第三十二章 嘘だと言ってよ

「嘘……だろ……!? どうして……!!」


 今、何を見ているのか。

 今、誰の姿を見つめているのか。


「どうしてあんたが……邪魔を……んぐっ!?」


 だが、俺がその憐れむような冷ややかな表情で静かに見つめている女神の名を口にすることはできなかった。俺とマリーを遮っていた手のひらが優しく俺の口をぴっちりと塞いでしまったからだ。


「むぐっ! むぐぐぐぐぐ……!!」


 声が出せない!

 っていうか、窒息しそうなんですけど!


 俺の正面にいるマリーもまた、その女神が誰だか一目で気付いていた。


「そんな……!」


 が、次に彼女が発した一言で、言葉を失った。金色の長い髪をした選ばれし至高の女神、《女神9ミューズ》の一人であり、歌を司る女神・アオイデーはそよ風に旋律を載せて歌うように言い放った。


「あなたに《女神の加護》を授けさせる訳にはいきません。もしそうすれば、勇者たる彼は無事では済まなくなるでしょう。彼の者の身を案じるのであればこそ、素直に止めておくのがよろしいかと」

「よくやった、女神・アオイデー」


 二、三度、手を打ち鳴らし、アルヴァーは言った。


「アオイデーの言うとおりだ。もしもお前が新たな《加護》なぞ手に入れようと物の数ではないがな? だが、英雄神たるこの俺は、きっと手加減抜きでお前の身体をバラバラにしてやっただろうとも! いいからもう諦めてそこで見物でもしてるんだな!」

「んぐぐぐ……ぷはぁっ!」


 ようやく解放された。だが、すっ、と息を吸った瞬間、アオイデーと目が合った。その鋭い目線に見つめられ、俺は叫ぼうとしていた言葉をすんでのところで呑み込む。


 分かってますよ、助けてくれたってことくらい!


 もしマリーの持つ《女神の加護》を授かってしまえば、俺が元の世界に戻れなくなるだろう、なんてことは承知の上だった。それに、絶対的な力の差があるアルヴァーは、まだ俺に対して本気の力を見せていないことくらい気付いていた。しかし、彼自身が口にしたとおり、《女神の加護》を手に入れた勇者を徹底的に排除しようと持てる力を解放して対抗する、そんな可能性は大いにあった。


 だからこそ、アオイデー――葵さんは止めたんだ。


 それでも――それでも!


 ただ己の無力さを噛み締め、事の成り行きを見守ることくらいしかできない俺の目の前で、遂に《封魔の儀》が始まった。


 ずらり。


 控えの男神よりところどころに宝玉を散りばめた鞘に納められた大剣を片手だけで無造作に受け取ったアルヴァーは一気にそれを抜き払う。白く輝く刀身は金属というよりも大理石のような滑らかな白亜の光を放っている。それをもう一方の手に軽く打ち付けながら、アルヴァーは魔王に向けて嘲笑うかのように告げた。


「いよいよだな。この《断魔剣》は、お前の魂とこの世界を繋ぎ止めている理を断ち切ってしまう力を持っている。切り離されたお前の魂は、二度とこの世界に戻ってはこれないだろう」


 しかし、言われた魔王は難しい顔付きをして眉間に皺を寄せていた。その感情を憎しみと呼ぶのは少し違う気がする。


「はっ! そう睨むなよ、魔王!」

「そうじゃないんだけどね」

「……何?」


 ピンと来てしまったのは俺だけだったらしい。


「違うんです、アルヴァー」

「……何だ、まだいたのか」

「そりゃいるでしょ。ぴくりとも動けないんだし」


 魔王自身が説明しようとしないので代わりに言う。


「ええとですね……そこの魔王、かなり目が悪いんですよ。何たって、魔王の居城にある薄暗い自分の部屋にこもりっきりで、ひたすらネットとゲームと漫画三昧の、ひきオタ生活の日々を過ごしてきたんですからね。要するに、この世界に害を成すことなんて一つもしてな――」

