2.波の音

 三毛の声が聞こえる。にゃあん、にゃあん、としつこく鳴き続ける。ぼくは死んだはずだ。三毛の声なんか聞こえないはずだ。なのに、足元にまとわりついてくるこの温かさや柔らかさは、確かに三毛のものだった。

 失敗したんだ。そう思うと気が抜けてしまった。絶望的な気分は、少し和らいでいた。ただ、この二か月間続いていた憂鬱が、静かにぼくをくるんでいた。

 目を開けるとそこはぼくの部屋で、何だか暗く、電灯のスイッチを入れる必要があった。首から麻紐を外し、のろのろとドアの横のスイッチを入れると、明るくなった。いつの間にか夜になっていたのだろう。三毛を抱き上げると潮の香りがした。また変なものを体にこすりつけたんだろう。この辺りは内陸地で、海なんてないんだから。

 ぼくはお腹が空いていた。しばらく時間が経ったのだから、仕方がない。父さんはもう出かけているだろうか。母さんはパートに行っただろうか。抜き足差し足で歩く。死のうとしたなんて知ると、ますます騒ぐだろうな。死んでどうなるなんて思ってなかったけど、本気だったあの時のことは、今では嘘のようだ。もう死ぬ気は起きない。

 波の音が聞こえた。波打ち際と言うよりは、海の真ん中にいるような。ゆっくりと、小豆を転がすような音が、ざざーん、ざざーん、と絶え間なく聞こえる。テレビかラジオの音が聞こえているのかと思い、身をすくめる。両親がいるかもしれないからだ。お腹が鳴り、空腹感が途端に強まる。そんなこと、言っている場合じゃない。

 ゆっくり、ゆっくりとドアを開ける。まばゆいばかりの光が部屋に差し込んでくる。夜じゃないのだろうか。なら何であんなに部屋は暗かったのだろう。強烈な潮の香りがしてきた。父さんは弁護士のところに行くのをやめて、魚釣りにでも行ってきたのだろうか。勇気を出して、ドアを思いっきり開いた。

 そこは海だった。どこまでも続く広い海。波打った海面が、確かに動いている。ぼくはぽかんとする。周りを見ると、白い床、白い壁、白い手すりが左右に延々と続き、壁には大小様々なドアがひしめくように並んでいる。ぼくの猫用ドアつきのベニヤのドアはどのドアよりもみすぼらしい。どれも立派な鉄や木のドアで、大きくてライオンのノッカーがついた立派なドアもある。色も様々だ。赤もあれば黄色もあり、何だかネットで見たブラジルのスラム街の写真を思わせる。

 ぼくの部屋の広さを考えるとおかしいくらいにドアは隣同士くっついている。夢だ、と思った。こんな場所、ありえない。ぼくは部屋のドアを再び開き、また中に戻った。三毛を抱いて。


     *


 でも、空腹だ。どう考えても。ぼくは悶々と考えながら、三毛を猫じゃらしで遊ばせていた。三毛は若い猫で、まだ二歳にならないくらい。可憐な猫で、ぼくによくなついている。小学生のときに近所からもらった三毛猫の三毛は、ぼくの片割れとも言っていいくらい、ぼくの生活に馴染んでいた。

 先程から何度もドアを開き、ベッドで寝て、起きて三毛を連れて外に出ている。時間が過ぎて夕暮れに近づいていくばかりで、やはりそこは海だった。

 窓はどうなっているのだろうと、先程首を吊って壊れたカーテンレールの下のカーテンをめくる。アルミサッシに囲まれたガラス窓は、白い何かで覆われて塞がれていた。一層、わけがわからなかった。しかしこの部屋が昼にもかかわらず急に暗くなった理由がわかった。

 空腹は募っていく。仕方ない、とぼくは覚悟を決める。

「三毛、冒険に行こう。どうせ夢なんだから、戻れるよ」

 三毛を抱き、歩き始める。夜に近づいた海は群青色の空と黒い海にピンク色のグラデーションをサンドイッチして、淡い月の下に揺れている。

 女の甲高い笑い声が、不意に聞こえた。ぼくはびくっと肩を揺らす。信じられないことに、三毛はその瞬間ぼくの腕から逃げ出し、あっという間に手すりに囲まれた廊下を駆け抜け、どこか遠くに行ってしまった。

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