6.千代の楽しみ
どうしてこんなことになっているのかわからないが、ぼくは女の子と一緒に映画を観ていた。途中から観ているので内容はよくわからない。主人公の少年がギターを掻き鳴らし、熱中しすぎて舞台下の人々を白けさせる展開になり、何だか自分が主人公の代わりに恥をかいた気分になった。そのまま映画は続いていく。
ぼくがいるのはどうやら船の映画室で、ここだけはグレーの座席と臙脂色の緞帳で成り立っていて、多分白だと映画の光を反射させてしまうからだな、と思う。映画室は女の子とぼくを除けば無人だ。真ん中辺りの席に、ぼくと女の子は並んで座っていて、女の子は食い入るように映画を観、時折笑う。
この子はいつの時代の子なのだろうな、と思う。オレンジ色の着物を着、中にある襟は黒く、髪は五千円札の女の人のような形に結っている。お団子と呼ぶにはあまりに複雑に結われている後頭部に、鼈甲の櫛が挿してある。顔立ちはぼくと同い年くらいに見える。ぼくより随分大人びているようにも、ひどく幼いようにも見える。
ここにいるのは、彼女が廊下で三毛を撫でていたからだった。気の立った三毛を慰めるように声をかけ、背中をそっと撫でていた。三毛は見る見るうちに落ち着き、みゃーん、と長く鳴くと、またどこかに行った。それを追いかけようとしただけなのだ。なのに突然声をかけられた。
「どこに行くんだい?」
女の子はにこにこ笑っていた。丸顔で、素朴な顔立ちだった。猫の毛を払うように手をぱっぱっと払うと、屈託なくまた笑った。
「今の猫、捕まえようと思って……」
ぼくが答えると、女の子は「駄目だよ」と唇を尖らせた。
「あの猫はね、今一人になりたいんだよ。放っておいておやりよ」
でも、とこちらも唇が細くなっているところを、彼女は手招きをして呼んだ。
「それより『えいが』の面白いのがやっているよ。おいでよ」
渋々、ついて行く。ここは三階で、船の舳先のほうに向かうイメージで廊下を進むと、突然開けた場所に出た。薄暗いのはこの場所では当たり前だが、その空間は特に胡散臭い感じのする暗さだった。白い両開きのドアを、女の子は押し開けた。小部屋があり、その奥の同じようなドアを開く。途端に、少年のパニックに陥る声が聞こえてきた。驚いて周りを見渡し、スクリーンの中の少年を見つけ、自分が映画室にいることに気づいたのだ。
女の子は真ん中に陣取ってぼくを隣に座らせ、目をきらきらさせながら映画に熱中し始めた。そして今に至るというわけだ。正直、映画は何だか古いし、アメリカが舞台らしいその映画の役者たちが全部わからないし、日本語の声優は大袈裟だ。けれどぼくも面白く感じ始め、しまいには主人公が家に帰りついたシーンでほっとし、コメディー部分で声を上げて笑ってしまった。続編に続く、と言わんばかりの終わり方で映画はエンドロールに入り、満足しながら女の子を見た。女の子はやはり笑っていた。
「面白かっただろ? あたしの一番好きな『えいが』だよ」
彼女は「映画」という単語を言いなれていないようだ。ひょっとして映画がない時代から来たのだろうか。
「ぼくは坂口優。君は?」
今日初めて自己紹介をした。思えば多くの人と話したが、誰にも自分のことを話さなかったのだ。松子はぼくにカレーライスを食べさせて満足していたし、繭子と絹子の姉妹は無言が多かった。多分三人とも船で人と話すのに慣れていないのだろう。それにあの奇妙な男とはコミュニケーション自体しないほうがよさそうだった。自分のことを伝え、相手のことを知りたいと思ったのは今が初めてだった。
女の子は戸惑ったように笑い、しばらく黙った。
「訊いちゃいけないのならいいよ。ぼくだってこの船の人たちにはあまりお近づきになりたくないし」
ぼくが慌てて言い足すと、女の子は「下の名前だけ」と小さな声で言い、こう続けた。