「余計なことは言うなエセ勇者。往生際が悪いぞ」


 肝心な科白は端折られてしまった。


「ううむ……それでは都合が悪いな。封滅する俺様の姿がはっきりと見えないのでは、《断魔剣》の力が十分に発揮できないのだ。おい、誰か! こいつの眼鏡を持ってきてやれ!」

「無駄だね」

「?」

「僕、眼鏡なんて持ってない。作ったこともない」

「何故だ?」

「別に。特に見たい物なんてなかったしね」

「……くそっ!」


 どうやらこの状態では儀式が続けられないらしい。困ったアルヴァーは、広場に集まった神と女神に向けて声を大きくして呼びかけた。


「誰かいないか!? こいつに眼鏡を作ってやれる神か女神は!」


 すると、列の前の方にいる一人の老神がおずおずと枯れた右手を挙げた。あ、さっきのおじいちゃん(神)じゃないか。どうも縁があるな。


「儂じゃろうな」

「そうか! あなたがいたな、アウグストゥス。早速頼まれてはくれないか?」

「いいとも。もちろんじゃ」


 老神・アウグストゥスは顎髭をしごきながら頷くと、左右に、ちょいちょい、ちょいちょい、と手招きをした。すると、それに応じるように数人の女神が彼の下へと寄り集まってきた。彼女たち一人一人の顔を見てそれぞれに頷き返すと、女神たちを従えたままの老神・アウグストゥスが壇上にゆっくりと上がってきた。


「まずは検眼からじゃな」

「い――いやいやいや! そんな余裕なぞない!」

「必要なんじゃよ。手早く済ませるわい」




 その後のやりとりはかなりシュールだった。


 壇上の右手に魔王が座らされ、左手にはアウグストゥスおよび女神たちが立ち、いずこからか持ち込まれた検眼表――例のCがいろんな角度で描かれているアレである――を魔王に向けて見せる。それから、えっとお、これはどっちかなぁ、などと甘ったるい声の女神が指示棒で一つ一つ指し示しては、むっつりと顔を顰めた魔王が素直に答えていった。




「……っ」


 明らかに苛立った様子のアルヴァーが辛抱できずに口を挟もうとすると、ようやく望む結果が得られたらしい老神はにこにこと相好を崩し、隣に立つ女神に右手で合図を送った。すると、アルヴァーの目の前に大き目の木製のトレイが差し出され、彼は仕方なく口にしようとした言葉を飲み下してから、代わりの問いを口に出した。


「……これは何だ?」

「眼鏡を作るにはフレーム選びが大切じゃ。ほれ、どれが似合うか、選んでおやりなさい」

「どうして俺が――!?」

「……おや? 解放していいのか、魔王を?」

「ええい! くそっ!!」


 確かに魔王に好き勝手にさせる訳にはいかないだろう。すっかり老神のペースに巻き込まれ、渋々アルヴァーは魔王のためのフレーム選びをする羽目になってしまった。とは言うものの、アルヴァーもまた生まれてこの方、眼鏡なんぞのお世話になったことはないらしい。難しい顔付きのまま、目の前に並べられた眼鏡のフレームをしばし親の仇のように睨み付けていたが、すぐに匙を投げて当の魔王本人に矛先を向ける。


「お、おい、魔王、お前はどういうのが好みだ!」

「……知る訳ないでしょ? 作ったことないんだってば。僕に似合うのを選んでよ――最後なんだし」

「おまっ……ふざけるなよ!?」

「ふざけてないってば。ここには鏡もないんだから、君のセンスに任せるしかないんだ――お願いだよ」

「……っ」


 最後の一言を耳にすると怒ったようにアルヴァーは魔王から視線を外して、再びフレームを睨み付ける作業に集中した。




 やがて――。


「これに決めたぞ、俺様は!」

「ほう」


 丸みを帯びた柔らかい印象のオーバル型、やや逆三角形に両脇の上がった楕円形が知的な印象のボストン型、角の部分に丸みのある逆台形型をした定番のウェリントン型、正円に近い楕円形がどこかコミカルで可愛らしい印象を与えるラウンド型――形一つとってもさまざまなフレームがある中で、アルヴァーが摘み上げ天に向けて高々とかざしたのは、直線的でシャープな印象のスクエア型のフレームだった。艶のないシルバーのメタルが鈍く光を反射している。ただ、少し意外なチョイスだと誰もが思っていた。見上げる魔王も思いは同じだったようだ。


