことが好きなんだな、と再確認し、何だかとてもありがたいような寂しいような気分になった。

「おはよう、三毛」

 昨日のままの格好だったが、汚れてはいなかった。松子の言う二十四時間は、体の垢や洋服の汚れにも作用するのだろうか、と考えて、打ち消す。嘘か思い込みに決まってる。でも、お腹がいっぱいだった。松子の話が本当なら、きっと今は正午過ぎで、自殺を企てる直前のぼくの体は当然食事をきっちり摂ったわけで、それなら満腹なのも納得できるのだった。でも、納得なんかしたくない。

 松子の言葉を否定するために、今が朝か夕方であること確認しに行くつもりだった。実を言うと昨日は靴下だけで歩き回って足の裏が痛かったので、今日は渋々大嫌いなサッカーのスパイクシューズを履いていくことにした。普段履きの靴は自宅の玄関にあるのだ。仕方がない。底に突起のあるスパイクシューズを履いたら、一段高いところから部屋を見渡せて、何だか背が高い気になって一瞬誇らしかった。ついでに初めてこの靴を履いたときの誇らしさも思い出し、辛くなって首をぶんぶん振った。黒に蛍光色で模様が入ったこの靴が、ぼくは大好きだったんだっけ。そう考えて、また首を振る。そんなぼくを、三毛は不思議そうに見ている。

「さあ、三毛。今日は一緒にいてくれよ」

 三毛を抱き上げる。三毛はぼくの体の一部のように体にちょうどよく嵌まる。柔らかなパズルのピースのように、ぼくらはくっつき合っている。

 ドアを開けた。潮の香りがした。まぶしいくらいの光。青い海、青い空、白くたなびく秋の雲。太陽は高く、少し暑く感じた。どう見ても、ほとんど正午だった。ふん、とぼくは鼻を鳴らす。たまたまだ。だからどうってことない。でも、次の瞬間、自分が元の家に戻っている自分を期待していなかったことに気づいて愕然とした。

 ぼくは、目覚めることを期待していないのだろうか。そう思って、自分にがっかりするような納得するような気持ちになった。確かにここなら、三毛と二人で、ぼくのことで悲しむ両親から離れて生活できる。飢えることもなさそうだ。トイレの心配もない。ぼくの体は自殺する直前にそれらを済ませている。そうだ、ここでずっと過ごせたらそれなりにいいじゃないか。――そこまで考えて、逃げてばかりだな、と思った。

 それでもしばらくあの家から逃げていられるのはいいと思う。あの家は、ぼくのせいで滅茶苦茶だから。

 廊下を歩き出す。適当な階段を降りる。何も考えていなかった。途中ではたと気がついて、とりあえず千代を探してみようと思った。映画室に向かおう。映画室は、ここから二階分下の三階だ。

 映画室に入ると、今度は別の映画が上映されていた。映画室の大音量には慣れない。映画館に行くのは好きだったけれど、中学生になってからは行かなくなっていたのだ。今の映画も、千代の好きそうな明るい映画で、パニック映画のような、コメディーのような、明るく正しいものだった。丸顔で中年のアメリカ人がパニック状態で子供たちを助ける。女性もいる。強くてかっこいい大人の男性が女子供を助ける話ではなく、皆で助かろうと奮闘する話のようだった。隅の席に座る。千代はいた。真ん中の席で、夢中になって映画を観ていた。彼女はどうして映画がこんなに好きなんだろう。それも、楽しい映画。ファミリー映画のように暗さのないストーリーが好きらしい千代は、どんな人生を送ってきたのだろう。

 映画が終わり、明るくなった映画室で千代はぼくを見つけた。こちらににっこりと笑いかける。

「今の映画もよかったね。あたし、好きだよ、ああいうの」

 主人公役の俳優が何年も前に自殺してしまったことは言えなかった。彼女の前でそういうことを言うのは、何故かためらわれた。昨日の映画も今日の映画も、不幸な現実をタイムマシンやゲームの魔法の力で変えるというものだ。映画を二本、一緒に観ただけなのに、ぼくにはそういうためらいが生まれていた。

「ぼくも小さいころに観たよ。家でだけど」

「家で映画が観られるっていうのかい?」

 千代はこちらが嬉しくなるほど驚いてくれた。大したことじゃないのに。

「ぼくの時代じゃどこでも家に小さな映像を映し出す機械があるんだ。テレビっていうんだよ」

「映画で見たことがあるけれど、あれはどこにでもあるんだね。すごいねえ」

 ぼくはうなずく。千代はとてもいい子だ。女の子が皆こんな風だったらいいのに、と思わせてくれる。ぼくみたいな取るに足らない存在にも親切にしてくれるような。

 秋山さんはぼくを言葉で痛めつけることに快感を抱いていたようだった。ぼくには何の権利もなく、自分には他の人間を従わせる権限があるとでも思っているかのようだった。

 マネージャーの石川さんは、ぼくをからかい、時には軽く殴る中島を、強くて明るくて格好がいいと思っているようだった。彼女はそういう中島に好かれるため、彼がぼくに何をしようが憧れの目で応援していた。「やっちゃえー」と言いながら中島に聞こえるように手をメガホンの形にする彼女は人によっては健気に見えただろう。

