4.松子

 女は、きゃあ、きゃあ、と叫びながらホールを駆け抜けていく。夢遊病者に見える周りの外国人たちは、全くの無関心でこちらをちらりとも見ない。皆自分自身の問題に没頭していて、他人にかかずらっている暇はないかのようだ。「三毛を返して!」と叫ぶが、女を怖がらせるだけだった。ぼくの言葉も聞こえていないのかもしれない。女はガラス戸の一つをぐいっと押し開け、三毛を抱いたままデッキに出た。ぼくも同じようにガラス戸を押し開ける。女は目の前で三毛を抱いたままぼくを見ていた。化け物でも見るような目だった。

 女は短いおかっぱの髪を緩やかにカールさせた髪型をしていた。服装は古臭く、昔のアニメに出てきそうな膨らんでいないこげ茶のスカートにクリーム色のブラウスを身に着けている。四十歳と少しくらいに見え、ただただ弱々しい顔立ちをしていた。うちの母さんと口喧嘩をしたら、きっとこの人はあるとき突然わっと泣き出してしまうだろう。そんな顔だ。

「何なの? わたしが何をしたの?」

 女は顔立ちに似合った細い声を震わせながら、ぼくに向けているのか他の誰かに向けているのか、判然としない口調で質問した。

「猫を返してほしくって」

 ぼくは思ったより冷静だった。人を怖がらせたことには罪悪感があったが、ここまで怖がられるといっそ滑稽だった。自分よりも背の低い子供に怯える大人なんて、奇妙でしかない。

 女は三毛をぎゅっと抱きしめた。三毛は少し迷惑そうに前足を突っ張る。

「ミーちゃんはわたしが見つけたの。わたしの猫よ」

 もう名前をつけているのか。少し呆れ、一歩近づく。女は後ずさる。

「子猫のころからぼくが育てたぼくの猫です。名前はミーちゃんじゃありません。三毛です。返してください」

 段々口調が強くなってきた。自分より弱い相手が目の前にいると、ぼくはこういう悪い癖が出る。そして中島やその腰巾着たちを思い出して苦々しい気分になる。ぼくもあいつらと同じ仕組みの心を持っているんだなと思って。

「猫くらいいいでしょ」

「猫くらい、と思うのなら返してください」

 女はよりしっかりと三毛を抱き直す。すると三毛がするりと腕の中から抜け出して、白い床に飛び降りた。捕まえようとするが、またもや猫の俊敏さで走ってどこかに行ってしまった。大急ぎで追い、三毛が右舷側の廊下に入ってしまったのを見て、諦めた。追いつきそうにない。

「行っちゃった」

 女は泣きださんばかりに顔を歪める。わたしは孤独だ、誰か助けて、と主張しているようで何だか苛立った。そのまま去ろうとしていると、思いがけないことが起こった。ぐう、とお腹が鳴ったのだ。

「お腹が空いてるの?」

 女はそっと訊く。ぼくは必死で首を振った。こんな弱みをこの女に見られたくなんかなかった。でも女は、哀れみ深く微笑んでこう言うのだ。

「わたしの部屋に来ない? おいしいカレーライスをごちそうするわ」

 不安定でころころ表情の変わる中年の女。不安がよぎるが、ぼくは確かに空腹だった。まるで首輪をつけられた犬のように、ついて行く羽目になってしまった。

「わたしは松子。人と話すのは四十八年ぶりだわ」

 女について行きながら聞いた具体的な数字にめまいがする。この夢の世界ではどういう風に時間が流れているのだろう。ぼくらはホールの奥の大きな階段を上っていく。立派な階段だ。太いのが真ん中にあり、左右に分かれて細いのが続いている。貴族のお城にあるもののような。松子は二階に着くと、ここでは当たり前らしい混沌とした廊下を進んでいった。

 それにしても、ここには外国人が多い。すれ違う夢遊病者たちは皆ぼくらとは言葉が通じそうにない見た目をしている。豪華客船という設定で、外国人も多いのだろうか? きっとそういう夢なのだろう。そう思っていたら、松子から意外な話を聞いた。

「ここは世界の縮図なの。日本人のほうが少ないのね。誰とも話さないから関係ないけど。世界中から人が集められているのよ。わたしもあなたも選ばれたのよ」

「選ばれた?」

「あなたは特別なのよ」

 詳しく聞く前に、松子の部屋に着いた。そこは黄色のペンキ塗りのドアと木製の板チョコみたいなドアの間に挟まった鉄製のブルーグレーのドアで、新聞受けもある。それがぎいっと開くと、ぼくは奇妙な部屋に迷い込んだ気分になった。

 人形が、たくさんある。棚という棚に並べられた、生きているかのように写実的な人形。大きさもまちまちで、人間の子供ほどのものもあれば小さな胸像のようなものまである。ひざや肩に継ぎ目がある。球体関節人形なのだと、松子は説明した。

 部屋は粉っぽかった。人形を削ったり、専用の粘土が乾いたりしたときに出る粉らしい。広い四角い部屋は、中央の作業台らしいテーブルと棚とこげ茶色のソファー以外に家具がなく、殺風景になりそうなものだが、人形たちのお陰ですさまじい生命感に満ちていた。

 松子はぼくを隣の部屋に案内した。そこは居室らしく、人形が数体飾られている以外は、レースの敷物や小さな本棚や赤いソファーセットのお陰で普通の部屋の印象だった。

 松子はメモを取り出し、何かを書きつけた。それを先程の鉄製のドアの下に入れる。――メモはすぐに引き抜かれた。そして数秒後にがらがらと何か車輪のついたものがドアの前に来たのがわかった。彼女はドアを開け――そこにはカレーライスの乗った台車があった――皿を手に取るとドアを閉めた。ぽかんとしているぼくに、彼女は手品を披露したかのような得意そうな顔をして見せた。

「今のは……」

「ルームサービスよ」

「人がいたんですか?」

「いいえ」

 口をつぐみ、変な夢だ、と自分に言い聞かせる。それから差し出されたカレーを食べ始める。がつがつと、動物のように。

「お腹が空くかもしれないけれど、ここに来た時間が来たら、体は元に戻るわ」

 顔を上げ、松子がにこにこ笑いながらぼくに話しかけるのを見る。どういう意味だろう?

「ここでは来た瞬間から時間が止まるの。二十四時間分の揺らぎだけがあるの。あのね、これは夢じゃないわよ」

 ぎょっとして松子を凝視する。松子はひどく辛そうな顔で、ため息交じりにこう言った。

「夢だからすぐに現実に戻れるって思ったわ。でも、四十八年経っても戻れないのよ」

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