「……どうしてそれなのさ? 僕がかけるには、随分と大人っぽい印象だと思うんだけど?」

「――!?」


 アルヴァーは明らかに動揺している。


「う、うるさい! い、嫌なら他の奴に選び直してもらえばいいだろうが!」

「怒らないでよ、アルヴァー」


 魔王は苦笑しつつ、アルヴァーに向けて、くい、と顔を突き出すようにして目を閉じた。


「他ならぬ君が選んでくれたんだもの、僕もそれがいいな。ね? かけてみてくれない?」

「わ――分かった……」


 こわごわ、と表現するのが相応しい何ともぎこちない手つきでアルヴァーは手の中のフレームをゆっくりと押し広げ、微かに震える手をそろそろと伸ばして魔王の顔に近づけていった。


「こ、これで……いいのか? 俺はちゃんとできているのか? ううう……緊張するな……」


 どうにか正しい位置にフレームをセットすると、手が離れた感触を感じ取った魔王が、ぱちり、と目を開いた。


「――!!」

「どう……かな? 変じゃない?」

「……」

「?」


 怖い顔をして黙り込んでしまったアルヴァーを魔王は不思議そうに見つめ、小首を傾げて問いかける。


「ど、どうしたんだよ、アルヴァー?」

「な……何でも……ない」


 アルヴァーは掠れた声を絞り出すと、背を向けて後ろに控えていた老神に命じた。


「……さあ、これでいいだろう。最後の仕上げをしてやってくれ。出来上がり次第、《封魔の儀》を再開する」






 この時、この瞬間は長くは続かない――。


 確かにアルヴァーはそう言っていた筈なのに、微かな希望を胸に見上げたところで、太陽と月が交わる昼でもなく夜でもないこの時、とかいう奴はしばらく終わってくれそうになかった。


 俺は落ち着かない気持ちのまま、着々と出来上がりつつある眼鏡の製作工程から視線を外して、すぐ隣で拘束されている女神に囁きかけた。


「……おい、マリーさんや?」

「何です、ショージさんや?」


 ノリ良いな、もう。


「あの元・勇者の二人は何処行っちゃったんだよ? 俺たちと一緒に牢を出た筈じゃなかったっけ?」

「そ、そうよね! あれ……おかしいな?」


 もう聞かれてたっていいや、と大して声を潜めもせずに話していると、第三者が口を挟んできた。


「あの二人なら来ませんよ。残念ですが――」


 くそっ。涼しい顔をしてさらりと言い放った女神の背中を憎々し気に睨み付けながら呟いた。


「……どうして裏切ったんですか、アオイデー?」

「あら、嫌ですわ……ありがとう、と感謝されるものだと思っていたのだけれど?」


 幸いにして俺たち三人の周りには他の神も女神もいない。太い鎖でぐるぐる巻きにされているので、手も足も出まい、と踏んでいるのだろう。その見張りを買って出たのがこのアオイデー――葵さんだった。だからこそ葵さんも、口調こそ丁寧だったけれどあまり周囲を気にせず俺たちに語りかけてきた。彼女の恩着せがましい態度に腹が立って、俺は語気荒く言い返す。


「《女神の加護》を授かってしまったら俺は、もう元の世界に元のままで戻ることはできない……そんなことくらい分かってたんです。それでも――!」

「――しっ」


 やべ。さすがに声が大きかったか。短く息を吐いてから、葵さんは応えた。


「そんな《加護》一つで敵う相手ではありませんよ、あの英雄神は。それに、力ずくでどうこうしても変わらない、それはあの二人が証明済みなのです」

「……マクマスさんとカラフェンさんが?」

「そうです」


 葵さんは頷いたようだ。


 確かにあの二人も言ってたっけ――もっと根本的なところ、根っこのところで酷い間違いをしてしまったんだ、と。きっとそれぞれのやり方でこの世界を変えようとしたんだろう。


