1.三毛とぼく

 変な夢を見て目が覚めて、ぼくはああまた一日が始まるのだと思った。とは言ってももう昼だ。今はベッドに横向きに寝ていて、枕に頭を載せて寝ているのは猫の三毛だった。足が布団から出ていたので随分冷えている。急に寒気を感じて、ぼくは大きな動きで起き上がり、三毛を追い払った。

「しっしっ。ここはぼくのベッドだぞ。何でここにいるんだよ」

 三毛はベッドからフローリングの床に落とされ、恨めしそうにぼくを見る。それから身づくろいを始める。前足を舐め、後ろ足を跳ね上げて舐め、人間なら十分ストレッチになりそうな動きで体をきれいにしていく。ぼくはたまたま昨日入ったが、風呂には三日に一度しか入れていなかった。三毛のほうがよっぽど清潔だろうな、と思うと情けなくて笑えて来る。

 部屋は昨日のまま、乱雑に散らかっている。漫画の山は崩れ、テレビの前のゲーム機は押しやられたままだ。箪笥も引き出しが開けっ放し。母さんも父さんも、ぼくの部屋を整理する気がないし、部屋の主のぼくもそうなんだから当然だろう。

「優、起きたの?」

 ヒステリーを含んだ母さんの声が聞こえた。ぞっとする。ぼくは寝ていることにしようと抜き足差し足でベッドに戻った。でも階段を上がる音がどんどん近づいてきて、ぼくがベッドに飛び込むころには問答無用でベニヤのドアが開けられた。

「起きてるんでしょう? なら返事をしてよ!」

 母さんは泣きそうだ。ぼくは無言で三毛を見ている。三毛は隅っこに隠れてぼくらを見ている。猫だもんな。この事態をどうにかするなんてできないよな。嵐が去るのを待つしかないんだから。そう思いながら、ぼくはぼくでパニックの発作に襲われそうになっていた。

「わ、悪いとは思ってるよ」

「ならすぐに返事をして! 下にご飯を用意してるから降りなさい」

 母さんは震えながら部屋を出ていった。ぼくも、呼吸が荒くなっている。

「優、起きたか」

 リビングに着くと、父さんが紺の背広姿で立っていた。ぼくはパニックが強くなる気配を感じた。父さんは、仕事じゃないのか? だって平日の昼間じゃないか。

 とりあえずぼくら三人は無言で食卓を囲んだ。ロールキャベツに野菜スープに炊き立てのご飯。おいしい手作りの昼食。いつもの昼食より豪華なのは、父さんがいるからだろうか。三毛は何も食べていない。三毛は、ぼくの部屋のドアにある猫用の出入り口を使って食事をもらいに行けるのだ。

「優、父さんは裁判を起こそうと思ってるんだ」

 食事を終え、父さんが静かに言った。

「必要なことだと思う。お前の心はぐちゃぐちゃにされたんだ。殴ったり、蹴ったりされた。まだ残ってる傷はあるだろう?」

 右腕の打撲した部分が痛んだ。多分ここはまだ紫色だ。パニックが、喉をせりあがってくる。

「診断書を書いてもらおう。学校と監督を訴えるんだ」

「い、嫌だ」

 ぼくははあはあと息をしながら訴えた。両親は信じられないものを見る目でぼくを見ている。

「み、皆がぼくに注目する。もう、それは嫌なんだ、怖いんだ!」

 もう、いっぱいいっぱいだった。サッカー部でいじめに遭い、暴力を使っておどされた。金を奪われた。プライドはずたずたにされていた。もう、戦う余力はぼくにはなかった。できることがあるとすれば、逃げること。それだけだった。中島がぼくをサンドバッグにして軽くジョブをしたあと、思い切り回し蹴りしてきたときのあの恐怖と痛み、女子マネージャーが笑っていたこと、皆が興味なさげにぼくを見ていたこと、怪我をしたぼくを見た監督が無感動に「保健室にでも行ってこい」と言ったこと、全てがぼくにとどめを刺した。ぼくはもう二か月も前に、人間として終わっていた。

「お前は何て臆病なんだ」

 父さんは苛立ちと呆れの入り混じった顔でぼくを見た。母さんはため息をついて皿をダイニングのシンクに持って行く。

「あのなあ、恥ずかしくないのか? お前にはプライドがないのか? おい!」

 父さんがぼくをてのひらで押した。ぼくはよろけ、そのまま走りだした。父さんが呼ぶが、もう振り返る気はなかった。階段を駆け上がり、部屋に入る。しばらく前に持ち込んだ麻紐を、箪笥の下着類の一番下から取り出した。それをカーテンレールに縛りつけ、輪っかの部分に顔を通す。猫の声が聞こえた。三毛だった。ぼくの顔は涙でぐちゃぐちゃだろう。情けない死に方だ。首吊りは汚い死に方で人に迷惑をかけると聞いた。それでもやめることはできなかった。三毛がしきりに鳴くが、ぼくは三毛に笑いかけることもできなかった。

「さよなら、三毛」

 体を床に向かって滑らせると、輪は狭くなった。息は止まり、苦しくなり、でも、思ったより気持ちよく、ぼくは意識を遠のかせた。優しい音楽が聞こえてきた。その音色は楽しかった小学校のころの音楽室で聞いたものと同じだった。

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