5.男とカナリア
松子の話に混乱していた。ぼくはこの状況を夢だと思う。でもこの世界の一部である松子がこれは夢ではないと言う。その上時代は進んでいっているし、やって来る人たちの雰囲気や服装が見たことのない時代のものになっていっている、と松子は続けた。でも、とぼくは思う。証拠なんてないじゃないか。これは夢だ。それもまた証拠がないけれど。
松子の部屋を出て、一階のホールに行く。ここは廊下と比べたら幾分か明るい。人の形をしたランプはここにもあるが、ホールにはいくつかシャンデリアがあり、そこには無数の灯りが燈っているのだ。白い三角錐のシャンデリアは網目状になっていて、その間から光が煌々と漏れる。それによってホールの中がこの夜でもある程度は見える。だけど、もっと明るくすべきだな、と思う。
一階に降りてきたのは、三毛がこの階のデッキでいなくなったからだった。まさかぼくが来るまで待っているしおらしい猫でもないし、自由奔放にどこかに行っているに違いないが、ここから始めるのが一番いいと思ったのだ。夢遊病者たちは夜になってもホールでぼんやりとしたり、昼と同じトランプ遊びを一人で続けていたりして、それらの奇妙な人々を無視するかのように、ぼくはデッキに続くガラス戸を押し開いた。
もうかなり慣れてしまったが、外に出てみると特にここは潮の香りが強い、と感じる。ざざーん、ざざーん、と波の音が聞こえるが、ぼくが聞いたことのある波の音と言ったら五歳のときに海辺に行ったときくらいで、海の光景はあまり覚えていないし、暴力的に、からかうように近づいてくる波を嫌がるぼくに父さんはうんざりしていた。水を怖がって泳げず水泳教室を三日で辞めてからは、ぼくの運動神経の悪さや水嫌いに心底愛想を尽かしたようだった。父さんはぼくに愛情を持っていたと思うが、ぼくに諦念を抱いていたのは確かだ。ぼくだって出来損ないのぼくが嫌いだ。どっか行っちゃえよ、と思うときがある。体を捨てられたら、魂だけで生きられたら――。
考えに耽っていて、ふと闇の中に白いものがちらちらと動いているのが見えた。波の音に紛れてはいるが、うめき声も聞こえる。目を凝らし、耳を澄ます。それから気づいた。三毛だ。三毛が男に首根っこを掴まれて暴れている。猫の怒りを含んだ悲鳴が聞こえてきた。よく見たら、男は三毛を手すりから落とそうとしている。下は、海だ。
「やめろ!」
夢中で走って男にしがみつき、三毛に手を伸ばす。三毛は瞳孔が開いている。夜なのもあるが、きっと恐怖だ。助けなければ。三毛が殺されてしまう。
「何だね、君は」
男は三毛を高く掲げてぼくを不愉快そうに見た。顔ははっきり見えないが、ホールのガラス戸越しの光が眼鏡の銀縁を光らせた。
「三毛を返せ! 返せ!」
暴れるぼくを、男は三毛を掴んでいないもう片方の手で突き飛ばした。転びそうになり、もう一度向かっていく。どん、と男の胴体にぶつかり、高く掲げられていた三毛は揺れて男の腕にたどり着いた。そして大暴れでぎゃぎゃぎゃ、と鳴きながら男の腕や顔を引っ掻き、そのまますごい勢いで床に降りて、走り去った。またはぐれてしまったのだ。
「何なんだ!」
男は憤慨してぼくに詰め寄る。
「ぼくの、猫なので……」
相手は大人の男だということに思い至り、ぼくは突然気弱になった。腕力で敵わない相手に歯向かって、いいことはないから。
「そんなことは関係ない。猫がね、わたしのカナリアを狙っていたんだ」
「それは、申し訳ないと思います。でも殺すことはないと思うんです」
「カナリアが怯えているよ。あの猫のせいだ! クルよクル、怖かったね。わたしがいるから大丈夫だ」
突然優しい声になった男は、どこかぼくではないところを見て慰めるような仕草をする。どう見てもカナリアなど連れていなかった。肩や頭や手を見たが、鳥籠どころかカナリア本体もいなかった。
「カナリア、がいるんですか?」
「いるだろう、ここに! 何を言っているんだ。君も馬鹿にするのかね? カナリアなどいないというのかね?」
男の口調に金属の擦れるような気味の悪い音色が混じり始めた。ぼくは後ずさる。
「いるだろう? どう見てもいるだろう? ほら、見ろ!」
ほとんど金属音になってしまった男の声は、真っ黒な海と空に吸い取られていく。銀縁眼鏡が光る。きらりきらりと丸い小さな形を表す。ぼくはそっと後ろに下がり、男の声が落ち着き始め、人間の声になり、優しい、不気味なほど優しい声になり、
「……どうして逃げるんだい?」
という声が聞こえた瞬間、全速力で走り出した。逃げなくてもいいじゃないか、という男の声は、すっかりあの金属の音となって響いた。ぼくは背筋を凍らせながら三毛の逃げた左舷側に走り、大急ぎで適当な階段を上がった。
多分、あのままあそこにいたら、ぼくは殺されていた。
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