 それにこうも言っていた――最悪の事態に直面したら迷わず自分の身を守るからね、と。形は違えど、二人は守りたい物を手に入れた。ならば、それを捨ててまで助けて欲しいとはとても言えなかった。


 少し間を空けてから、葵さんは静かに語る。


「女神・マリー=リーズの持つ《女神の加護》が、一体どんなものなのかは私は存じませんが――」


 よほどの仲でもなければ、互いの持つ《加護》を知る機会はない、だったっけか。


「――この世界を変えるには、神と魔王の在り方を変えなければならないのでしょうね。しかし、勇者であるあなたの手で変えることはできません。あなたにできることは、そのきっかけを作ることです」

「そんなこと言われてもどうしたらいいのか……」

「あら」


 もごもごとした俺の呟きを聞くと、葵さんは驚いたような声を上げ、振り返ってから笑った。


「もう作れたと思いますよ? きっかけならば」

「……は?」


 横を向くと、同じくきょとんとした表情のマリーと目が合った。続けて二人して首を傾げる。再び正面に視線を戻した時には、もう葵さんは俺たちの方を見ていなかった。


「……あ、葵さん?」


 思わず俺の口から飛び出した彼女のもう一つの名を咎めることなく、アオイデーはこう告げた。


「サポートくらいならしてあげられるかもしれない、私はそう言いましたからね――」

「……え?」


 何を――と思った時にはすでにアオイデーは一歩踏み出していた。そのままするすると滑るような足取りで魔王と対峙するアルヴァーの下へと歩み寄る。


「よろしいでしょうか、英雄神・アルヴァー様?」


 ドレスの裾を摘み上げ、丁寧に会釈をして告げる。


「お、おう。何だ、アオイデー?」

「彼の者たちより、そこの魔王が何かを隠し持っていることを聞き出しました。なので、急ぎそのことをお伝えしようと思いまして――」

「な、何!?」


 思わず身構えるアルヴァー。しかし、それを押し留めるようにアオイデーが身体を割り込ませた。


「いえ。アルヴァー様の御身を危うくする訳には参りません。私が魔王の身を検めるとしましょう」

「お……おう。それでは任せようか」


 構えを解く。

 アオイデーは膝をつくように身を屈め、怪訝そうに眉を顰めたままの魔王の身体へ手を差し出して触れた。そして、ごそごそと少年の身体を衣服の上からまさぐると、しばらくして固い手触りの物を探り当てた。瞬間、魔王の表情が強張る。


「あら? これ、何でしょうか?」

「……あんたには関係ないよ」

「そうでしょうか? この場で皆様に見ていただく価値のある物だと思いますけれど?」

「……嫌だと言ったら?」


 挑むような魔王の問いには、アオイデーは答えなかった。拘束され、身動きのできない魔王が身を捩るようにして抗うのも厭わず、彼の服の下から隠されていたそれを取り出してしまう。




 ……ん?




 んんんんんんんんんんんんんんんんんんんん!?




 取り出され、白日の下に晒された物を目にした俺は、目玉が零れ落ちそうなほど仰天して卒倒しそうなほどの衝撃を受けていた。




 そして、




「ぎ――ぎゃああああああああああああああ!!」


 案の定、隣にいるマリーが今まで聞いたことのない野生動物じみた本能の絶叫を上げた。


「やめてやめてやめてやめてやめてえええっ!!」


 そして、屈強な戦士でもその戒めを解くことなど不可能と思える程に強固で厳重に巻かれていた太い鎖を今にも引き千切りそうなくらい、びったん!びったん!と暴れ始めた。慌てて止めに入ろうとした男神たちが思わず怯んで後退った程である。


「落ち着け、マリー!!」

「これが……! 落ち着いて……! んがあああああああああああああああっ!!」


 あかん。完全に凶戦士バーサーカー状態になっとる。だが、マリーが激情に駆られ、半狂乱になるのも無理はなかった。




 アオイデーが今その手で高々と掲げている物。

 それは――。




 俺たちサークル『まりーあーじゅ』が初めて頒布したの同人誌、『抱かれたい神一位!の俺様英雄神は、純情ビッチでした☆』に他ならなかったのだ。




 うぉおおおおおおおおおおおおおおおおいっ!