 千代は違う。ぼくを人間として扱ってくれる。でも、あのころもぼくを絶望させない女の子はいたんだっけ。別に暗いわけでもないのに友達が少ないあの子。あの子はどうしているだろう――。

「新しい女の子に会いに行ってみよう」

 千代が突然提案した。ぼくは狼狽する。新しい女の子が、秋山さんや石川さんのような女の子だったら困る。断りたかった。でも、千代が手を合わせて「頼むよ」と言うのだ。

「あたし、新しい女の子と仲良くなりたいんだ。でも、一人じゃ話しかけられないんだよ」

 そう言われても、困る。ぼくはその女の子に全く関心がないのだ。むしろ、会う前から怖がっている。そう説明すると、「女の子が怖いのかい?」と不思議そうな顔をされた。顔がかっと熱くなった。その勢いで、千代の話を了承してしまった。千代の顔がぱっと明るくなる。

「じゃあ、善は急げ。早く行こう」

 千代がぼくの手を引く。千代の手はあかぎれでささくれていて、手を取られたことよりもそのことにびっくりした。

「その子はどこにいるの?」

「大体は植物園にいるねえ。ほら、屋上だよ」

 植物園があるのか。でも、それどころじゃない。恐ろしさのあまり、ぼくの心臓は暴れていた。


     *


 植物園はぼくのいる階の上にあり、当然のことながら空気にさらされていた。海の塩気に飽きるのを通り越して慣れてきたぼくにも、その場所の清涼さは気持ちよかった。クスノキが植えられ、巨樹になっているところもあれば、ヤシの木が立ち、水辺になっている個所もある。ハーブ園もあり、彼女はそこにいた。

 山田光はそこにいた。特に目立つほどではないけれど、彼女は整った顔と長い肢体を持っていた。背が高く、ぼくより十センチほど高いのはよくわかっていた。学校ではポニーテールにしていた背中までの黒髪を、下ろして風になびかせるままにしていた。着ているのはブルージーンズに白い七分丈のTシャツだった。ぼくが彼女の私服を見るのは小学校ぶりだった。彼女はあのころも背が高く、でも、中学校時代とは違って明るかった。

 ぽかんとしているぼくを尻目に、千代はオレンジ色の着物の袖を風になびかせながら歩き出し、とうとう光に話しかけた。何だ、ぼくの手助けなんていらなかったじゃないか。そう思うけれど、ぼくは茫然と彼女を見てばかりいた。

 光はしばらく千代と話し、かすかに笑った。千代が振り向き、ぼくを手招く。その瞬間、光はぼくを見て驚いた顔をした。ぼくも、ほとんど無意識に歩き出していた。

「山田さん、ひ、久しぶり」

 千代が目を丸くする。光は戸惑ったようにぼくを見る。

「まあ、夢なんだと思うんだけどさ、会えて嬉しいよ」

 彼女は学校で唯一、ぼくを馬鹿にしない女子だった。どうしてぼくのような小さな存在を普通に扱おうと決めたのかわからない。彼女がぼくに挨拶をし、消しゴムを借りるたびに、カーストのてっぺんの女子たちは汚そうに見ていたから。彼女はぼくを人間として扱ってくれた。ぼくは彼女のことが、恋愛感情などというまだよくわからない感覚とは無関係に好きだった。

「坂口君、あの、どうして……」

「ぼく、何ヶ月か引きこもっててさ。知ってるだろうけど。で、色々あって、ここにいるんだよね」

 自殺未遂したことは言えなかった。あのときはあんなに真剣だったのに、今は格好が悪い気がした。

「わたしも、色々あってひと月前からここにいる」

 彼女の表情は頑なな感じがした。絶対に言えない何かがあるようだった。光はローズマリーの一枝を持っていた。二メートルほどに育ったそのヨーロッパの植物は、涼し気な優しい香りをさせていた。ぼくも同じ木の枝先をちぎり、それを嗅いだ。強烈な香りが鼻腔に入り、思わず咳をして枝を取り落としてしまった。

 光がくすくす笑う。ぼくは恥ずかしさで咳を止め、最後にえへんと咳ばらいをした。

「坂口君、相変わらずだね」

「何? 相変わらず間抜け?」

 少し傷つき、それでも冗談っぽく訊くと、光は微笑んだ。

「人をほっとさせるところが、変わってない」

 ぼくは意外に思って光の顔を見た。彼女は目尻を細めて笑い、嘘を言っているようではなかった。

「あんたたち、知り合いだったのかい?」

 千代が割って入り、にこにこ笑った。光はうなずき、それを見てぼくも同意した。知り合いじゃないと言われたら、黙っているつもりだった。光はいつでもぼくに尊厳を与えてくれる。