「あたしは千代。お千代さんとかちいちゃんとか、小さな時分には色々呼ばれていたけれど、あんたの好きなようにお呼びよ」
「じゃあ、千代さん。君はどの時代から来たの?」
千代はまた黙った。これはどう頼んでも教えてくれないな、とわかった。千代には秘密が多いようだ。訊くのは諦めて、ぼくは立ち上がった。
「じゃあ、ぼくは部屋に戻るよ。三毛が、さっきの猫が戻ってきてるかもしれないし」
「さっきの猫はあんたのなんだね」
千代はまた笑みを浮かべた。笑うたびに彼女の目はおたまじゃくしのような形になる。
「いいこと教えてあげるよ」
彼女は周りを見渡し、相変わらず誰もいないことを確認してからぼくに近づいた。ぼくの耳に手を当て、口を近づける。
「この船にはね、ひと月前から別の女の子がいるんだよ。多分あたしたちと同い年くらいだと思う」
そのささやきで、ぼくは体をびくっと震わせた。女の子は、苦手だ。それも、千代のようなぼくからしたら現実離れした女の子ではない、今どきの女の子。
「あたし、その子がひどく辛そうで、見てられないんだ」
今度は体を離し、千代はそう言った。
「きっと大変な目に遭ったんだよ。あたしはあの子と、仲良くなりたい」
千代は遠くを見つめる。エンドロールはいつの間にか終わっていた。間髪入れずに次の映画が始まる。吸血鬼ものの白黒映画のようだ。
「あたし、この映画は嫌いだよ。出よう」
千代はぼくの腕を引っ張り、廊下に連れ出した。それからとうとうとぼくに新しい女の子について話し始めた。髪は背中までの長さで、垂らしている。とてもかわいい子で、スカートはびっくりするくらい短くて、膝丈ほど。鼠色のセーラー服を着ていて、胸に白い校章が縫いつけられている――。驚いた。もしかするとそれは、ぼくの通う中学校の秋の制服だ。見た目はぼくたちと同じくらいだというし、この船に同級生がいるかもしれない。そう思い始めると、震えが止まらなくなってきた。ぼくを罵倒した秋山さんたち、ぼくがリンチされるのを笑って見ていたマネージャーの石川さんたち――。吐き気がして、立ち止まる。
「どうしたんだい?」
千代は心配そうにぼくの顔を覗き込む。
「真っ青じゃないか。あたし、何か悪いことを言ったかい?」
千代は暗い曲がりくねった廊下の向こうに目をやった。途端に顔が青ざめた。振り向くと、男がいた。背が高く、きちんとしたグレーのスーツを着、中にはベストも着ていて、イギリスの紳士のようにも見えた。顔を見れば男はアジア人だとわかったけれど。男の顔にはひっかいたような深い傷がいくつもついていて、先程三毛を殺そうとした男であるのは明白だった。ぼくは声が出なかった。男の銀縁の丸眼鏡が、ぼくを見てきらりと光った。目を逸らす。千代のいたほうを見るが、彼女はいつの間にか消えていた。どこに行ったのだろう。ぼくは目を逸らしたまま歩き出した。男の前を無言で通り過ぎ、男が何も言わずにこちらを見ていることに、言い表しようのない気持ち悪さを感じていた。
どうにか階段を見つけ、駆け足で上る。最上階に戻り、右舷側にある廊下に出ると、ほっとした。濃厚な潮の香りが、ここは開けた場所なのだと教えてくれていてありがたかった。
部屋のドアを開けると、そこはぼくの部屋で、相変わらず散らかっていて、けれど日常に戻れたような気がして心の底から安堵した。灯りをつけるとベッドには三毛が丸くなって眠っていて、何だか涙が出て来た。
「お前のせいでひどい目に遭ったよ」
ぼくは真ん中に寝る三毛を起こして少しずらし、ベッドに転がった。背中がじわっと解きほぐされる感じがあった。ぼくは眠った。三毛と一緒に。
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