 何してくれちゃってんの、あのド変態っ!?




 どれだけアピールしようとも一切目を合わせようとしないアオイデーの澄まし顔を睨み付け、俺は何とか声は出さず、心の中だけで叫んでいた。何が、サポートくらいならしてあげられるかもしれない、だ。手助けというよりむしろ、破壊工作の一種だと宣言された方がよほど理解できたに違いない。


「……何だ、そいつは?」


 騒然とした群衆の中で、一際困惑した表情を浮かべていたのはアルヴァーだった。今口にした問いの答えを知っているであろう魔王に目配せしたものの、魔王は気まずそうに眼を反らしてしまう。仕方なく目の前のアオイデーを見つめ直すと、こちらも軽く肩を竦めて見せるだけだ。くそ、知ってるくせに。


「寄越せ。見せてみろ」

「見ないでええええええええええええええっ!!」


 間髪入れずにマリーが涙目で訴えたが――ほんの一瞬だけアルヴァーを躊躇させるくらいしか効果はなかった。一瞥した視線をあっさりと戻し、アルヴァーは表紙に手をかけ――。




 ぺらり。




「ひやああああああああああああああああっ!!」




 ぺらり。




「ふごおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」




 ぺらり。




「ほにゃああああああああああああああああ!!」


 あーもう。耳元でうるせえってば。




 アルヴァーがページを捲り、静かに読み進めていくたび、文字通り手も足も出せないマリーは悲鳴と表情だけで悶絶し続けていた。あまりに哀れで、とても笑ってやれる気にもなれない顔芸大会が俺のすぐ横で絶賛開催中である。




 ぺらり。




「ふえええ……! ふえええ……! えぐっ!!」


 とうとう幼児退行現象を引き起こしたマリーが、とうとう顔中を涙と鼻水でべっちょべちょにし始めた頃、アルヴァーは手にした同人誌を閉じた。


「……」


 が、何も言わない。


「……な物」


 やがて、微かに震える呟きがその口から漏れる。


「よくも……よくもこんな物を……この天界を統べる頂点、英雄神たる俺様に見せたなっ、魔王!!」

「……頼んでないし」


 居心地悪そうに視線を床の上で泳がせながら、魔王は不貞腐れたように呟き返した。確かに魔王の意志とは無関係である。それに何より、彼自身、暴かれたくなかった嗜好だったに違いない。


「くそっ! こんな……こんな不浄の物を!」


 アルヴァーは真っ赤になって――どころか、どす黒く顔中を染め上げてひたすらに激昂していた。


「し、しかもっ! 至高の存在である我ら神が……魔王に屈するだと!? ありえん! 愚弄するにも程がある! それに……それにだ……!」


 そこで急にアルヴァーは、今にも泣き出しそうに切なげな表情を浮かべた。


「あ――あれだ! あんなことやこんなことを……お、お前はこんな物を見て、この俺様を嘲笑っていたのか!? そうか!? そうなのだな!? ええい、汚らわしい! 誰の手による物かは知りたくもないが、こんな物を描いた奴は頭がおかしい!!」


 その科白を耳にした途端、魔王の表情が変わった。


「……ちょっと待ってよ、アルヴァー」

「!?」


 二人の視線が激しく交差する。


「僕の趣味嗜好については弁解するつもりもないし、変えようだなんて思わない。……けどね? それを描いた人を悪く言うのは絶っ対に許さないよ!!」

「何を下らん――!」

「黙れ!」


 一笑に付して聞き流そうとするのを魔王は許さなかった。少年の身体から出たとは思えない程の声量でアルヴァーの科白を両断する。


「……くだらない? 上等だよ! くだらなくて結構さ! それでもね、その中にはそれを描いた作者の夢や希望や、止められない感情が溢れてるんだ! それを見て、何とも思わなかったの!? 何も感じなかったのかよ!?」