「三毛にも会わせておやりよ。三毛を見たら誰だって大喜びするよ」

 千代がそう言うので、ぼくは植物園に入った瞬間に草原に逃げた三毛を探しに行った。三毛はサルスベリの木の枝に登ろうと、四苦八苦していた。

「次はもっと登りやすい木にしろよ。さあ行くぞ」

 三毛が不満そうににゃあと鳴く。それに構わず連れていくと、光はぱあっと顔を輝かせた。

「猫!」

 三毛を抱かせると、光は嬉しそうに目を細めた。柔らかい猫の感触は、いつだって気持ちいいものだ。生き物を抱いているという温かい体の感覚も、生きていると思わせる。

「これ、坂口君の猫?」

「うん」

「三毛っていうの?」

「うん」

 かわいい、と光は三毛の背中に鼻をうずめた。三毛は大人しくされるがままになっている。

「いつから飼ってるの?」

「五年生のときからかな」

「小学校のころか。……三毛が子猫のころに、坂口君の家に遊びに行けばよかったなあ」

 どきりとするが、小学校のころはぼくもそれなりに友達がいたから、それもありうる過去だったな、と思った。女の子の友達は少なかったけれど、ぼくには友達がいたのだ。

「夢の中だけどさ、また会おうよ。ぼく、山田さんに会えて本当に嬉しいんだ」

「……夢の中、ね」

 光は三毛を抱いたまま、憂い顔になった。それから笑みを作って三毛を地面に下ろし、自由にさせた。光は皮肉めいた顔になり、こう言った。

「これが現実だったほうが、よくない?」

「何言ってるんだよ。ぼくら、夢の中にいるんだから、目覚めないと……」

「わたしはこっちのほうがいいな」

 何か反論しようと口を開いた瞬間、植物園に人の声が響いた。

 ――諸君、お集まりいただいてありがとう。船の客を集めるのは一旦これで打ち切りとしよう。噂はお聞きだろう。ここで死ぬと船の灯りにされるってね。でも、本当は死ぬんじゃないんだ――。

 青年のような、老人のような声だった。どこの言葉だろう、と一瞬思い、これが言語を使った声ではないことに気がついた。頭に直接流れ込んでくるような、概念だけの表現。言葉はどこにもなかった。ただ、声だけがぼくらに聞こえていた。ぼくらに、というのは光も千代も懸命に耳を澄ませる顔をしているからだった。同じ内容が聞こえているのかは、わからなかった。

 ――君たちの魂から、砂糖を全ていただきたい。この船の材料にするわけではない。船はもう完成している。赤ん坊の栄養にしたいんだよ。わたしたちの最後にして最大の武器だ。

 ――復讐を考えている者も多いと思う。それはこの赤ん坊を育てることで叶うんだ。簡単だろう? 君たちの魂の不純な部分、そう、いらない感情、人生の雑味、堂々巡りの思考、全てを手放して砂糖にするんだよ。そして自由になる。優雅だろう?

 ――永遠に船で暮らして、壊れていく故郷を見つめて、ワインを飲みながら、最高の笑みを浮かべるんだ。

 ――完全なる自由は、砂糖を出し切ってからやって来る。自由。いい言葉だね。

 ――君たちにはストレスが足りない。それでは砂糖が取り出せない。

 ――今から君たちに試練を与えるよ。他人に関心を抱いて仕方がない、という試練さ。

 ――それじゃあ、頑張ってくれ。

 ぶつん、と声は途切れた。ぼくは意味がわからず首を傾げた。でも、千代は青ざめ、光はうっとりとした顔をしていた。三毛は相変わらずで、さきほどのサルスベリの木に再挑戦していた。

「何だろう。砂糖って?」

 ぼくが独り言を言うと、光が笑みを浮かべて答えた。

「舐めたことない? この船は砂糖でできてるんだよ」

 驚愕した。夢だとはいえ、荒唐無稽な気がする。

「いらない感情……」

 光は遠くを見つめ、憧れるように微笑んだ。ぼくにはそれがひどく不健康に見えた。

「あたしは部屋に戻る」

 千代は先程とは打って変わって怯えた顔になっていた。ぼくはその真意がわからないまま、見送った。

「ね、坂口君の部屋に行こうよ」

「え?」

「わたしの部屋、あんまり好きじゃないんだ。模様替えできたらいいのに」

「いいけど」

 突然の申し出に驚いた。一応うなずくが、何かが一瞬にして変わっている気がした。例えば、光はぼくに対する距離を縮める気になっていた。さっきまでの距離のほうが自然だという気がした。

 何が起こっているのだろう。そして今の声は何だろう。不安が、ぼくの胃の腑を撫でまわした。

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