 俺たちが今まで知らなかった――分かってやることができなかった魔王の感情が言葉になって溢れてくる。そして、哀しみも。涙も。


「少なくとも僕は違った……誰もいない魔王の居城の中で一人きりだった僕に、何処までも広がる想像の世界を与えてくれたんだ! それは、ほんの一瞬だけだったかもしれない。……それでもね、僕は何処まででも飛べる気がしたんだ! 初めて、一人じゃない、って思えたんだ! なのに……それなのに君は、そうやって……っ!」

「お、俺は……ただ……!」


 正面から激しい感情をぶつけられ、アルヴァーは戸惑うことしかできないようだった。そして、魔王の怒りはまだ治まっていなかった。


「空想と妄想しかなかった僕には、とても大切な物なんだよ、それは! 何も知らない君が、勝手な上辺だけの薄っぺらい感情で軽んじて良い物なんかじゃないんだ! 今すぐ返せ……返せよ! 君にそれを手にする資格なんてない! でないと――!!」


 ようやく何とか態勢を立て直したアルヴァーは、立て続けに浴びせられる激しい言葉に苛立ったように手にした《断魔剣》を突き付けるようにして魔王に向けて言い返す。


「……へえ。でなけりゃ一体どうするというんだ、魔王よ? この世界を滅ぼすとでも言うつもりか? 手も足も出ないそのザマで! この俺様に封じられ、せいぜい未来永劫に恨めばいい! ま、俺様はそんなモン、少しも怖くねえがな!!」

「……だよ」

「何?」


 俺の耳にも魔王の呟きは届かなかった。

 魔王はもう一度、声を震わせて叫んだ。




「逆だよ、って言ったんだ! 嫌いだ……大っ嫌いだ! もう僕は、君のことなんて二度と思い出してなんかあげない! お前のことなんて、綺麗さっぱり記憶の中から消し去ってやる!!」




「――っ!?」


 アルヴァーの動きが、止まっていた。


「俺との記憶を……消してしまう……のか? そう……言ったのか……? そんな酷いことを……言うんだな、お前は……」


 アルヴァーは魔王を見つめたまま笑い――涙して――表情を消し去った。そして、その手に握る《断魔剣》をゆっくりと上段に構える。


「……」


 何も言わない。


「……」


 アルヴァーの瞳を見つめる魔王もまた無言だった。


「……やるぞ?」

「好きにしなよ」


 二人の視線と会話が交差して――。




「お、おい! ま、待つのじゃ!」


 慌てたのは老神・アウグストゥスだった。


「出来上がった! これをかけてやらねば儀式は無駄になるぞ! さあ、儂の会心の一作じゃわい!」


 出来立ての眼鏡を手にした女神が弾かれたように走り出てきたかと思うと、大急ぎで魔王の目元に眼鏡をかけてやり、鼻当ての位置とツルの部分の長さを調整する。一通りのやるべきことを済ませた女神が、どう?と小首を傾げると、何処か照れたような表情で魔王は笑い返した。すぐその笑顔を消し、魔王は言う。


「さ、続きを始め――あれ?」


 が、彼の目のレンズ越しに映った世界は、今までのものとはまるで違っていた。


「アルヴァー……? 君は……何処かで……?」


 だが、転生のたびに記憶のすべてを失う運命さだめを持つ魔王にはそれ以上のことは思い出せない。軽く首を振るようにして湧き上がった違和感を追い払い、魔王は告げた。


「……いいや、何でもない。続けて、アルヴァー」

「分かった」


 ちゃきり。


 逞しく鍛え上げられた上半身が隆起し、手にした《断魔剣》を再び最上段に構え直す。


「……行くぞっ!!」




 裂帛の気合いと共に、




 共に――?




 ……からん。




「俺には……できない……できる訳ないだろっ!」


 悲痛な叫びを漏らして剣を取り落としたアルヴァーは、その場に崩れるように泣き始めたのだった。



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